古代エジプト風ファンタジー「青い鷹」
捜し求めて早何月
ようやく、福沢さん一人以下の担保で手に入るところを発見…。
いい服買うよりネトゲで垢増やして廃プレイするより、同じ金使うなら本一冊買ってくる派。書痴でスイマセン。
で、それほどまでに欲しがったこの本が何かと申しますと、
古代エジプト風ファンタジー小説。
著者はピーター・ディキンソン。1977年にイギリスで”ガーディアン賞”を受賞。
特徴として、基本的なアウトラインはエジプトの香りを絡めつつ、固有名詞は一切、古代エジプトのものを使っていない。人物名も、登場する神々の名前も。「光の神」(太陽)と「闇の神」(月、ハトホルに似た扱い)がおり、鷹の神グド(ホルスとコンスを足してニで割った感じ)は天空と癒しの神。グダールは狩りの神(キツネの顔をしているらしい)、アラーンはナイルに似た大河の神。
「パピルス」や「王杓」という一般的に使われそうな単語は出てきても、「ウジャト」「オベリスク」などリアルなエジプトのニオイがするものは登場させていない。エジプト「風」のファンタジーは私も色々作ってきたもんだが… そういうやり方もアリなんだな。と思わされました。ま、ヘタに実在した神様の名前や地名なんか使っちゃうと、「史実と違う」とか「知識が足りない」とか文句つけられちゃいますもんね(笑) それも戦略か。
あらすじはこんな感じ。
主人公タロンの成長と、"変わる世界"――人と神、王と神官、王国と他国の関係が変化していくことが物語りの軸を成す。壮大なストーリーとはいうが、舞台となっている「王国」の描写は少なく、ナイルを模した川が流れていること、川を離れると砂漠が広がっていること、他国への国境が滝と崖によって隔てられていることのほかは見えてこない。また、タロンの旅の移動範囲も狭い。狭いというか、川沿いを南北に移動しているだけだったりする。
物語の内容の大半は哲学的。哲学的とはいえ、古代エジプト独特の感性にはこだわらない。たとえば、死体はミイラにしないし、神官の着衣は白ではない。あるいは、そこは故意に変えてあるのかもしれない。
神とは何か、人は神に何を成すべきか? といったことが物語の命題としてあり、最後に主人公が到達するのは、「人は神を利用するために、いま目に見えている形に押し込めただけだ」という、ある種の自己否定。これは神官たちの権力に煩わされていた王が、神官たちから権力を取り戻し、新たな秩序を打ち立てようとする行為と重なる。主人公は神を解放し、神々の像が砂に返ってゆくことを幻視しつつ、なおも、空気のごとく神は世界に自然に存在するもの、と確信するのだ。
結果的に見れば、タロンも王も、神の「策略」に従わされ、思い通りに動かされた駒でしない。
神々は自由になりたいために、神殿と儀式を壊し、閉ざされた王国を解放しようとしている。
しかし主人公が生き残ったのは、自らの心からの求めによって仕える神に呼びかけた結果だし、最後に選び取る道も彼の自由意志だろう。だから最後に主人公の言う「人間との関わりによって、神々もまた変わる」というセリフは、神々もまた、ただ人間に命じるだけの存在ではないことを意味している。
"病をいやす神
大空の神
わたしの命の神
ふたたび傷つくことなく
空に飛びたまえ
とらわれの身をときはなち
わたしの奉仕をこえ
わたしの礼拝をこえ
わたしの愛をこえて
空に飛び立ちたまえ"
さて、古代エジプト「風」と言われつつエジプトの固有名詞は使わないという状態で書かれたこのファンタジー小説だが、逆に「エジプト風」と感じさせるのは何か、「エジプト風」である必然性は何なのかを考えてみた。
自分的な感想だが、エジプト風といいつつ中身はメソポタミア風だと思う。
というか神々の性格づけや神殿の描写は挿絵が無ければメソポタミアを連想させた。塩害によって耕作できなくなった農作地や三角州、川の流れの急流描写も、ナイル河畔よりはチグリス・ユーフラテス川の河畔に近い。
一つ、エジプトでなくては実現できなかっただろうイメージが、「国土の閉鎖性」なのではないだろうか。国土の四方が砂漠になっているというのは、エジプトのほうがイメージがつきやすいだろう。
それからもう一つに、メソポタミアの神様がモデルだったら、神々の性格がやたらと激しくなるかもしれない。
エジプト神話は神々と人間がケンカをしないが、メソポタミア神話は人間がやたらと神に挑みたがる。
「青い鷹」は神々が人間にある程度肩入れしていて穏便だから成立する話であって、もしメソポタミアの神々がベースだったら、大洪水で全部流しちゃったり、飢饉旱魃大嵐をコンボ発生させて、もっと簡単に世界を作り直しそうだ。(笑)
「古代エジプト風ファンタジー」としては期待していたほどではなかったが、古代世界をモチーフにしたファンタジー小説としては期待以上に面白かったこの作品。人と神との関わりや王と神官の対立などは、古代世界が舞台のほうが書きやすいだろう。登場する人々が、それぞれに違った形で「神様ラヴ」なのが面白かった。ある者は規律を忠実に守ることで、ある者は規律を壊すことで、またある者は自由に生きることで、神様ダイスキ!をアピールしている。重たいテーマを扱いつつも、登場人物たちの行動に何処かほのぼのしたマイペースさを感じるのは、古代エジプトモチーフならではの雰囲気なのかもしれない。
ようやく、福沢さん一人以下の担保で手に入るところを発見…。
いい服買うよりネトゲで垢増やして廃プレイするより、同じ金使うなら本一冊買ってくる派。書痴でスイマセン。
で、それほどまでに欲しがったこの本が何かと申しますと、
古代エジプト風ファンタジー小説。
著者はピーター・ディキンソン。1977年にイギリスで”ガーディアン賞”を受賞。
特徴として、基本的なアウトラインはエジプトの香りを絡めつつ、固有名詞は一切、古代エジプトのものを使っていない。人物名も、登場する神々の名前も。「光の神」(太陽)と「闇の神」(月、ハトホルに似た扱い)がおり、鷹の神グド(ホルスとコンスを足してニで割った感じ)は天空と癒しの神。グダールは狩りの神(キツネの顔をしているらしい)、アラーンはナイルに似た大河の神。
「パピルス」や「王杓」という一般的に使われそうな単語は出てきても、「ウジャト」「オベリスク」などリアルなエジプトのニオイがするものは登場させていない。エジプト「風」のファンタジーは私も色々作ってきたもんだが… そういうやり方もアリなんだな。と思わされました。ま、ヘタに実在した神様の名前や地名なんか使っちゃうと、「史実と違う」とか「知識が足りない」とか文句つけられちゃいますもんね(笑) それも戦略か。
あらすじはこんな感じ。
物語は、毎年行われる「王の蘇りの儀式」から始まる。
そこに参列する少年神官タロンは、鷹の神グドに仕えてる者。儀式には、犠牲として捧げられる、神の化身として扱われる青い鷹がいた。やがて殺される運命にある鷹の姿に同情したタロンは、儀式の最中にその鷹を連れ出してしまう。
タロンは処分を受け、荒野の荒れ果てた神殿に放逐されるが、そこで若き王(「蘇りの儀式」の時の王の息子)と出会い、友情を結ぶ。
神官として生涯を生きてきた少年は、荒野に生きるうちに己のもう一つの魂を知り、今まで知っていた神殿の中の定められた生き方とは異なる世界を知るようになる。いま、王国は神官たちに支配されていること。王国は閉ざされ、死につつあること。王は神官たちに支配され、自由に振舞えないこと。若き王は国を開き、神官たちから権力を取り戻そうとしていること…。
神の化身たる青い鷹とともに、タロンは、王と神官のいさかい、神々の大いなる目的のために翻弄されることになる。
主人公タロンの成長と、"変わる世界"――人と神、王と神官、王国と他国の関係が変化していくことが物語りの軸を成す。壮大なストーリーとはいうが、舞台となっている「王国」の描写は少なく、ナイルを模した川が流れていること、川を離れると砂漠が広がっていること、他国への国境が滝と崖によって隔てられていることのほかは見えてこない。また、タロンの旅の移動範囲も狭い。狭いというか、川沿いを南北に移動しているだけだったりする。
物語の内容の大半は哲学的。哲学的とはいえ、古代エジプト独特の感性にはこだわらない。たとえば、死体はミイラにしないし、神官の着衣は白ではない。あるいは、そこは故意に変えてあるのかもしれない。
神とは何か、人は神に何を成すべきか? といったことが物語の命題としてあり、最後に主人公が到達するのは、「人は神を利用するために、いま目に見えている形に押し込めただけだ」という、ある種の自己否定。これは神官たちの権力に煩わされていた王が、神官たちから権力を取り戻し、新たな秩序を打ち立てようとする行為と重なる。主人公は神を解放し、神々の像が砂に返ってゆくことを幻視しつつ、なおも、空気のごとく神は世界に自然に存在するもの、と確信するのだ。
結果的に見れば、タロンも王も、神の「策略」に従わされ、思い通りに動かされた駒でしない。
神々は自由になりたいために、神殿と儀式を壊し、閉ざされた王国を解放しようとしている。
しかし主人公が生き残ったのは、自らの心からの求めによって仕える神に呼びかけた結果だし、最後に選び取る道も彼の自由意志だろう。だから最後に主人公の言う「人間との関わりによって、神々もまた変わる」というセリフは、神々もまた、ただ人間に命じるだけの存在ではないことを意味している。
"病をいやす神
大空の神
わたしの命の神
ふたたび傷つくことなく
空に飛びたまえ
とらわれの身をときはなち
わたしの奉仕をこえ
わたしの礼拝をこえ
わたしの愛をこえて
空に飛び立ちたまえ"
さて、古代エジプト「風」と言われつつエジプトの固有名詞は使わないという状態で書かれたこのファンタジー小説だが、逆に「エジプト風」と感じさせるのは何か、「エジプト風」である必然性は何なのかを考えてみた。
自分的な感想だが、エジプト風といいつつ中身はメソポタミア風だと思う。
というか神々の性格づけや神殿の描写は挿絵が無ければメソポタミアを連想させた。塩害によって耕作できなくなった農作地や三角州、川の流れの急流描写も、ナイル河畔よりはチグリス・ユーフラテス川の河畔に近い。
一つ、エジプトでなくては実現できなかっただろうイメージが、「国土の閉鎖性」なのではないだろうか。国土の四方が砂漠になっているというのは、エジプトのほうがイメージがつきやすいだろう。
それからもう一つに、メソポタミアの神様がモデルだったら、神々の性格がやたらと激しくなるかもしれない。
エジプト神話は神々と人間がケンカをしないが、メソポタミア神話は人間がやたらと神に挑みたがる。
「青い鷹」は神々が人間にある程度肩入れしていて穏便だから成立する話であって、もしメソポタミアの神々がベースだったら、大洪水で全部流しちゃったり、飢饉旱魃大嵐をコンボ発生させて、もっと簡単に世界を作り直しそうだ。(笑)
「古代エジプト風ファンタジー」としては期待していたほどではなかったが、古代世界をモチーフにしたファンタジー小説としては期待以上に面白かったこの作品。人と神との関わりや王と神官の対立などは、古代世界が舞台のほうが書きやすいだろう。登場する人々が、それぞれに違った形で「神様ラヴ」なのが面白かった。ある者は規律を忠実に守ることで、ある者は規律を壊すことで、またある者は自由に生きることで、神様ダイスキ!をアピールしている。重たいテーマを扱いつつも、登場人物たちの行動に何処かほのぼのしたマイペースさを感じるのは、古代エジプトモチーフならではの雰囲気なのかもしれない。