…ツッコミはまだ続くようだ。

アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ」へのツッコミと、著者がカッ飛ばした前提の解説の続き。たぶんこの本は、予備知識のない人は読んでも意味がわからんし面白くないと思うのだが、それは、都合の悪い証拠や事実を隠して話をどんどん進めていこうとするからでもある。

頭から細かく注釈をつけていくと膨大な量になると思われるので、適当にパラパラっとめくって開けたところで、幾つかピックアップして、その箇所について、訂正と補足を入れていくことにする。


P79-80 騎士道の掟

のっけからとんでもないところがヒット。
騎士道のルーツはアラン人だそうです…。

ブルターニュの貴族階級の構成員であったことに加え、アラン人は、やがてノルマンディーとブルターニュの騎士道となるものにも、多大な影響を与えた。彼らは、大いに賛美された大草原地帯のポニーと、アランの猟犬とをブルターニュにも持ち込んだ。アランの馬は、アラン人に大変な機動力を与え、予測不可能な動きを可能にした。

<中略>

アラン人が徒歩で戦うのを嫌うことは、ヘイスティングスの戦いにおけるブルターニュの騎兵隊にも認められた。中世の戦争では、馬から戦うのが一般的な慣習であったにもかかわらず、このブルターニュの部隊は、これを拒んだのだった。同じように、クレティアン・ド・トロワは、騎士たちを馬に乗ったまま戦わせている。この慣習をドイツの詩人ハルトマン・フォン・アウエ(1155年生まれ)は、「武骨だ」と感じている。



(1)アランの犬と馬?

たとえば、犬はケルトの伝承でも沢山登場する。「マビノギオン」で登場する優れた猟犬たち、巨大な猪を追い詰める特別な犬やアーサー王(アルトゥース)の連れた犬など。しかし、それらの犬が何という犬種で、どういったルートでブリテン島に入ったのかは判らない。ブルターニュに居た犬もそれは同じだろう。

大草原地帯のポニーについては、馬は戦時中は奪ったり奪われたりする動産であったことを考えれば、大草原から連れてきた馬が移住者の手元にそのまま残っていたとは考えにくく、ブルターニュの馬だけが特別であったという根拠も不明。ブルターニュ地方なら、ゴート族やフランク族が連れてきた馬だと言ってもここの話は通じるわけで、あっさり書きすぎている。


(2)騎馬民族はみな馬に乗る

アラン人だけじゃなく、フン族もサルマート人も馬に乗るし、幼少の頃から馬の訓練は受けていた。
特にフン族は、人馬一体となって押し寄せることで東西ゴートを打ち破り、東ローマに脅威を与え、アラン人の元の棲家も支配下に置いた。この場所で、まるでアラン人だけが特別であるかのような恣意的な記述をする必要はない。


(3)中世の戦争は馬から降りて戦うのが一般的な慣習、ではない

ヘイスティングスの戦いは、バイユーのタペストリーに描かれた11世紀の戦い。この戦いで、ノルマン人とアングロ・サクソン人が馬から降りていたのにアラン人だけが降りなかった…というのなら話はわかる。が、実際はそうではないので記述自体が間違いではないかと思う。

そして、同時代の騎士の「決闘」作法では、馬から降りることは敗北を意味し、騎士は自ら馬を下りることは無かった。→決闘作法

画像


決闘ではなく戦闘でも状況は同じ。何をもって、馬から降りるのが一般的だと誤った判断をしたのか理解に苦しむ。もちろん、歩兵もいたし、馬に乗れるのはある程度の身分のある戦士だけだったため徴兵されたばかりの臨時兵は馬には乗らなかっただろう。しかし、例として挙げているのがクレティアンやハルトマンである以上、馬に乗った戦士、つまり騎士を想定していたはずである。

クレティアン・ド・トロワとハルトマンについては、詩人リストを参照。どちらもアーサー王伝説に関わる作品を書いた人たちだ。

クレティアンは確かにフランス(ブルターニュ地方はフランスにある)の詩人だが、12世紀の人。
ハルトマンはドイツ人。
ドイツ人とフランス人とは違う、と言いたくてこの二人を比較に出したのかもしれないが、ハルトマンが「武骨だ」と表現したのは、実はクレティアンの作品を元に書いた自分の作品の中でのこと。「かつてクレティアンは、このシーンで彼らを馬に乗ったまま戦わせたが、私はそのような無作法なことはしない」…という文脈の中でのことだ。ハルトマンの潔癖症を思わせる文筆活動からすると、主人公にはいささかの汚点もあってはならない、的な感覚だったのかもしれない。

そもそもクレティアンはアラン人とは何の関係もない。出身地もシャンパーニュ説は見たことがあるがブルターニュとは関係なさそう。ここで出してくる根拠が不明。



基本的な話をしよう。
12-13世紀ごろ、騎士文学が盛んに作られたのは、ともにゲルマン系の人々が作ったドイツ・フランスにおいてだった。アーサー王伝説がブリテン島から渡ってきて多くのエピソードを付け加えられたのも、まさしく、この時代だった。逆に言うなら、それ以前のアーサー王伝説になかった要素がガッツリ盛り込まれて現在よく知られている形になったのは、クレティアンやハルトマンの生きた時代のドイツ・フランスなんだ。それ以前のアーサー王伝説は、文字記録として残っていないので、どんな物語だったのか最早判らない。

本の著者が「アーサー王伝説」として想定しているのはこの時代の物語なのだから、アーサー王伝説に与えた影響は少数に過ぎないアラン人より、その国を作ったゲルマン系の人々からの影響、つまり北欧神話と同源のエピソードの可能性のほうが、まだ議論に値すると思われる。ゲルマン人は馬に乗った。ゴート族はサルマティア人から騎馬戦術を学んでいる。



■P238-240 聖杯は意思をもたず、そもそも最初は杯ではない

ものすごく長い章のど真ん中へ。
前後がないとわかりにくいが、アヌーヴンはケルト語の方言のひとつ、「ウェールズ語」で言うところの異界、妖精の住まう国。ナルタモンガは著者の言うアラン人の伝承に出てくるナルト神話の不思議な杯である。これらを比較している章の一部だ。

東方からの影響の可能性に加えて、聖杯がケルト起源であるアイルランドの伝承の中に見出されるという主張がなされた。アイルランド語の資料に出てくる一群の魔法の釜はしばしば聖杯の原型であるという主張がなされた。

<中略>

これらのアイルランドの釜にはしかし、アヌーヴンの釜と聖杯とナルタモンガが共有する一つの重要な特徴が欠けている。それは所有する者を承認したり、否認したりする能力である。


聖杯が選ばれた人間にしか見つけられないのは、聖杯がオートで人を選んでいるわけじゃなく、それが神の力を受けて動いているからと考えるべきだろうと思う。宴の席に運び出す乙女がついてきたり(人力動作)、天使が捧げ持って出てくるのは、そのアイテムは自分で考えて移動するような道具として想定されていなかったからだろう。
それに、ナルタモンガは自らを使用する英雄を選んだらしいが、聖杯はそんな複雑な判断能力は持ってない。そういう能力を持っていたのは円卓13番目の椅子、「危難の席」だ。

著者も苦しかったのか何やかんやと言葉を濁しているが、根本的な問題として、聖杯はもともと「聖」でも「杯」でもない。その話は以前、アーサー王伝説と聖杯という記事で取り上げたが…  「グラール」という言葉は宴会用の深皿という意味だ。ナルタモンガが宴会用の器だったなら、同じ宴会用の器であるグラールと役割や登場シーンが似ているのは当たり前。

そして、聖杯に該当するアイテムが出てくる最古の物語は、現在残っている中でクレティアン・ド・トロワによるもので、そこから先へは遡れないことも留意すべきだろう。このアイテムに付加されたキリスト教的な要素は、すべて後世のつけたしと思っていい。キリスト教的な要素を取り除くと、残る要素はそれほど多くない。

ちなみに、「選ばれし者の前にのみ現れる」という聖杯の設定も後付けだ。最初の文学作品に表れた聖杯にそのような性格は備わっていない。ケルトの伝承でも、クレティアンの作品でも。
宴会の席で使われる深皿は、当然のことながら宴会の席で出席者全員に見られている。自動的に湧き出す食べ物や飲み物で出席者全員を潤すのだから、選ばれた者にしか使えない祭器であるとする、ここの部分の議論は出発点を間違えていると思う。


■P286 アラン族の歴史からフンとヴァンダル人が抜けている


歴史記述から、「漁夫王」の原型を探ろうとする部分の記述。そもそも歴史記述の解釈をゆがめていたり、記述に落ちがあったりしたら意味がない、のだが…。

331年に、ゴート族がスキティアを侵略した。この侵略の間に、アラン人の一部族がこれらのゴート族と結びついた。369年には、アタナリックが異教徒のゴート人たちの王となり、キリスト教徒のゴート人たちをローマ帝国内に追いやった。377年にはアタナリックの配下のゴート人たちはドナウ川に戻り、そこで彼らはアタナリックに率いられた親ローマ派と、フリティゲルンに率いられた反ローマ派との二つの集団に分かれた。その時にこれらのゴート族と同盟していたアラン人は、反ローマ派の方に加わった。フリティゲルンの配下のゴート人とアラン人は、アドリアノポリスの戦い(378年)で、ウァレンス皇帝と対戦した。


…さて、この記述の何処が間違えているか。
全く同じ時代の、同じ出来事についての記述を別の本から抜き出してみる。よく読み比べていただきたい。


こうして東ゴートを破ったフンは、またまたその多くを配下に組み込み、残りの東ゴートはドニステル(ドニエストル)川を南に越えていった。次にフンが対峙することになったのは、西ゴートである。アタナリクという者に率いられた西ゴートの一部はパンノニア地方(今日のハンガリー)に逃れたが、大多数はフリティゲルンの指揮のもとにドナウ川下流に現れ、先に触れたようにローマ帝国の許可を得て渡河し、帝国の庇護を求めた。

ところが現地のトラキア属州の将軍たちはゴートに給すべき食料を横領するなど目にあまる所業を続けたため、西ゴートは飢饉に迫られ、ついに377年、反乱を起こした。これに東ゴートやさらにフンとアランまでもが加わり、378年中頃にはバルカン半島のあちらこちらで略奪・戦闘が起こり始めた。

<中略>

時は378年8月9日、バルカン半島東南部のトラキアのアドリアノープル(現トルコ領エディルネ)郊外で、ゴート軍とローマ軍の一大会戦が行われた。この戦いはゴート軍の一方的勝利に終わり、ローマ軍はその三分の二を失い、皇帝自身も戦没した。

―スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史02)/講談社



まず、

(1) この時点で、アラン族は単独で動いていない。

彼らは先にフン族に負けた東ゴートの生き残りとともに、フン族の配下に収まっている。
東からやって来たフン族は、アラン、東ゴート、西ゴートと征服していき、西ゴートは東ローマ領内に逃げ込んだ。西ゴートはローマに助けを求めたあと、ローマ国内でのいざこざでブチキレて暴れだしてしまう。そこへ東ゴートが便乗。アランも祭りに参加して、最後に親玉のフン族登場という流れだ。

(2)アランとゴートは恒久的に連合したわけではない。

連合したとするならば、フン族も入れることが必要になる。
この事件の記録はアンミアヌス=マルケリウスという同時代の歴史家による。アンミアヌスの記述では、トラキアのアドリアノープル(アドリアノポリス)の戦いでウァレンスが戦死したとき、フン族はいなかったかもしれないとされる。しかしそれは書き落としか、フン族は戦いにあとから合流したからであると看做すのが一般的だ。なぜなら、この戦いの終わったのち、ゴート、アラン、フンがバルカン半島を荒らしたと記載しているからである。同じ戦場にいたとはいえ、彼らは共闘したというより、火事場泥棒にやって来ただけというか、ついでに参加して略奪したかっただけと読むのが普通かと思う。その後、西ゴートとフン・アランは別々の方向に向かうから、恒久的な連合軍を形成したわけでもない。

(3)アタナリックとフリティゲルンの関係がおかしい

親ローマ、反ローマとした意味も判らないし、異教徒、キリスト教徒とした理由も謎。
フン族と戦い敗北したのち、アタナリックは独力で生き延びようとするのに対しフリティゲルンはローマに庇護を求めているのだから、親ローマ反ローマでいうなら、この時点ではフリティゲルンが親ローマになるはずだ。
しかもゴート族って、キリスト教に改宗していた人々も、カトリックじゃ無い。彼らは後々に至るまでアリウス派だ。

(4)西ゴートと東ゴートをごっちゃにしている

元は1つとはいえ、この時代は完全に2つの王国に分かれているので「ゴート」だけじゃわからんです。
ここで述べられているのは西ゴートだが、それが判ってしまうと、そのあとの(引用はしていない)「コンスタンティウスがゴートをスペインへ追い払った」という記述も間違えていることに気づく。東ゴートはフン族とともにまだローマの懐の中に留まっている。東ゴートの中から後に大王と呼ばれることになるテオドリックが誕生し、イタリアを治めるようになるのは、ここから一世紀後のことである。


何か、著者はゴート族とアラン人が一緒に行動して、のちに西ゴートがスペインに住み着くにあたり、一緒についてったんだと主張したいようなんだが。その記述の間に一言もフン族の話が出てこないのは、片手落ちというより主役を落としてるとしか…。
アラン人は長いことフン族と、そして同じようにフン族の配下に組み込まれていた東ゴート族と行動を共にしていた。東ゴートは長らくフン族に忠実に仕えたため、独立して国を持つことを許される。そうこうしているうちにアッティラが現れ、フン族の帝国は一気に拡大するも、アッティラの死とともにフン族の王国は崩壊。従っていた部族の多くはゲピード族のもとに集まることになるが、東ゴートは既に国を作っているので別個に動いているというわけ。

さらに、アラン人にとって大事な同盟相手、ヴァンダル人も忘れている。かなりのアラン族がヴァンダル人にくっついてアフリカに渡ったことなんて、凄い勢いでスルーしまくりだ。「物語の大筋に関係ないだろ」と言われそうだが、アラン人の歴史を追うなら避けて通れまい。ヴァンダルとアランの王、ゲイゼリック陛下がお怒りあそばされますよ…。


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文字制限にひっかかりそうなので、とりあえず3箇所。
適当に開いただけでこの有様なので…。

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