古代エジプトにおける奴隷の実態
古代エジプトには、ほとんど奴隷がいなかった。
あのギザ台地の巨大なピラミッドを建設した労働力は、かつては奴隷を強制的に働かせていたと思われていたが、実際はその大半がほかならぬエジプト人から出ていたように、それ以降の時代も、エジプトにおいて奴隷は重要な労働力ではなかった。
エジプトの法では奴隷と自由民の差がほとんど無かったらしい。奴隷は自由民と結婚すれば解放されたし、正式に結婚しなくても自由民との間に出来た子供は、認知されればもはや奴隷ではなかった。罪人奴隷、戦争奴隷、そしてメソポタミアでは一般的だった債務奴隷も、残されたパピルス文書の中にほとんど出てこない。
奴隷の記録として有名なのは新王国時代の奴隷の記録「ブルックリン・パピルス」だが、読み取れる80名のうち47名がアジア人、それも大半がシリア・パレスティナ出身である。国内の単純労働力は足りており、わざわざ大量に捕獲して連れ帰る意味がなかったのかもしれない。
では大量のアジア人奴隷が何なのかというと、その内訳の男女比率を見ると状況が概ね理解できる。連れてこられた女性たちの大半は織物技術者である。「ハティウ布織り」や「シェセル布織り」という言葉が使われている。おそらく、また奴隷の中には髪結い・ビールつくり・サンダルづくり・家庭教師 などという職業もあり、農作業など単純労働に従事する者のほうがむしろ少ない結果となっている。
新王国時代以降、エジプトで産業が盛んになるにつれ、こうした特殊技能を持つ異国人奴隷の価値は高くなり、奴隷商人も存在したらしい。だが、人身売買だから奴隷と呼ばれるだけで、実際は暮らしぶりの楽なエジプトに人を斡旋するような役割、いってみれば移住希望者の斡旋商売とも言える。
派遣された技術奴隷は、一定のがんばりを見せれば正社員(エジプトの一員)になることも出来たし、技能を持つ人材は貴重だから大事にされたはずだ。
奴隷を買い取ったエジプト人は、決して裕福な層だけではない。
シリア・パレスティナとの頻繁な行き来が発生する新王国時代には、中産階級に相当する市民も一家に一人か二人の奴隷をおいておくことが一般的に行われていたとする証拠がある。奴隷というより「お手伝いさん」的な感覚だったのかもしれない。
さて、買い取られた奴隷は、別の家に貸し出されることもあった。
貸し出し料金は奴隷の持つ技能次第である。奴隷の持ち主が派遣元となって、優れた技能を持つ奴隷を貸し出して利益を得ることも出来たというわけだ。
その一例を挙げてみる。
第十八王朝のパピルスである。
代金は分割払いも可能だったようで、後日、「女奴隷ヘヌウトの4日ぶんの労働代」として穀物6袋、ヤギ6頭、銀1シャト、計12シャトが支払われた、となっている。牛一頭が8シャト、ヤギ8頭が4シャトという価値からみて、かなりの高給取りだったことが分かる。
特殊技能を持つ、高給取りな奴隷は、いわば技術派遣のようにしてエジプトに入ってきた。
その技術内容は幅広く、たとえばガラス細工の技術なども、アジア人労働者が完成させた形でエジプトに持ち込んだ。ガラス細工は墓の副葬品としても多く作られ、王や貴族に重宝されていたはずで、ここまでくるともう奴隷なのか口説き落として連れてきたのかよく分からない。
奴隷と自由民の間は曖昧であり、その境界は、異なる時代・場所の奴隷たちよりも、比較的容易に越えうるものだったと言うべきだろう。
@尚、末期王朝時代になると、奴隷の扱いはかなり変わる。
@クレオパトラの時代になると債務奴隷もけっこういたらしい。
@もちろんそのへんの時代は、既に貨幣経済に移行してるので全然社会構造が違うのだが。
あのギザ台地の巨大なピラミッドを建設した労働力は、かつては奴隷を強制的に働かせていたと思われていたが、実際はその大半がほかならぬエジプト人から出ていたように、それ以降の時代も、エジプトにおいて奴隷は重要な労働力ではなかった。
エジプトの法では奴隷と自由民の差がほとんど無かったらしい。奴隷は自由民と結婚すれば解放されたし、正式に結婚しなくても自由民との間に出来た子供は、認知されればもはや奴隷ではなかった。罪人奴隷、戦争奴隷、そしてメソポタミアでは一般的だった債務奴隷も、残されたパピルス文書の中にほとんど出てこない。
奴隷の記録として有名なのは新王国時代の奴隷の記録「ブルックリン・パピルス」だが、読み取れる80名のうち47名がアジア人、それも大半がシリア・パレスティナ出身である。国内の単純労働力は足りており、わざわざ大量に捕獲して連れ帰る意味がなかったのかもしれない。
では大量のアジア人奴隷が何なのかというと、その内訳の男女比率を見ると状況が概ね理解できる。連れてこられた女性たちの大半は織物技術者である。「ハティウ布織り」や「シェセル布織り」という言葉が使われている。おそらく、また奴隷の中には髪結い・ビールつくり・サンダルづくり・家庭教師 などという職業もあり、農作業など単純労働に従事する者のほうがむしろ少ない結果となっている。
新王国時代以降、エジプトで産業が盛んになるにつれ、こうした特殊技能を持つ異国人奴隷の価値は高くなり、奴隷商人も存在したらしい。だが、人身売買だから奴隷と呼ばれるだけで、実際は暮らしぶりの楽なエジプトに人を斡旋するような役割、いってみれば移住希望者の斡旋商売とも言える。
派遣された技術奴隷は、一定のがんばりを見せれば正社員(エジプトの一員)になることも出来たし、技能を持つ人材は貴重だから大事にされたはずだ。
奴隷を買い取ったエジプト人は、決して裕福な層だけではない。
シリア・パレスティナとの頻繁な行き来が発生する新王国時代には、中産階級に相当する市民も一家に一人か二人の奴隷をおいておくことが一般的に行われていたとする証拠がある。奴隷というより「お手伝いさん」的な感覚だったのかもしれない。
さて、買い取られた奴隷は、別の家に貸し出されることもあった。
貸し出し料金は奴隷の持つ技能次第である。奴隷の持ち主が派遣元となって、優れた技能を持つ奴隷を貸し出して利益を得ることも出来たというわけだ。
その一例を挙げてみる。
第十八王朝のパピルスである。
アメンヘテプ3世の治世、第33年増水季第1月5日。
この日牛飼いメシによって。女市民ビハイとその息子である下級神官メニより、女奴隷ケリトを17日、女奴隷ヘヌウトを4日借用するという契約がなされた。彼らにその代価として、衣服一枚、別の種類の衣服1枚、牡牛1頭、ヤギ8頭および15シャトが与えられた。
代金は分割払いも可能だったようで、後日、「女奴隷ヘヌウトの4日ぶんの労働代」として穀物6袋、ヤギ6頭、銀1シャト、計12シャトが支払われた、となっている。牛一頭が8シャト、ヤギ8頭が4シャトという価値からみて、かなりの高給取りだったことが分かる。
特殊技能を持つ、高給取りな奴隷は、いわば技術派遣のようにしてエジプトに入ってきた。
その技術内容は幅広く、たとえばガラス細工の技術なども、アジア人労働者が完成させた形でエジプトに持ち込んだ。ガラス細工は墓の副葬品としても多く作られ、王や貴族に重宝されていたはずで、ここまでくるともう奴隷なのか口説き落として連れてきたのかよく分からない。
奴隷と自由民の間は曖昧であり、その境界は、異なる時代・場所の奴隷たちよりも、比較的容易に越えうるものだったと言うべきだろう。
@尚、末期王朝時代になると、奴隷の扱いはかなり変わる。
@クレオパトラの時代になると債務奴隷もけっこういたらしい。
@もちろんそのへんの時代は、既に貨幣経済に移行してるので全然社会構造が違うのだが。