アラブの中のキリスト教徒、エジプトの中のキリスト教徒の数十年後のことを思う

今月のナショナル・ジオグラフィックは、またえらい重たい特集を組んできた。「アラブのキリスト教徒」。


シリア           100万人
ヨルダン川西側地区   7万3000人
ヨルダン          25万8000人
レバノン          150万人
イスラエル         12万1000人
ガザ地区          2500人
エジプト           820万人

その他の国に暮らすアラブ系キリスト教徒 12万1000人


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この数字が何を意味するのかというと、各国・各地域における「アラブ系キリスト教徒の数」だ。
エジプト以外のヨルダンやシリアといった国々のアラブ系キリスト教徒比率は、100年前には25%を越えていたのだが、ここ100年で急激に減っている。(今も減り続けている) キリスト教発祥の地、聖地と呼ばれるその地から、現地在住のキリスト教徒が消えつつある。今月の特集は、そういう内容である。

最も大きな理由は政局不安によるイスラム教徒とキリスト教徒の対立。キリスト教徒では職も満足に得られないという状況。度重なるテロや小競り合い。それによって宗教対立が深まったという意味で、湾岸戦争やアメリカによるイラク侵攻も無関係ではない。今の中東は、地元出身であってもキリスト教徒にとって暮らしやすいところでは無いようだ。もちろん、全ての地域でそうだというわけではないが…。



さて、上の統計でエジプトのキリスト教徒がズバ抜けて多いように見えるが、実際そうだと思う。ヨルダン・シリア・レバノン・イスラエル・パレスチナ自治区に住むキリスト教徒の人口比率は、2007年時点で8.7%。
エジプトの総人口は7,257万人(2006年人口調査)なので、820万人のキリスト教徒は、人口の11.2%を占める。
※エジプトの人口は外務省サイトからのデータ

エジプトのキリスト教徒の率は、実は減ってない。さすがに1世紀前のデータは持ってないが、20年前のデータでも「約1割がキリスト教徒」。エジプトでは、テロはあったものの内戦などは無いから、比較的政治が安定しているのもあるかもしれないが…。


エジプトのキリスト教というのは、キリスト教の中でも正統派じゃない「コプト教」だ。
アレクサンドリアにはコプト教の教皇もいて、いわゆるクリスチャンの世界とは少々異なっている。

人に詳しく説明出来るほどの知識はないので手抜きの説明になるが、コプト教とは、まだキリスト教がローマで国家宗教と認められておらず迫害を受けていた頃にエジプトで独自に発達を遂げたキリスト教である。始まりは2世紀とたいそう古く、祈りの言葉は、古代エジプト語の後継に当たる「コプト語」が現在も使われている。(コプト語はヒエログリフの”読み方”を探る手がかりになった。コプト語が生き残っていなかったら、古代エジプト語は意味が分かっても読み方の見当もつかなかったかもしれない。ただし、現在、話し言葉としては使われていない。)

コプト教徒は、たとえばカイロの中でも古い街並の残る「オールド・カイロ」や、南のほうへ言ったアシウトなどに沢山住んでいる。またヌビア人にもクリスチャンがいて、去年のエジプト旅行で会ったヌビア人は、自分はクリスチャンだ
から教会に礼拝に行くんだとか言ってた。
特にオールド・カイロではキリスト教、イスラム教に加えユダヤ教徒も一緒に住んでいて、一つの通りに教会とモスクとシナゴーグが立っていたりする。

エジプトでのイスラム教徒とキリスト教徒の共存は、ずいぶん平和にいっているように私からは見えた。
キリスト教徒だから、という理由で、急激に国外へ逃げる理由は無さそうだったし、少なくとも、今、中東の国々でアラブ系キリスト教徒たちが直面しているような逼迫した問題とは無縁そうだ。今後急激に情勢が変わらない限り、エジプトのアラブ系キリスト教徒は減らないだろうと思う。


   だとすると、もう何十年か後には、
   エジプトは、アラブ系キリスト教徒がイスラム教徒と平和的に共存できる
   唯一に近い国になってしまうのではないか。


勿論、エジプトだってキリスト教徒とイスラム教徒の対立のようなものはあるだろう。
先日の新型インフルエンザ流行の折には、キリスト教徒の飼っていたブタを政府が召し上げて全部殺してしまった。反感を生まないはずはない。
だが、それでも彼らはエジプトを離れようとまでは思わないだろう。確信はないが…、たぶん、ブタを失うことより郷土愛のほうが勝る。
統計の数字を見ながら、…何となくそう思った。



↓エジプトの教会@オールドカイロ。マリ・キルギスとハンギング・チャーチ。
十字架とか天使とか聖人がいても、アラベスク模様のせいでどこかイスラームのかほり。

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[>参考

エジプト観光局より「コプト教とイスラム教

エジプトのキリスト教徒は、聖家族がエジプトに避難してきた時に住んだとされる場所を聖地として大事にしている。エジプトにはキリスト教ゆかりの名所が意外に沢山ある。「第二のベツレヘム」とか名前つけて対抗意識も持っていたり。キリストの手形とか「聖人の遺品より格が上の聖遺物!」みたいな感じで誇りに思ってたり。
欧米にむけては、ピラミッドなどの遺跡より「古きキリスト教の聖地」として中部エジプトの都市を売り出し中なのだとか…。

砂漠の中にある修道院は私もちょっと行ってみたい。


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ナショジオの記事を読んで「重いな」と思ったのは、これだけの話ではない。
比較的公平な視点を持とうと努力するナショジオにおいても、この記事の視点はやはりヨーロッパの…欧米側の、というか、 東へ侵略戦争を仕掛けた側の視点 が強い。

レヴァントでキリスト教勢が力を失っていったきっかけは、皮肉にもキリスト教国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還するために派遣した十字軍(1095~1291)だった。十字軍はイスラム教制圧が目的だったが、イスラム教諸国とキリスト教諸国の板挟みになったアラブ系のイスラム教徒も多数犠牲になった。


この短い文章は、おそらく、その「アラブ系キリスト教徒」当人たちにとっても、アラブのムスリムたちにとっても納得のいかない書き方だろうと思う。

十字軍は当初、全く統率の取れていないただの略奪者だった。
遠征当時、エルサレムやその他の都市で、イスラム教徒、ユダヤ教徒とまじって平和に暮らしていた同じキリスト教徒も襲撃し、虐殺している。襲撃に際して、密通を恐れた城主が都市の中にいたキリスト教徒を追い出したこともあり、東方世界の平和な共存を最初にブチ壊したのは、そもそも自分たちだ。そこから千年に渡る対立が始まるのだから、何を西の連中は他人事みたいに言ってるんだ、と、現地の住み続けているキリスト教徒は思うはずだ。

「十字軍」と「アラブ系キリスト教徒」。
記事の中でさらっと触れられた一文の奥にあるのは、実は根深い問題なのである。

#ちなみにアラブ世界では、十字軍は「フランク」とか「フランジャ」と呼ばれた
#フランク王国、フランク人のフランクである。
#当時のアラブ世界では蛮族の代名詞だったと思っていい



十字軍騎士ことフランクの皆さんがエルサレム占拠に際して何をやったかについては、たとえば「アラブが見た十字軍」(ちくま学芸文庫)という本にある。

同宗の信徒といえども容赦されなかった。フランクが最初に手がけた措置のひとつは、東方正教会派、すなわち、ギリシア、グルジア、アルメニア、コプト、シリアの各協会派の全司祭を聖墳墓協会から追放したことである。これら教会派は古い伝統に従って、そこでいっしょに祭式を行ってきた。そしてどんな征服者もこれまでその伝統を尊重してきたのであった。あまりの狂信性に肝をつぶし、これら東方教会の指導者たちは抵抗することに決める。彼らは、キリストが架けられた真(まこと)の十字架を隠してきた場所を占領者に明かすことを拒んだ。彼ら司祭たちにとっては、聖遺物崇拝は郷土愛的な誇りに通じている。事実、彼らはあのナザレびとと同郷人ではないか。

しかし、侵略者たちはそういうことに動ずるどころか、十字架の守り役の司祭たちを引っ捕え、拷問にかけて口を割らせた。こうして彼らは、聖都のキリスト教徒から、最も貴重な聖遺物を強奪することができたのである。


この記述は誇張ではない。持ち出されたキリストの十字架がどうなったかというと、細切れにされてバラ撒かれ、今では「船一杯ぶんほどの」木片が世界各地にあるという。
もちろん最初に聖墳墓教会にあった十字架が本物だったかどうかは分からないのだが…
人様んとの聖遺物(しかも同じキリスト教徒の)を分捕った挙句、バラバラにして売りとばしちゃうとか、そりゃあアラブ側の記録で蛮族と書かれてても仕方が無い。

今も現地に残る、「ナザレびとと同郷人」のキリスト教徒たちは、もしかしたら、 こんな感じで思っているかもしれない。

”かつてはフランクが聖地から我々を追い出そうとした、
 今、再び我々が聖地を出て行かねばならないのは 誰のせいなのか?”

…と。


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アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)
筑摩書房
アミン マアルーフ


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