映画「アバター」 …現実逃避したいネトゲ廃人に嬉しい"ご都合ファンタジー"

映画「アバター」を見に行ってきた。



映画自体は大変面白い。

繰り返す、映画としてのクオリティは高く、映像美、音楽、ストーリーなどはとてもよい。エンタテイメントとしての映画の正しい姿。


ただ、この映画、ファンタジー風のゲームや、特にMMOに慣れ親しんでいる人にとっては、痛い映画かもしれない。
まずはネタバレ少な目でどのへんが痛いのかを…。








見て思ったことは、これは主人公をネトゲ廃人だと思うと完全に皮肉としか思えない内容になるな、ということ。

地球から約5光年離れた惑星パンドラ=ネトゲの仮想世界、主人公=ネトゲ廃人、ナヴィたちはネトゲ内の種族で、ナヴィたちの「神」である母なる女神=ネトゲ運営と置き換えても全然話は通じるっていうか、むしろそっちのほうが面白い(笑) 

 「女神は誰の味方もしないわ。自然界の調和を守るだけ」
    ↓
 「運営は誰の味方もしないわ。サーバ内の調和を守るだけ」

こう置き換えればバッチリ。




そもそもこの映画、設定からしてイヤミなのだ。
主人公ジェイクは、現実世界では冴えない男で、色んな意味で居場所がない。そこへ舞い込んだ「アバター計画」。彼は作られた体「アバター」に入り込み、地球から遠く離れた「惑星パンドラ」に潜入することになる。

【現実】

・ベネズエラの戦役で下半身不随となっており退役軍人は金もない
・優秀な科学者だった双子の兄の身代わり、兄の同僚には「欲しかったのはお前の兄さんだ」とか言われる
・半人前扱い
・二重スパイさせられる犬
・どうやら他に家族もいないらしい
・頭は悪くないので自分の置かれた立場も利用されていることも理解していて自嘲気味

  ↓↓↓

【アバター】

しかーーーーし! ひとたびアバターに入れば走ることも跳ぶことも自由自在、かわいい彼女も出来たしドラゴンっぽい生き物に乗って空も飛べちゃう。
伝説の戦士、トゥルーク・マクトにもなれたYO!



… かくて主人公は、「アバター」に入って暮らす、ナヴィたちとの生活のほうにどっぷりと嵌っていくのである。



途中に入る、やつれた主人公の「どちらが現実なのか分からない」という独白や、「寝なさい」と言われてベッドに連れて行かれるさま、早くアバターに入りたくて特殊ベッドに入り込もうとする主人公に食事を差し出し「流し込むわよ」と言っている同僚、どれもゲームに夢中になりすぎてリアルを見失っているネトゲ廃人の末期症状の描写である。というかむしろ、故意に似せたのではないかとすら思えてしまう。

自由自在にかけまわるアバターの体と、重たい体を引きずりながら車椅子に乗ろうとする現実のギャップ。
アバターと一体化し、惑星パンドラの住人になったときだけ、彼は一人前と見做され、自由に生きることが出来る。そして現実世界でも、パンドラの住人であるナヴィたちの群れに入り込めるがゆえに、彼は必要とされている。

自力では変えられない、望ましくない現実に絶望した人間が、ネトゲの中で必要とされる(実際は、されていると錯覚しているだけなんだが(笑))がゆえにそこから抜け出せないのと良く似ている。




映画の中で、主人公のジェイクはまるで救世主か英雄かのような描かれ方をしていたが、それもまやかしだ。

主人公は所詮、ただの人間。それも、現実世界では大した地位もなく、体に障害を持ち、障害を直すための金ほしさにスパイの役を引き受ける元傭兵。アバターの体は作られたまがいもの、たとえ惑星パンドラが滅びたところで、そもそも彼には地球という故郷があり路頭に迷うことはなかった。アバターの体には神経が接続されているから死ねば痛みは感じるかもしれないが、その体が死んだところで現実の自分は死なない。ゲームと同じでゲームオーバーは死ではない。

アバターの体は「ガワ」であり、生命維持には別の場所にある本来の体が必要だ。
その体で食べ、眠り、体を洗い、排泄する生の営みを行わなければ、アバターは動かない。本体が病気になれば、アバターの体は健康でも、それを操る精神が狂ってしまう。

主人公の上司であるグレイスは、そのことを認識していた。
認識せずにどっぷりはまり込んでいたのは、多分ジェイクだけだ。




映画としては良く出来ていると思うと同時に、私は、かなり冷めた見方をしてしまったかもしれない。

世界観はよく出来ているが、独創性はない。設定もストーリーも、なんかどっかで見たような、ありがちなものばっかり。生き物や植物のデザインも、実は似たようなものが世の中に山ほど存在する。

仮想世界では、空に浮かぶ島も今やありふれた存在。巨大な木に住む一族に光る植物? そんな設定と映像のゲームは両手に余るほどプレイしたことがある。
ナヴィはFFのミスラの亜種みたいに見えるし、ジャングルの中の狩りするとこなんか完全にモンハンだし、テイムしてドラゴンを捕まえて空を飛ぶのはUOで、種族間抗争はFEZか。

同じような映像ならそのへんのMMOやRPGで普通にありそう。
と、いうか、実際「ある」から、見慣れているからこそ、映画の中の世界観、主人公がアバターに入って闊歩する「惑星パンドラ」がゲームっぽく思えてしまうのだろう。

主人公の同僚たちが次々死んでいくシーンだって、「死ぬ」=ゲーム引退 に見えてしまった。
仕様変更で敵対種族が強化されて勝てなくなりました。 ⇒ 無理ゲーなので辞めます。 みたいな。


というわけで、あんまり感動するとかそんなこともなく、面白かったのは面白かったけど何かイマイチ、ぬるいというか、偽善満載というか、主人公補正があるにしても展開がご都合主義すぎるとというか、そんな感じ。

ちなみに、音楽は素晴らしいです。




【以下ネタバレ】
























映画のラストで彼はアバターの体に精神を移し、永遠にアバター=ナヴィ族 として生きることになったようだが、現実ならそんなことはありえない。現実の体を捨てる? 人間が、作り物の体で幸せになる…?

それは ネトゲ廃人が大好きなゲームの中に入り込んで生きる のと同じエンディングだ。
究極の現実逃避であり、実際は何一つ解決していない空しいエンディング、見せ掛けだけのハッピーエンド。


そもそも人類とナヴィたちは何の歩み寄りもできず決別したままで、何ひとつ解決されていない。対立し溝が深まっただけ、状況は物語スタート時より格段に悪くなっている。
地球から増援来たらパンドラは今度こそ滅亡するんじゃないのか。
地球人側に死者が出たことで大義名分与えられてそうだし。
やるべきだったのは、惑星パンドラから人類を追い出すことではなく、地球本体に対しナヴィたち先住民の権利を訴えかけることだったはず。その橋渡し役にならずに、自分と同じ人類に対し攻撃を仕掛ける主人公ってただのバカだろ。

唯一問題を解決できそうだった、この物語の中で一番の良識派であり、どう考えても主人公よりはるかに重要でお役立ちだったグレイスはとばっちりで死亡。ナヴィたちの女神は、彼女こそ助けるべきだったのだが。

ていうか、人類とナヴィ側双方から見てグレイスが死んだことは決定的な損失だと思う。
そもそも主人公がナヴィたちと英語で会話できたのはグレイスが現地に学校を作って英語を教えていたからで、お互いに通じ合える言葉なくしてコミュニケーションって成り立たないよな。必要だったのは主人公の無謀な英雄行為じゃなく、グレイスの無償の愛じゃなかったのか。



…あの映画を正しく理解するならば、主人公たちは問題を先送りにしただけで、たぶん10年後(地球から増援が到着するまでの往復時間)には、惑星パンドラの住人は滅びていると思います。うん。

この記事へのトラックバック