イスラエルの民は何者か ―考古学資料が語る「新説」

なにやら聖書関連の番組が多いなぁと思っていたら、映画「天使と悪魔」関連だったらしい。
黒幕は「秘密結社」イルミナティだそうで。まーイルミナティ、ずいぶん出世したな…。(笑)

「ダヴィンチコード」の時はバティカンが反感を示したそうだが、今回はどうなんだろうか。教皇候補が殺害されるというショッキングな内容、果たして?


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というわけで前回からの続き。

旧約聖書は、口伝だったものが時代をまたいで徐々に文書化され、整えられていったものと考えられている。
その中でも、最も使われている言葉が古く、文書化された時代が古かったと考えられているのが「出エジプト記」。ここには、エジプト側の記録と対応する記述がいくつか登場する。

まずラメセス2世の時代に築かれた「ピ・ラメセス」という都市。旧約聖書では「ピトムとラメセス」と書かれている都市に対応する。
エジプトから脱出する人々は、この都市の建設に関わっていた非エジプト人労働者だったと思われる。つまり、都市建設のために酷使されていたというのは、おそらく事実。重労働はもちろん、傭兵としても外国人は登用されていた。
ただし、彼らが一丸となってエジプトを脱出した痕跡は見当たらず、集団移住の証拠はシナイ半島では見つからない。

そのラメセス2世の息子で、次世代の王メルエンプタハの時代に作られた戦勝碑には、「イスラエルは滅ぼされ、子孫は絶えた。」という記述が見られ、現在のカナアン周辺にイスラエルと呼ばれる民が存在した裏づけとなっている。


では、イスラエル人は何者だったのか。
エジプトから脱出した人数は少なかったはずにも関わらず、彼らは大勢いた。

答えは―― 彼らは「もともとそこに居た」。つまり、カナアン人だったのである。

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イスラエルの民が住んだとされる丘陵地帯に残る住居跡と土器が、その証拠を教えてくれる。
住居の様式は異なるが、土器は元々あったカナアン人の様式と一致する。ではカナアン人はどうして、死海のほとりの丘陵地帯へやって来たのか?

カナアンには、もともと、ハツォルやエリコといった有名な都市が存在した。
これらの都市は階級社会を築いていたが、紀元前1200年頃、エジプト王朝やメソポタメア文明の弱体化と同時に崩壊する。と同時に、それらの都市にいた人々が拡散し、特に、奴隷など下層階級にいた人々は、新天地を求め、元いた大都市を離れていったようである。

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ハツォルでは、戦争の跡らしきものが見られる。建物の壁には焼け跡もある。
ただし攻め滅ぼしたのは外から来た民族ではなかった。
町の中心にある神殿や貴族たちの居住区が壊されていることなどから、内乱が起きたものと見られている。

この番組では、このあと、発掘の進む各古代都市での検証が始まる。調査資金めっちゃかかってます…

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 アイが滅亡したのは 紀元前2200年。
 エリコが崩壊したのは 紀元前1500年。
 ハツォルが消滅したのは 紀元前1250年。

これらはヨシュアが滅ぼしたとされる都市だが、滅亡の時代に開きがあり、しかもこれ以外のほとんどの都市には破壊の跡は見当たらない。すなわち、イスラエル人によるカナアンの征服は実際は行われず、他の民族による征服や、その他の理由によるものと考えられる。

ちなみにハツォルが内乱によって消滅するより50年ほど前、紀元前1200年の時点でカナアンには25程度の集落があり、人口は5000人弱だったという。しかし、その200年後、集落は250まで増え、人口も10倍の4万5000人まで増える。この理由ははっきりしないが、大規模な戦争があったなら人口は減るはずで、自然増加にしても200年で10倍という数字はありえない。この地域に、外部からの人口の流入があったことは間違いないだろう。


ただし、繰り返すがそれはモーセに率いられたエジプトからの大脱出が原因ではない。
それほどの大人数がエジプトから脱出した証拠は今のところ見つかっておらず、イスラエル人の集落からは、異文化の流入を示す証拠ではなく、彼らがカナアンの文化を受け継いでいるという証拠が見つかっている。

民族は、確かに移動した。
しかしそれはエジプトからの移住だけではなく、周辺の大都市から逃げ出した奴隷たち、下層階級の人々も含む他方向からの流れだった。中には、本国での暮らしが厳しくなったメソポタミア人も混じっていたかもしれない。彼らは誰も住んでいなかった荒野で出会い、そこを新天地としてともに暮らし始める。彼らを纏めた、モーセのような指導者が実在したかどうかはわからない。ただ、もしイスラエルの民がもともと他民族の混成であったなら、モーセの言葉を兄アロンが通訳しなければならなかったのにも理由が付くというものだ。

さらに、そもそもエジプトから逃げ出してきた人々が、元々、シャス人や、その周辺に住む部族の出身だったとしたら?

「出エジプト記」でも、モーセが率いたイスラエル人はエジプトに出稼ぎに来た労働者であり、ファラオの課した労働の辛さから、のちにエジプトを出て神の導いた土地へ戻る。エジプトで生まれた二世、三世だったために故郷の言葉が流暢でなかっただけで、元々はカナアン人だったかもしれない。とすれば、YHWHは確かに彼らの「先祖の神」だし、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」になる。

前エントリで纏めたように、「YHWH」という神の名がシャス人の神YHWを元とする説が正しいならば、エジプトから逃げ出した労働者がシャス人の土地でカナアン人と出会い安息の地を得、その土地の神に感謝しながらともに暮らすようになったのが、イスラエル人の始まりなのだろう。






ただ、まあ、この辺は若干弱いかなと思う部分もあるので、今後変わる可能性もあり。
新しい発見があると次々書き換わるのが考古学の世界だし。
気になるのが、ハツォルの崩壊から約150年後、地域の人口が10倍になっていたという点。古代世界において、人口が増える絶対条件は、食料の供給に余裕があること。ヨルダン川の西岸から地中海にかけての地域に、その人数をまかなえる生産力があったのだろうか。それにしても10倍はちょっと増えすぎだろうと…。

ところでエジプト側のこの頃の人口増加はどの程度だったのだろうと思って資料を出してみたら、面白いものが見つかった。<参照:古代エジプト 都市文明の誕生/古今書院>

古代エジプト王朝時代を通して、人口が最大に達したのは第十八王朝、トトメス3世(紀元前1470-1425年頃)の600万人。
しかし、カナアンでハツォルが滅びたのと同じ紀元前1250年頃には160万人まで減っている。

これらの計算は異なる学者によってなされたもので、紀元前1500年の時点で290万人と計算されているものが30年後に2倍まで増えるというのは、ちょっとおかしい。だが、新王国時代に人口が最低300万人は超えた可能性が高いこと、新王国時代末期には大きな都市のいくつかが衰退したことから人口が計算上は少なくなっていることは分かった。エジプトが衰退した時期に、カナアンでは逆に人口の増加(=その根拠となる集落遺跡の増加)が見られるというのは、なかなか興味深い。

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