「クレオパトラのエメラルド」 ~ローマの繁栄はエジプトと共にありき

ディスカバリーチャンネル堪能中。
見ることに夢中でニ、三本録画に失敗したけどキニシナイ。

と、いうわけで本日の鑑賞はドン。これ。

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クレオパトラのエメラルド」。



クレオパトラがエメラルド好きだったという伝説はよく知られています… が、クレオパトラは己自身の美しさはさほどではなく、知識や戦略的な考え方が魅力的だったというのはよく言われるところ、それから実際にエジプトでエメラルドの採掘やったのは、ローマ支配の時代になってからといわれています。伝説は伝説、史実は史実ってことで…

と、いう話かと思ったら、実はそういう番組じゃなかった。

高価なエメラルドの採掘がローマ帝国を支えていた という内容。

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ローマではエメラルドがたいへん好まれ、ダイヤモンドよりも高値で取引されたんだそうな。そしてエジプトの東の砂漠には、エメラルドの鉱脈がありました。採掘の町「シェンシェフ」には、ローマ支配の500年ほどの間、およそ1000人ほどの雇われ採掘人たちが働いていたそうです。
地表は灼熱。空気の通りも悪い狭い採掘穴の中、石油ランプだけを頼りに採掘をするのは大変だったはず。それでもローマのために、雇われた人々はせっせとエメラルドを掘り続けた。

エジプト、いちおう銅やミョウバンの鉱脈もありましたしね。ナイル上流では金も採れましたし…
( 以前エントリした「資源がない」に参考資料あり。エジプト人がほしがった資源は無かったのに、ローマが欲しがった資源はあったという皮肉 )



そしてもう一つ。実はタイトルにはなっていないこっちのほうが重要。

エジプトはローマにとって、インドとの交易をつかさどる中継地点に当たり、財源として非常に重要な場所だったという衝撃の事実が発覚。

そう、インドとの交易といえばアレです…アレが出ますよ。

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コツヨウ。



交易路はこのようになっています。
ナイル沿いのコプトス(テーベのやや下流)から東の砂漠を抜けた先、紅海に面した町「ベレニケ」を拠点として船で45日。偏西風を利用した航路で、インドのみならずオマーンなどとも取引があったそうな。

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エジプトから持っていくもの →エジプト産の銅、綿記事/ローマ産のワイン
インドから持ち帰るもの →コショウ、乳香などの香辛料、香料

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ベレニケから発見されたこれらの交易の痕跡はまさに大発見。
ていうか… インドまで行くってローマすげぇな! エジプト人には 絶 対 無 理 だ
だって海嫌いだもん彼ら。

金よりも高価な香辛料を、アレキサンドリアまで運べば、まさに一攫千金。ベレニケの町はエジプトがローマに支配された500年の間、大いに栄え、巨万の富を築くことになります。

この交易がどれほどの利益を上げていたかって?

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少なく見積もってもこれだけ!!
ローマはあらゆるものに税金をかけており、このうち関税などで25%が国家の収入になったといいます。
税金だけで3兆近く。なんという財源。一つの町でこれだけなんですから、ローマにとってエジプトがどれほど重要な土地であったかが分かります。


あれですよ。
なぜ、エジプト人は同じことをやらなかったのかと…(笑)
国土のスペックは、ローマ支配の前と後で変わっちゃいないのに、ローマ支配になったとたんボロ儲けされてますが。

貿易に弱い」というのは、やはり致命的だったか。(エジプト人、海の向こうにインドがあるよ儲かるよって誰から教えられても、「海怖い」とか「インドで死んだらミイラにしてもらえない」とか、そんな理由で行くの拒否しそうだし^^;)


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おなじひとつの”国土”であっても、それらをどう利用するかはローマ人とエジプト人で全く異なっていました。
ローマ人はエジプトの資源をうまく利用し、地理的な特性から交易の重要拠点として大いに発展させることに成功。

やがてローマが倒れ、エジプトでその手を離れると、紅海沿岸の貿易拠点は放棄され、インドとの交易路も無くなってしまいます。そして時が流れ、陸路のコショウ貿易路を制するヴェネツィアの時代へ至る… と。

ここでもしエジプト人に商才があったなら。ローマ人から商売のやり方を学んで、商人が定着してたなら。
歴史は確実に変わっていた。コショウ独り占めで地中海の覇者になったかもしれないんだよ! でも歴史に「もし」は存在しないんだ…。



しかしまさか紀元1世紀ごろから既にインド交易路があったとは思わなかった。
というかコツヨウ貿易の拠点がエジプトだったとは。良い意味で衝撃的な一本でした。

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