神は決して悪魔には堕ちないのだよ、関口君。という話

ヨーロッパに近い地域の神話には、かつては主神かそれに近い信仰を集めていたにも関わらず、キリスト教世界では「悪魔」として扱われる神々がいる。たとえばベルゼブブにされたバアル(そもそもバアルという言葉自体が神という意味を含む)、アモンとされたアメン(アメン・ラーとも呼ばれた太陽神)などがある。

これらを「神が悪魔に変化した」とか、「悪魔に貶められた神」と呼ぶケースがあるのだが、実際はそうではないと思う。神は決して悪魔にならない。また神は堕ちて別の存在となることはない。


「信仰は恐怖から生まれる」という言葉がある。

最も原始的な神という存在は、自然への畏怖から生まれてきた。
火山の神格化、地震の理由づけ、災害や不運の意味を人の手の及ばぬ高次の存在に起因させる行為…それが神を生み出す精神活動となる。古き神々とは、人が考える力を得た瞬間から、その必要に応じて、その人間を取り巻く環境、人間が認識した世界とともに生まれた存在といえる。

となれば、山火事の多い地域で火の神が最も高い地位にあり、灼熱の国で太陽の神が讃えられ、海の国では空と海の神々に深い意味が持たされるのは当然のことだろう。

バアルやアメンがそうなのかはさておき、原始的な精神活動から生まれた神々は、決して変容することがない。何故ならそれらの本質は、自然災害や突発的な不運など、人が支配することのできない次元の出来事にあるからだ。人が運命を完全に支配する(神の如くなる!)日がくれば、神は消えてなくなってしまうのだろうが、21世紀を迎えた今も、そんな日は永遠に来そうにない。
人が不可侵の運命を畏れるならば、それが神なのである。
ならば神は、人の持つ畏れとともに、永遠に消えることはない。

さて、そのような神々、消えることのない神々は、全知全能の神を前にしても名前を失ったに過ぎない。たとえ名を呼んで信仰されることが無くなったとしても、その神(の本質である自然災害や突発的な出来事)に対する畏れは失われず、神に対するものという意味は失ったとしても、祭儀や信仰が、迷信や習慣の類として行われ続けることすら在り得る。神は変容しない。古き神々は人がその本質であるそれぞれのものを克服するときまで、それは神以外の何者にもなりはしない。変質したように感じるのは、ただ、実体と切り離された名前だけが浮遊し、悪魔や別の何かとして扱われるようになっただけなのだ。


ただし、神の本体は変容しなくとも、本体から派生したものたちは変容していくことがある。
本体から切り離された別の神々、人の原始的な畏怖から生まれたのではないそれらは、たとえば、「台所の神様」のような人間の利便に応じて"作られた"もの、太陽神から派生した「朝日」や「夕日」の神のような限定的なものなどである。

ここでは原初の神々をとりあえず「真の神」と呼ぼう。(厨ニ病っぽい名前だが気にするな。)
真の神は、人が神にとってかわるその日まで、死ぬことも消えることもない。
しかし真の神ではないものたちは、人間が作り出した人工のものだから、人間の都合に合わせて扱いや属性を変更することも出来る。ご利益を求めたり、ご利益がなければ放棄してしまったりといったことも可能だ。人が作り出した神は、人とともに変化することが可能であり、神から悪魔、妖怪などといった別の扱いに変更されても問題はなかったのである。

つまり、ある神が悪魔に「変化した」とか「堕ちた」とか述べる時には、元となる神は真の神から派生した別のもの、または人によって切り出された一部属性だけであり、留意する必要があると思う。本来、神と呼ぶべき存在は、人の都合でどうこう出来るようなものではないのだから。


そしてもう一つ。悪魔、とは何であろうか。
全知全能の神に挑戦する者でも、人を誘惑してその魂を堕落させようとするものでもなく、キリスト教にとっての「異教」の神々を貶めた存在でもないとすれば、一体何が悪魔となり得るだろうか。
人の抱く原始的な畏怖の感情から生まれてきた真の神は、いかなるものとも張り合わない。全知全能の神と地位を争うことも、人を誘惑することもしない。そもそも人間という存在を特別扱いはしないし、興味を抱きもしない。たとえば、一瞬にしてすべてを飲み込む火砕流を想像すればいい。それは純粋な力と存在であり、人の力の及ばぬ大いなる意志であり、善でも悪でもない。光でも闇でもない。
人にとって好ましくないものを神と呼び、好ましいものを悪魔と呼ぶならば、神も悪魔も完全ではないことになる。本来の神なるものとは、人が制御できないがゆえに信仰の対象となったのだから。自然界には善も悪もない。ただ摂理があるのみなのだ。

悪魔が悪であり、闇であり、混沌であるならばーーー、つまりそれは、人が人だけの世界を作り、光と秩序ある限定された空間に己を切り離した瞬間に生まれたはずなのだ。その世界では正しきものと悪しきものが区別される。神の秩序だった善なる部分だけが人の目に映り、反対側の混沌は人の目から隠されている。だから最初に悪魔の姿を描いたのはキリスト教を最初に認めたローマ人ではなく、布教によってそれを知った北の国の人々なのではないか。厳しい環境に生きる彼らは、人の作る世界の外側にある本来の自然の摂理を知っていた。光があるなら闇もまた存在する。それは神の神性のもう一つの姿なのだ。神が悪魔になるのではない。大元の真の神から、人にとって都合のよいものと悪いものを分離させ、それぞれを神と悪魔と呼んだに過ぎない。



以上は、まああれだいつもの思いつきですよ。
これを発展させていくといろいろ面白いねたが出来そうだけれど、いい加減「神」だ「信仰」だというキーワードが多すぎると、また検索エンジンにアダルト指定くらうんでの・・・orz

壁|<キッズgooでも安心だよ! 多分!

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