トンデモ説は、かつて信じられた学説の成れの果てかもしれない
たまに見かける説で、出所のよく分からないこんなものがある。
・エジプトの初期文明の起源はメソポタミア
・初期王朝の王たちはメソポタミアから来た
・初期の王たちの守護神だったホルスの起源は東アジアorメソポタミア
エジプト文明が北から発展していった説 なわけだが、実際の先王朝時代の遺跡の分布からは、南(ナイル上流)から北(ナイル下流)へと文明が塗りかわっていった様子が伺える。
簡単にいうと、北と南で造られている土器のカタチや模様の流行が異なっていたところ、ある時期から南の流行が北まで到達して、出土する土器が統一化された、ということ。土器以外に石器とか墓の作り方とかでもその辺りが分かるらしい。
そんなわけで、北から文明から広がった説の根拠が何なのかよく分からないと思っていたのだけれど、もしかすると大元のソースはピートリ(Petry)さんかもしれない。
100年くらい前は、初期王朝のあんまり目立たない遺跡の発掘などはあまりやっていなくて、データも不自由分だったんだそうだ。で、その時代には「伝播主義」というモノが盛んだった。
伝播主義というのが今ひとつ言葉として分かりづらいが、端的にその一部を切り出すならば、「文明は、より優れたところから、劣っているほうへもたらされる」。つまり、エジプトに初期の王朝が作られた頃、メソポタミアはそれに先んじて王権を確立し、都市を形成していたのだから、より優れた文明であるメソポタミアからエジプトへ王権の枠組みや都市の作り方などの文明が伝達されたはずだ、という考え方。
しかし、この考え方の危険なところは、「文明は一方通行」という考え方にある。
文明に単純な優劣をつけることは不可能だし、大抵の場合は相互に影響しあうものだ。
そして、もしも文明が優れたほうから劣っているほうに一方的に流れるものとするならば、地球上で最古の優れた文明に文明を与えた人々は、この地上の存在ではなかったことになってしまう。
行き着いた先が袋小路だと、現実にありそうもない回答を探さなくてはならない。
メソポタミアを地球上最古の文明、と仮定するならば、メソポタミアに文明を与えたのは、神か、宇宙人か、未来人あたりにしないと、この説は行き詰ってしまうというわけだ。
世界自由の巨石文明(エジプト、ケルト、マヤ・インカ、イースターあたり)を一つの流れのもとに説明しようとしたり、それらに共通する、古代よりも古い超古代文明がある、としたりするトンデモ説の根底には、かつて信じられた文明発祥に関する未熟な学説があったりするんではないのかなあ… と、いうのが、自分の思うところ。
現在では、「伝播主義」はそのまま使われることはあんまりないらしい。
文明は、各々の地方で自発的に発生して、近隣の文明とお互いに切磋琢磨しあううちに高められていく、というような考え方のほうが正解に近いと考えられている。私もこっちのほうが正しいと思う。
べつにすべての文明に共通の大元なんて無くてもいいっしょ。(笑)
と、いうわけで最初に戻ると、エジプトの王様/神様の由来をメソポタミアに求めるのって、文明が一方的に片方から片方へ流れてくる前提のもとに考えられていたモデルなのではないかと思い立ったわけだ。
エジプト文明は確かに、より古い時代から頑張ってたメソポタミア文明からの影響を受けてはいると思う。だけど、そのすべてが他所から伝わってきたものではないようだ。
文字や建築技術など、メソポタミア由来の技術を持っていた人々の墓がサッカラにあって、メソポタミア由来の工法で作られたマスタバもサッカラにある。初期王朝の王様たちの墓は上エジプトのアビュドスにある。ということは、技術は北から、支配は南から広がっていったんじゃないのかなあ…。両者の拮抗する丁度いいところが中間のメンフィス(初代首都)で、ピラミッド建設もメンフィスに首都が移ってから行われるようになっているわけだし。
文明が相互影響しあうものとすれば、技術の伝播と信仰の伝播が別々に発生してもおかしくないし、信仰は自分たちの昔ながらのものを持ったまま、技術だけ他所から受け入れるのは不可能じゃない。
自分的には、初期王朝の王様たちは上エジプト出身で、鷹神信仰の起源も上エジプトだとみていいと思う。
・エジプトの初期文明の起源はメソポタミア
・初期王朝の王たちはメソポタミアから来た
・初期の王たちの守護神だったホルスの起源は東アジアorメソポタミア
エジプト文明が北から発展していった説 なわけだが、実際の先王朝時代の遺跡の分布からは、南(ナイル上流)から北(ナイル下流)へと文明が塗りかわっていった様子が伺える。
簡単にいうと、北と南で造られている土器のカタチや模様の流行が異なっていたところ、ある時期から南の流行が北まで到達して、出土する土器が統一化された、ということ。土器以外に石器とか墓の作り方とかでもその辺りが分かるらしい。
そんなわけで、北から文明から広がった説の根拠が何なのかよく分からないと思っていたのだけれど、もしかすると大元のソースはピートリ(Petry)さんかもしれない。
100年くらい前は、初期王朝のあんまり目立たない遺跡の発掘などはあまりやっていなくて、データも不自由分だったんだそうだ。で、その時代には「伝播主義」というモノが盛んだった。
伝播主義というのが今ひとつ言葉として分かりづらいが、端的にその一部を切り出すならば、「文明は、より優れたところから、劣っているほうへもたらされる」。つまり、エジプトに初期の王朝が作られた頃、メソポタミアはそれに先んじて王権を確立し、都市を形成していたのだから、より優れた文明であるメソポタミアからエジプトへ王権の枠組みや都市の作り方などの文明が伝達されたはずだ、という考え方。
しかし、この考え方の危険なところは、「文明は一方通行」という考え方にある。
文明に単純な優劣をつけることは不可能だし、大抵の場合は相互に影響しあうものだ。
そして、もしも文明が優れたほうから劣っているほうに一方的に流れるものとするならば、地球上で最古の優れた文明に文明を与えた人々は、この地上の存在ではなかったことになってしまう。
行き着いた先が袋小路だと、現実にありそうもない回答を探さなくてはならない。
メソポタミアを地球上最古の文明、と仮定するならば、メソポタミアに文明を与えたのは、神か、宇宙人か、未来人あたりにしないと、この説は行き詰ってしまうというわけだ。
世界自由の巨石文明(エジプト、ケルト、マヤ・インカ、イースターあたり)を一つの流れのもとに説明しようとしたり、それらに共通する、古代よりも古い超古代文明がある、としたりするトンデモ説の根底には、かつて信じられた文明発祥に関する未熟な学説があったりするんではないのかなあ… と、いうのが、自分の思うところ。
現在では、「伝播主義」はそのまま使われることはあんまりないらしい。
文明は、各々の地方で自発的に発生して、近隣の文明とお互いに切磋琢磨しあううちに高められていく、というような考え方のほうが正解に近いと考えられている。私もこっちのほうが正しいと思う。
べつにすべての文明に共通の大元なんて無くてもいいっしょ。(笑)
と、いうわけで最初に戻ると、エジプトの王様/神様の由来をメソポタミアに求めるのって、文明が一方的に片方から片方へ流れてくる前提のもとに考えられていたモデルなのではないかと思い立ったわけだ。
エジプト文明は確かに、より古い時代から頑張ってたメソポタミア文明からの影響を受けてはいると思う。だけど、そのすべてが他所から伝わってきたものではないようだ。
文字や建築技術など、メソポタミア由来の技術を持っていた人々の墓がサッカラにあって、メソポタミア由来の工法で作られたマスタバもサッカラにある。初期王朝の王様たちの墓は上エジプトのアビュドスにある。ということは、技術は北から、支配は南から広がっていったんじゃないのかなあ…。両者の拮抗する丁度いいところが中間のメンフィス(初代首都)で、ピラミッド建設もメンフィスに首都が移ってから行われるようになっているわけだし。
文明が相互影響しあうものとすれば、技術の伝播と信仰の伝播が別々に発生してもおかしくないし、信仰は自分たちの昔ながらのものを持ったまま、技術だけ他所から受け入れるのは不可能じゃない。
自分的には、初期王朝の王様たちは上エジプト出身で、鷹神信仰の起源も上エジプトだとみていいと思う。