”価値なきものを誰が振り返るのか” ヌビアの悲哀
ヌビア博物館は、エジプトの最北に近い場所、アスワンにある。
小高い丘の上、バスマ・ホテルの真向かいにある、こじゃれた建物がそうだ。
ここを訪れた時、観光客はほとんど居なかった。広いホールには我々と、白人観光客が数人。そして、滞在した数時間の間、他にここを訪れる客は他にはいなかった。
ヌビア博物館には、エジプト側ヌビアで発掘されたさまざまな遺物と、アスワン・ハイ・ダムによって湖のそこに沈み、永遠に失われたヌビア人の集落の記憶や伝統的な暮らしが納められている。一見して、「地味なエジプトの遺物」ばかりが展示されている博物館だが、そこは「過去50年に失われたもの」たちが眠る棺でもある。
気候変動で砂漠が広がる以前、ナイル河畔にゾウやキリンが住んでいた時代の洞窟絵の破片。
まだナイルがせき止められていなかった頃、アスワン・ダムだけが在った頃の数多くの白黒写真。
河がせき止められる以前に存在した神殿、遺跡の元の位置の記録。
それらは、何千年という時を経たのちにわずかな時間で解体された、永遠に戻らない風景なのだ。
ずいぶん感傷的に聞こえるだろうが、ヌビア人もまた、「古代エジプト」の一部であることは事実だ。
エジプト古代王国の始まりから「劣った隣人」として虐げられ、長い期間を奴隷として過ごし、時には戦い、時にはそれなりに友好な関係も結び…、皮肉にも、他国の支配下に置かれエジプト人がエジプトらしさを失いつつあった頃、頑固にその伝統を守っていたのは、ヌビア人だった。
アスワン・ハイ・ダムが出来ることになったのち、水没の危険のあった神殿の一部は、エジプトから外に持ち出された。以下がそのリストだ。
これらは、すべてアスワン以南のエジプト側ヌビアにあった神殿。
アスワン・ハイ・ダムの建設に伴い水没する危険性があったため、ユネスコの遺跡救済キャンペーンの時に見返りとして与えられたものだ。
良くない言い方をすれば、エジプトに金を出す「報酬」として与えられたものともいえる。この時に大いに協力すれば、その後の優先的な発掘権がもらえるという利点もあった。
その点、スーダン側ヌビアには、目だった遺跡などが何もなく、報酬が期待できなかったために調査が遅れた、という。
当時のスーダン文部科学大臣、アイアダ・アルバブの言葉が以下のように残っている。
エジプトから外に持ち出された神殿は、二度とエジプトには戻ってこないだろう。たとえ戻されたとしても、神殿のあった場所は既に水の底だ。
そして、目立つものが無い為に後回しにされ、存在すら知られずにダムの底に消えた遺跡も、もはや日の目を見ることはない。
運良く永遠の忘却を免れたもの、価値がないと見なされて忘れ去られたもの、特別ものとして国内に留め置かれたもの、ヌビアの遺跡はそれぞれに、異なった道を辿った。ヌビア博物館に保存されているのは、それら数多のものの中のごく一部だ。
ほとんど説明もなく、あまり整理されているとも言いがたいその場所にはしかし、古代エジプトの始まりから終わりまでの殆ど全てがあると私は思った。つまり、王権すら存在しない紀元前7千年の石器時代から、ダム建設によりナイルという王国の象徴が息を止めるまでの、9千年にも及ぶすべてだ。
人類の遺産における真の輝きとは何か。
黄金や宝石のような、分かりやすい目に見える輝きだけがそうなのか。
価値がないから誰も見向きもしないのだ、と言う人もいるだろう。ならば、それは誰が決める?
考古学者が決めるのか。ならば考古学者とは人類の歴史に価値をつける権利をもった人たちのことか。
明確な答えなどないことは分かっている。しかし、私は勝手にこう思う。
この世のすべては無価値なものだと。
しかし、それを重要だと思う人がいれば、価値は作られる。
ヌビア博物館には時間を割いて見に行くに値する、大いなる価値がある。
小高い丘の上、バスマ・ホテルの真向かいにある、こじゃれた建物がそうだ。
ここを訪れた時、観光客はほとんど居なかった。広いホールには我々と、白人観光客が数人。そして、滞在した数時間の間、他にここを訪れる客は他にはいなかった。
ヌビア博物館には、エジプト側ヌビアで発掘されたさまざまな遺物と、アスワン・ハイ・ダムによって湖のそこに沈み、永遠に失われたヌビア人の集落の記憶や伝統的な暮らしが納められている。一見して、「地味なエジプトの遺物」ばかりが展示されている博物館だが、そこは「過去50年に失われたもの」たちが眠る棺でもある。
気候変動で砂漠が広がる以前、ナイル河畔にゾウやキリンが住んでいた時代の洞窟絵の破片。
まだナイルがせき止められていなかった頃、アスワン・ダムだけが在った頃の数多くの白黒写真。
河がせき止められる以前に存在した神殿、遺跡の元の位置の記録。
それらは、何千年という時を経たのちにわずかな時間で解体された、永遠に戻らない風景なのだ。
ずいぶん感傷的に聞こえるだろうが、ヌビア人もまた、「古代エジプト」の一部であることは事実だ。
エジプト古代王国の始まりから「劣った隣人」として虐げられ、長い期間を奴隷として過ごし、時には戦い、時にはそれなりに友好な関係も結び…、皮肉にも、他国の支配下に置かれエジプト人がエジプトらしさを失いつつあった頃、頑固にその伝統を守っていたのは、ヌビア人だった。
アスワン・ハイ・ダムが出来ることになったのち、水没の危険のあった神殿の一部は、エジプトから外に持ち出された。以下がそのリストだ。
ダボード神殿 スペイン/マドリード オエステ公園
デンドゥル神殿 アメリカ/ニューヨーク メトロポリタン美術館
エル・レスィーヤ岩窟神殿 イタリア/トリノ エジプト博物館
カラブシャ神殿(の門) ドイツ/ベルリン エジプト博物館
ターファ神殿 オランダ/ライデン 古代博物館
これらは、すべてアスワン以南のエジプト側ヌビアにあった神殿。
アスワン・ハイ・ダムの建設に伴い水没する危険性があったため、ユネスコの遺跡救済キャンペーンの時に見返りとして与えられたものだ。
良くない言い方をすれば、エジプトに金を出す「報酬」として与えられたものともいえる。この時に大いに協力すれば、その後の優先的な発掘権がもらえるという利点もあった。
その点、スーダン側ヌビアには、目だった遺跡などが何もなく、報酬が期待できなかったために調査が遅れた、という。
当時のスーダン文部科学大臣、アイアダ・アルバブの言葉が以下のように残っている。
「…わが国においては、あらゆる発掘物は発見物の50%をうけとる権利を常に与えられてきたし、今も与えられている。だが、これがわれわれの提供しうる唯一の対価である。われわれは、博物館の蔵品の中に、譲渡し得る品を持たない。われわれは、危機にさらされている地点からの発見物が不十分なときに、返礼として提供するサッカラのような魅力的な地点をもたない。さらにまたわれわれは、いくつかを外国へ運び去らせてもよいほど十分な神殿と裁断を、脅かされている地域内に持っていない。…」
エジプトから外に持ち出された神殿は、二度とエジプトには戻ってこないだろう。たとえ戻されたとしても、神殿のあった場所は既に水の底だ。
そして、目立つものが無い為に後回しにされ、存在すら知られずにダムの底に消えた遺跡も、もはや日の目を見ることはない。
運良く永遠の忘却を免れたもの、価値がないと見なされて忘れ去られたもの、特別ものとして国内に留め置かれたもの、ヌビアの遺跡はそれぞれに、異なった道を辿った。ヌビア博物館に保存されているのは、それら数多のものの中のごく一部だ。
ほとんど説明もなく、あまり整理されているとも言いがたいその場所にはしかし、古代エジプトの始まりから終わりまでの殆ど全てがあると私は思った。つまり、王権すら存在しない紀元前7千年の石器時代から、ダム建設によりナイルという王国の象徴が息を止めるまでの、9千年にも及ぶすべてだ。
人類の遺産における真の輝きとは何か。
黄金や宝石のような、分かりやすい目に見える輝きだけがそうなのか。
価値がないから誰も見向きもしないのだ、と言う人もいるだろう。ならば、それは誰が決める?
考古学者が決めるのか。ならば考古学者とは人類の歴史に価値をつける権利をもった人たちのことか。
明確な答えなどないことは分かっている。しかし、私は勝手にこう思う。
この世のすべては無価値なものだと。
しかし、それを重要だと思う人がいれば、価値は作られる。
ヌビア博物館には時間を割いて見に行くに値する、大いなる価値がある。