下ヌビアの文化グループめも

ヌビアの文化グループについての資料があんまり見つからないので、とりあえず、まとめメモ

エジプトの学者さんは、ヌビア=文明未発達の奴隷の国 のような概念がある人と、ヌビア=最後の聖域 のような概念のある人がいて意見がバラバラだ。好きな時代によって、見え方は異なるのだろう。

まぁぼちぼち資料集めてまとめていくかと。

最終追記: 2008/10/15


ヌビア古名 イアム、イレム、タ=セティ、クシュ


■Aグループ(A層位、Aホライズン) 3,500-2,800 BC

「Aグループ」という名前はアメリカの考古学者、ジョージ・ライスナーが最初に使った。
その後、W.Yアダムズによって、「ホライズン(層)」と呼ぶことが提案される。ヌビアの文明の移り変わりとしてはA→C。

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<2017/11/25追記分>

Bグループがない理由:
先行研究としてGeorge Andrew Reisnerが分類した時点ではA、B、Cのグループだったが、その後の研究でBはAグループの一部として分類するのが妥当、ということになって廃止されたため。
その後、Xグループが追加されて今に至る。
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下ヌビアで紀元前3500年ごろから発達した文化グループのうち、最も古いものに与えられた名称。アスワンより南、及び西方の砂漠に遺跡が分布。範囲は第一急湍から第二急湍あたり。遺跡の多くは、ダム建設によって水没した。

エジプトで第一王朝が開始される頃から遺跡が見られなくなっており、先王朝時代にエジプトからの侵攻を受け、エジプトの古代王朝に組み込まれた可能性がある。

ナカダ文化と類似した土器などがある。ある程度の交流があったと思われる。

ナカダ文化から派生した説と、下ヌビアに定住した人々がナカダ文化の影響を受けて独自に形成したという説がある。

この時代、エジプトはヌビアのことを「イアム」と呼んでいた可能性がある。



■Cグループ(C層) 2,300-1,500 BC

Aグループの後から登場。肉体的な特徴はAグループに近い。

埋葬は屈葬。家畜として牛が重要。

ヌビア奥地、またはアフリカの内部から移住してきた説がある。

この時代のエジプトとヌビアは限られた関係しかもって居ない。

エジプトの王朝と対立、中王国時代に侵入してきたのはこのグループ(?)


■パン・グレーブ文化 中王国~第二中間期

パン・グレーブとは「平鍋型の墳墓」を意味する。上エジプトに住み、積極的にエジプトとかかわりをもった遊牧集団。
Cグループやケルマ文化との関わりがあった可能性があるが身体的な特徴は異なる。一説として、のちにエジプトの傭兵として雇われたヌビア人、"メジャイ"は彼らのことだったのではないかとされる。



■Xグループ (Xグループ、ノバ、バッラーナ)AD 350-550 または AD350-700

エジプトからはほぼ独立している時代。エジプトはローマ支配時代に入っており、既に伝統宗教が廃れてキリスト教世界の一部となっている。逆にヌビアはエジプトの伝統宗教の一部を受け継いで独自カスタマイズしている。

ヌビアの遺跡のいくつかに、文化グループ欄にこの名前が当てられている。(メロエ時代、バッラーナ時代、キリスト教時代) バッラーナとはこの文化の標準的な遺跡で、アブ・シンベルの南、約15キロのあたりに存在する。ただし、現在はナセル湖に水没している。キリスト教時代のヌビア人の埋葬跡である。

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