ドロシー・イーディ/古代エジプトに生きたと信じた女性
一人の人間が、同時に二つの世界に生きることは可能か? この問いの答えはたぶんイエスであり、やろうと思えばいくつでも、異なる世界に生きることは出来るだろう。
現代的な倫理観を持ち、最新の英語雑誌やラジオで時事ニュースを仕入れ、世間話をしながら、同時に古代エジプトの神官として神殿に祈りを捧げ、幽霊と語り、紀元前のことをまるで昨日のように懐かしむ。
しかし旅人として様々な世界を訪れることはあっても、過去の、ある一定の時間/場所に、一生を通して訪れ続ける人は、そうは居ない。これは、古代エジプトを自らの「魂の故郷」とした、ある女性の生涯の物語だ。
ドロシー・イーディ、アイルランド系の血を引く、英国生まれの英国人。通称、オム・セティ(オンム・セティ)。
「セティの母」という意味で、現代のエジプトでも使われる、"誰それ君ちのお母さん"のような感じの呼び名だ。
彼女は、幼い頃から、自分は古代エジプト人の生まれ変わりと信じ、独学でエジプト学を学び続けた特異な人物だ。
エジプト人に求婚されたことを切っ掛けにエジプトに渡り、一児(息子・セティ)を出産。
その後 離婚し、息子も別れた夫に引き取られることになったが、エジプトに留まり続け、独自に研究を続けた。
晩年は、過去の自分が生きたとするアビドスの地に移住。前世の自分が仕えたアビドス神殿の側に住み、そこで生涯を終えた。
オム・セティの業績は、自らを転生者と称したことよりも、アマチュア考古学者として、多くの学者たちの手助けをしたことで知られている。大英博物館に足繁く通い、独学でヒエログリフを勉強し、カイロの考古学博物館の職員として雇われた。過去の幻視やリアルな前世の物語は、エジプト学の豊富な知識と現地で暮らした経験があれば語れるものであり、彼女が真に転生を経験していたか/過去の記憶があったか ということの裏づけにはならない。
だが、この人の中では、それは「真実」であり、疑うことは無かった。
現実の自分と矛盾することなく二重に存在できる、もう一人の自分を、死ぬまで抱き続けた――
言ってしまえば近代イギリス人でありながら、死ぬまで古代エジプト人としての自分も"矛盾なく演じきった"人物なのである。
私自身は、生まれ変わりは信じていない。
と、いうより、出来ることなら生まれ変わりたくない、面倒くさいし。
もしどうしても生まれ変わらなくてはならないというのなら、人間なんて面倒くさいものは勘弁してほしい。次があるなら、深海魚とか鳥とかカナブンなんかが良さそうだ。深海魚なら眼精疲労で疲れることはないし、鳥なら目的地まで直線移動できるし、カナブンなら寒い冬は地面から外に出なくて済む。
だいたい人間なんて難易度の高いものに生まれるから、前世の記憶とか罪とか、遣り残したこととかを延々引きずらなくちゃならないわけで…。ノルマの低い生き物に生まれたほうが圧倒的に楽じゃない。
どういうわけか今は人間なので、人間として及第点になるような(心残りのせいでまた人間にならないような)生き方は、するつもりだけど。これがまた面倒で…
と、まぁそんな話はどうでもよく。
重要なのは、彼女にとって「前世」はあくまで前世であり、現世は現世、同時に存在しても問題なかったという点だ。
オム・セティの前世の知識は、全てを最初から知っていたわけではない。
膨大なエジプト学の知識も、古代の祈りの言葉も、彼女自身が若い頃から努力して身に着けたものだ。オム・セティは現世に満足していた。現世の気に入らないところは力ずくでも変えていくだけの強い意志と、力を兼ね備えていた。
真剣に、前世で遣り残したこと…「神殿のものとして、神殿のために生涯を終える」ということを、今生でやり遂げようとし、そのために全力で生きた。
この人にとっての前世とは、現実からの軽々しい逃避ではなく、"現実"と平行したもう一つの"現実"に過ぎなかったのだろう。
彼女自身、あまり人に語ろうとはしなかったという転生の物語を本の最初に持ってきて、タイトルに「転生」とつけることは、私には、あまり妥当ではないように思える。(これは訳者の問題ではなく原著のせいなんだろうけど…)
現実からの逃避目的で空想を楽しむ人々が、うっかり彼女の力強い生き方に触れたら、自分の淡い幻想を打ち壊された気になって、萎れてしまうんじゃないだろうか? 空想の翼を思う存分広げたければ、確固たる現実の土台が必要だ。前世を思い出したければ現世で過去を学べ。
「自ら拓いた道を日々旅するならば、汝は望むところに辿り着くであろう」。
実際に一生を「前世」のために捧げた女性が身をもって示した "簡単にあっちの世界には行けない" という実践例は、逃避としての前世を否定しているように思える。
転生―古代エジプトから甦った女考古学者
現代的な倫理観を持ち、最新の英語雑誌やラジオで時事ニュースを仕入れ、世間話をしながら、同時に古代エジプトの神官として神殿に祈りを捧げ、幽霊と語り、紀元前のことをまるで昨日のように懐かしむ。
しかし旅人として様々な世界を訪れることはあっても、過去の、ある一定の時間/場所に、一生を通して訪れ続ける人は、そうは居ない。これは、古代エジプトを自らの「魂の故郷」とした、ある女性の生涯の物語だ。
ドロシー・イーディ、アイルランド系の血を引く、英国生まれの英国人。通称、オム・セティ(オンム・セティ)。
「セティの母」という意味で、現代のエジプトでも使われる、"誰それ君ちのお母さん"のような感じの呼び名だ。
彼女は、幼い頃から、自分は古代エジプト人の生まれ変わりと信じ、独学でエジプト学を学び続けた特異な人物だ。
エジプト人に求婚されたことを切っ掛けにエジプトに渡り、一児(息子・セティ)を出産。
その後 離婚し、息子も別れた夫に引き取られることになったが、エジプトに留まり続け、独自に研究を続けた。
晩年は、過去の自分が生きたとするアビドスの地に移住。前世の自分が仕えたアビドス神殿の側に住み、そこで生涯を終えた。
オム・セティの業績は、自らを転生者と称したことよりも、アマチュア考古学者として、多くの学者たちの手助けをしたことで知られている。大英博物館に足繁く通い、独学でヒエログリフを勉強し、カイロの考古学博物館の職員として雇われた。過去の幻視やリアルな前世の物語は、エジプト学の豊富な知識と現地で暮らした経験があれば語れるものであり、彼女が真に転生を経験していたか/過去の記憶があったか ということの裏づけにはならない。
だが、この人の中では、それは「真実」であり、疑うことは無かった。
現実の自分と矛盾することなく二重に存在できる、もう一人の自分を、死ぬまで抱き続けた――
言ってしまえば近代イギリス人でありながら、死ぬまで古代エジプト人としての自分も"矛盾なく演じきった"人物なのである。
私自身は、生まれ変わりは信じていない。
と、いうより、出来ることなら生まれ変わりたくない、面倒くさいし。
もしどうしても生まれ変わらなくてはならないというのなら、人間なんて面倒くさいものは勘弁してほしい。次があるなら、深海魚とか鳥とかカナブンなんかが良さそうだ。深海魚なら眼精疲労で疲れることはないし、鳥なら目的地まで直線移動できるし、カナブンなら寒い冬は地面から外に出なくて済む。
だいたい人間なんて難易度の高いものに生まれるから、前世の記憶とか罪とか、遣り残したこととかを延々引きずらなくちゃならないわけで…。ノルマの低い生き物に生まれたほうが圧倒的に楽じゃない。
どういうわけか今は人間なので、人間として及第点になるような(心残りのせいでまた人間にならないような)生き方は、するつもりだけど。これがまた面倒で…
と、まぁそんな話はどうでもよく。
重要なのは、彼女にとって「前世」はあくまで前世であり、現世は現世、同時に存在しても問題なかったという点だ。
オム・セティの前世の知識は、全てを最初から知っていたわけではない。
膨大なエジプト学の知識も、古代の祈りの言葉も、彼女自身が若い頃から努力して身に着けたものだ。オム・セティは現世に満足していた。現世の気に入らないところは力ずくでも変えていくだけの強い意志と、力を兼ね備えていた。
真剣に、前世で遣り残したこと…「神殿のものとして、神殿のために生涯を終える」ということを、今生でやり遂げようとし、そのために全力で生きた。
この人にとっての前世とは、現実からの軽々しい逃避ではなく、"現実"と平行したもう一つの"現実"に過ぎなかったのだろう。
彼女自身、あまり人に語ろうとはしなかったという転生の物語を本の最初に持ってきて、タイトルに「転生」とつけることは、私には、あまり妥当ではないように思える。(これは訳者の問題ではなく原著のせいなんだろうけど…)
現実からの逃避目的で空想を楽しむ人々が、うっかり彼女の力強い生き方に触れたら、自分の淡い幻想を打ち壊された気になって、萎れてしまうんじゃないだろうか? 空想の翼を思う存分広げたければ、確固たる現実の土台が必要だ。前世を思い出したければ現世で過去を学べ。
「自ら拓いた道を日々旅するならば、汝は望むところに辿り着くであろう」。
実際に一生を「前世」のために捧げた女性が身をもって示した "簡単にあっちの世界には行けない" という実践例は、逃避としての前世を否定しているように思える。