ブヘンの馬/ヌビアに消えた騎手を追って
”ブヘンで発見された不可解な馬” について、最初に目にしたのはいつだっただろう。
古代のエジプトに馬はいなかった。馬がはじめて現れるのは、エジプトにヒクソスと呼ばれる外来の民族が侵入してきた第二中間期(中王国時代と新王国時代の間)で、馬は人とともに移住した。馬は戦車とともに、やがて戦闘で重要な役割を持つようになっていく。
ただ、「ブヘンの馬」だけが例外だった。
その遺骸は、ヒクソス人が最初にエジプトを訪れ、エジプト北部のナイルデルタに侵入しはじめていたまさにその初期、”誰かが” 北から南へとエジプトを縦断してヌビアまで達していたという証拠だ。馬とともにやって来た人はどうなったのか? 彼ないし彼女は何故エジプトを突き抜けてしまったのか?
発掘が行われたのは1959年。そして今、ブヘンの遺跡はアスワン・ハイ・ダムの建設によって水の底に沈んでいる。
とりあえず分かりやすく場所を説明すると、↓ココ。
元はカラー地図だが、分かりやすくする都合で白黒にしてある。赤い矢印のところがブヘン、ブヘンから少し上に行くと現在ではアスワンという名で知られるエレファンティネがある。
ブヘン(Buhen)は、北部ヌビアに位置する古代エジプトの遺跡だ。ここに最初に砦が作られたのは中王国時代、第十二王朝の頃。深い掘を持つ、エジプト南端の要塞として機能していた。
時代によって中央の権力が及ぶ範囲は変わり、新王国時代になるともっと南まで国境が南下するが、中王国時代にはブヘンが国境線だ。ここは事実上の国境防衛線だった。
砦には堀だけでなく城壁もあり、わずかな幅しかないつり橋のかかる出入り口から侵入する以外には攻め落とすことはほとんど不可能だっただろう。実際、ブヘンを攻め落とした人々は、そのようにした。門は焼け落ちていたのだ。
残された燃えカスから推測された砦の陥落は、紀元前1670年前後。中王国時代の終了とされるのが紀元前1650年。エジプトに入ってきた最古の馬の記録である、馬の骨が発見されたのは、炎上した砦の残骸の中であった。馬に乗っていた人物の遺骸は、その傍らからは発見されていない。
ヒクソスが侵入したのは北部エジプトであって、エジプトの南端ではない。主なき馬がまっすぐに南へ南へと何百キロも移動することは考えられない。地図からも分かるように、それはまさにエジプトを縦断する進路だった。もともと馬に乗らず、というか馬ってなぁに? 状態だったエジプト人には、移住者とともにやって来たばかりの馬は扱えなかっただろう。扱えたとしても、はるか遠方への旅のお供にすることは難しい。だとすればブヘンの馬はやはりヒクソス人が連れて来たものなのか。一頭だけということは一人だけでやって来たのか、それとも仲間がいて残りは徒歩だったのか?
確実に言えることは、中王国時代が終了しようとする混沌の時代、馬を扱えた「誰か」が北から南へとエジプトを縦断し、南の国境防衛の拠点であるブヘン砦の陥落に関係し、そこで馬を失ったということ。
ブヘンの陥落は、同時に南の国境線の喪失を意味する。次の防衛ラインはエレファンティネ(一枚目の地図ではエレファンティン)まで後退する。そして中王国時代の崩壊と第二中間期。ブヘンをふくむヌビア地域は、クシュ王国の傘下に入り、エジプトからの独立を宣言するのである。
この物語をふと思い出したのは、エジプトでの馬の飼育記録の中に、「馬は新王国時代から飼育されていたことか確実だが、例外としてブヘンで見つかった馬がある」という記載を見つけたからだ。
考えてれば、確かに不思議だ。
炎上した砦の「中」に馬の遺骸があったということは、馬の乗り手は外から砦を攻めた側にいて、馬とともに砦に突っ込んだのだろうか。そこで馬は死んでしまい… 本人は? 火傷を負いながらも生き延びたのか… あるいは馬に火をつけて門に突っ込ませる戦法なんかもマンガチックではある。
遺跡自体が水没してしまったので、今では馬の持ち主の後を追うことは不可能に近いだろう。
真実は砂漠の時の中に。そして我々には、大いなる空想が残される。
---
メモ
ブヘンの最初の発掘は1910年、D・ランドル・マッキーバー&レナード・ウーリー(エックリー・B・コックス遠征隊のため)
ウォルター・B・エマリーが1957年に再開。実質、発見後はユネスコによる水没遺跡救済キャンペーンまで放置されていたことになる。
詳細はこのへんの資料を漁れば出てくると思う。
古代のエジプトに馬はいなかった。馬がはじめて現れるのは、エジプトにヒクソスと呼ばれる外来の民族が侵入してきた第二中間期(中王国時代と新王国時代の間)で、馬は人とともに移住した。馬は戦車とともに、やがて戦闘で重要な役割を持つようになっていく。
ただ、「ブヘンの馬」だけが例外だった。
その遺骸は、ヒクソス人が最初にエジプトを訪れ、エジプト北部のナイルデルタに侵入しはじめていたまさにその初期、”誰かが” 北から南へとエジプトを縦断してヌビアまで達していたという証拠だ。馬とともにやって来た人はどうなったのか? 彼ないし彼女は何故エジプトを突き抜けてしまったのか?
発掘が行われたのは1959年。そして今、ブヘンの遺跡はアスワン・ハイ・ダムの建設によって水の底に沈んでいる。
とりあえず分かりやすく場所を説明すると、↓ココ。
元はカラー地図だが、分かりやすくする都合で白黒にしてある。赤い矢印のところがブヘン、ブヘンから少し上に行くと現在ではアスワンという名で知られるエレファンティネがある。
ブヘン(Buhen)は、北部ヌビアに位置する古代エジプトの遺跡だ。ここに最初に砦が作られたのは中王国時代、第十二王朝の頃。深い掘を持つ、エジプト南端の要塞として機能していた。
時代によって中央の権力が及ぶ範囲は変わり、新王国時代になるともっと南まで国境が南下するが、中王国時代にはブヘンが国境線だ。ここは事実上の国境防衛線だった。
砦には堀だけでなく城壁もあり、わずかな幅しかないつり橋のかかる出入り口から侵入する以外には攻め落とすことはほとんど不可能だっただろう。実際、ブヘンを攻め落とした人々は、そのようにした。門は焼け落ちていたのだ。
残された燃えカスから推測された砦の陥落は、紀元前1670年前後。中王国時代の終了とされるのが紀元前1650年。エジプトに入ってきた最古の馬の記録である、馬の骨が発見されたのは、炎上した砦の残骸の中であった。馬に乗っていた人物の遺骸は、その傍らからは発見されていない。
ヒクソスが侵入したのは北部エジプトであって、エジプトの南端ではない。主なき馬がまっすぐに南へ南へと何百キロも移動することは考えられない。地図からも分かるように、それはまさにエジプトを縦断する進路だった。もともと馬に乗らず、というか馬ってなぁに? 状態だったエジプト人には、移住者とともにやって来たばかりの馬は扱えなかっただろう。扱えたとしても、はるか遠方への旅のお供にすることは難しい。だとすればブヘンの馬はやはりヒクソス人が連れて来たものなのか。一頭だけということは一人だけでやって来たのか、それとも仲間がいて残りは徒歩だったのか?
確実に言えることは、中王国時代が終了しようとする混沌の時代、馬を扱えた「誰か」が北から南へとエジプトを縦断し、南の国境防衛の拠点であるブヘン砦の陥落に関係し、そこで馬を失ったということ。
ブヘンの陥落は、同時に南の国境線の喪失を意味する。次の防衛ラインはエレファンティネ(一枚目の地図ではエレファンティン)まで後退する。そして中王国時代の崩壊と第二中間期。ブヘンをふくむヌビア地域は、クシュ王国の傘下に入り、エジプトからの独立を宣言するのである。
この物語をふと思い出したのは、エジプトでの馬の飼育記録の中に、「馬は新王国時代から飼育されていたことか確実だが、例外としてブヘンで見つかった馬がある」という記載を見つけたからだ。
考えてれば、確かに不思議だ。
炎上した砦の「中」に馬の遺骸があったということは、馬の乗り手は外から砦を攻めた側にいて、馬とともに砦に突っ込んだのだろうか。そこで馬は死んでしまい… 本人は? 火傷を負いながらも生き延びたのか… あるいは馬に火をつけて門に突っ込ませる戦法なんかもマンガチックではある。
遺跡自体が水没してしまったので、今では馬の持ち主の後を追うことは不可能に近いだろう。
真実は砂漠の時の中に。そして我々には、大いなる空想が残される。
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メモ
ブヘンの最初の発掘は1910年、D・ランドル・マッキーバー&レナード・ウーリー(エックリー・B・コックス遠征隊のため)
ウォルター・B・エマリーが1957年に再開。実質、発見後はユネスコによる水没遺跡救済キャンペーンまで放置されていたことになる。
詳細はこのへんの資料を漁れば出てくると思う。


