The Rape of the Nile -ナイルの略奪
「ナイルの略奪」(法政大学出版局)、原題「The Rape of the Nile」。原題は、南京を連想するようであんまりいいタイトルではない気がする。ここのところ、エジプト関連の書物をまとめて復刊している法政大学出版局からの一冊。
古めかしい書体と文章は、これが過去に出版されたものの復刊だからだろう。カタカナがやや読みづらい(オスマン帝国を「オットマン帝国」と書いていたりする)以外は、内容が大きく問題があるということもなさそうだ。貴重な図版も沢山入っている。エジプト学の本を沢山読んでいる人にとっては見慣れたものだろうが、遺跡の略奪の歴史、エジプト人自身の忘却の過去、または、まだヒエログリフが解読されていなかった時代の各国旅行者たちの視点を感じることが出来る。
しかし、それよりも何よりも、すべてのエジプト学を愛好する同好の士には、また考古学や古代文明に興味を持つ人々には、今こそまさに、この本が必要となるだろう。
エジプト考古庁、そして現在のところその長官であるザヒ・ハワス博士が、世界の名だたる博物館に対し「過去にエジプトから持ち出した遺産を返却するよう」要請していることは、何度かブログ上でネタにしてきた。
https://55096962.seesaa.net/article/200912article_12.html
https://55096962.seesaa.net/article/200910article_12.html
https://55096962.seesaa.net/article/200906article_16.html
この本はエジプト遺物の略奪の歴史を描いている。すなわち、エジプトから遺物が持ち出された経緯と、持ち出した人物が書かれている。
エジプトの遺物略奪は、ファラオの時代、王権の弱まりつつあった第二十王朝に既に始まっていた。
王権が弱まると、墓荒らしと地方権力者が結びついて荒稼ぎするのを止められない。古代において、石像やパピルスなどの遺物はあまり省みられなかった。だが宝石や貴金属はいつの時代においても価値がある。王の墓から持ち出された最高級の装飾品や護符は、さぞかし高く売れただろう。
その後、ローマの支配を経て、やがてアラビア人、トルコ人の植民地となる時代がやってくる。
東ローマが去ってのち、オスマン時代に至るまで、エジプトに派遣されていた領事は、ぶっちゃけエジプトとかどーでもよく、しかも理解できない完全な異国人であった。ローマ人の王たち、あのクレオパトラもそうだが、彼らプトレマイオス王朝の王たちはその歴史と文化を村長し、勤めてエジプトに馴染もうとしたのに対し、トルコ人は古代の墓を宝物庫、神殿を採石場としか見なかったようだ。
また、エジプト人自身も、永きに渡る忘却の歴史の中で、自分たちの過去を忘れてしまった。もはや誰も古代の宗教を覚えておらず、ヒエログリフも読めなくなってしまっていたし、高く売れると分かれば、日々の暮らしのために旅行者たちに発掘品を売るのは仕方のないことだった。
食うのに困る者が、なぜ歴史に価値を見出すだろうか。
かつて豊かなナイルの恵みに潤った国はもはや古代の神々にもファラオにも敬意を払わなくなっていた。
かくて、過去の忘却とともに長い略奪の歴史は始まった。
だが特に19世紀からの近代は酷かったようで、それまでの数千年を越える破壊が、ここ最近の数百年で行われたという。
現在残る遺跡の多くが、天井や壁の一部を欠いているのは、偶然ではない。それらは運び去られ、町や工場を作るのに使われてしまった。円柱は輪切りにすると石臼にするのに丁度よかったらしい。なんともはや、である。
そのような中で、
というウォーリス・バッジの言い分は正しいのであり、
これもまた、その時代を反映した言い分ということになるのである。
ちなみに、ウォーリス・バッジは当時として悪名高き遺物買い付けエージェントであり、多くのエジプトコレクションを大英博物館へ送った人物である。
バッジよりも前、近代の盗掘に火をつけた人物がいた。イタリア人、ジョヴァンニ・ベルツォーニである。
この本の主人公の一人であり、ページの半分ほどが彼のために割かれている。
ベルツォーニがイギリスに送った多くの貴重な遺物、埋もれていたアブ・シンベル神殿の発掘、ロンドンで行った展示会の成功などが、エジプトブームに火をつけた。ブームとともに需要が生まれ。多くの好古家が遺物を買いあさる。そうなると値段がつりあがるから、現地では盗掘が盛んになる。
しかし同時に、興味の高まりは保護への意識転換にも役立つのだった。
オーギュスト・マリエット、ガストン・マスペロ、アメリア・ジョーンズ、フリンダース・ピートリ etc.
この本では、珍しくルーシー・ダフ・ゴードンなんかも登場する。考古学者として発掘をしたわけではないが、現地に住み着いて民俗について詳しく記した。転生は信じていなかったようだが、オム・セティと同じタイプの素人学者だったと思えばいい。
19世紀の終わりから20世紀の始まりにかけての転換期には、人々の意識が大きく動く。
ハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発掘は、まさにその転換期の終わりにあり、この発見を境にして、エジプトからの遺物の持ち出しは厳しく制限されるようになっていく。だが、その時はまだ、エジプト人自身が自らの過去に対し責任を持って保存するには不十分だった。つい最近まで、エジプトの遺物保護に対する取り組みは未熟そのものだった。カイロ博物館ですら、警備が手薄で、手狭で、雑多で、環境は最悪だった。
ウォーリス・バッジの言い分が完全に正しかったとは思わない。(なぜなら、現在では、ミイラはそれを掘り出した人の所有物ではないからだ)
しかし、売れないと分かると遺物を砕いて再利用してしまうような時代があったことは確かであり、海外に持ち出されることによってそうした破壊を免れるものがあったこともまた事実である。
と同時に、逆方向から見れば、いま遺物の保護者の顔をしている各国博物館は、かつて神殿を「爆破」して壁画を持ち去った破壊者であり、権力者に金を握らせて石像やオベリスクを奪い去った「ナイルの略奪者」でもあったのだ。
保護の歴史は略奪の歴史と表裏一体。
過去は過去として留め置きつつ、ザヒ・ハワス博士も、その後任者も、「これから」を考えるべきのように、今の私は思う。
古めかしい書体と文章は、これが過去に出版されたものの復刊だからだろう。カタカナがやや読みづらい(オスマン帝国を「オットマン帝国」と書いていたりする)以外は、内容が大きく問題があるということもなさそうだ。貴重な図版も沢山入っている。エジプト学の本を沢山読んでいる人にとっては見慣れたものだろうが、遺跡の略奪の歴史、エジプト人自身の忘却の過去、または、まだヒエログリフが解読されていなかった時代の各国旅行者たちの視点を感じることが出来る。
しかし、それよりも何よりも、すべてのエジプト学を愛好する同好の士には、また考古学や古代文明に興味を持つ人々には、今こそまさに、この本が必要となるだろう。
エジプト考古庁、そして現在のところその長官であるザヒ・ハワス博士が、世界の名だたる博物館に対し「過去にエジプトから持ち出した遺産を返却するよう」要請していることは、何度かブログ上でネタにしてきた。
https://55096962.seesaa.net/article/200912article_12.html
https://55096962.seesaa.net/article/200910article_12.html
https://55096962.seesaa.net/article/200906article_16.html
この本はエジプト遺物の略奪の歴史を描いている。すなわち、エジプトから遺物が持ち出された経緯と、持ち出した人物が書かれている。
エジプトの遺物略奪は、ファラオの時代、王権の弱まりつつあった第二十王朝に既に始まっていた。
王権が弱まると、墓荒らしと地方権力者が結びついて荒稼ぎするのを止められない。古代において、石像やパピルスなどの遺物はあまり省みられなかった。だが宝石や貴金属はいつの時代においても価値がある。王の墓から持ち出された最高級の装飾品や護符は、さぞかし高く売れただろう。
その後、ローマの支配を経て、やがてアラビア人、トルコ人の植民地となる時代がやってくる。
東ローマが去ってのち、オスマン時代に至るまで、エジプトに派遣されていた領事は、ぶっちゃけエジプトとかどーでもよく、しかも理解できない完全な異国人であった。ローマ人の王たち、あのクレオパトラもそうだが、彼らプトレマイオス王朝の王たちはその歴史と文化を村長し、勤めてエジプトに馴染もうとしたのに対し、トルコ人は古代の墓を宝物庫、神殿を採石場としか見なかったようだ。
また、エジプト人自身も、永きに渡る忘却の歴史の中で、自分たちの過去を忘れてしまった。もはや誰も古代の宗教を覚えておらず、ヒエログリフも読めなくなってしまっていたし、高く売れると分かれば、日々の暮らしのために旅行者たちに発掘品を売るのは仕方のないことだった。
食うのに困る者が、なぜ歴史に価値を見出すだろうか。
かつて豊かなナイルの恵みに潤った国はもはや古代の神々にもファラオにも敬意を払わなくなっていた。
かくて、過去の忘却とともに長い略奪の歴史は始まった。
だが特に19世紀からの近代は酷かったようで、それまでの数千年を越える破壊が、ここ最近の数百年で行われたという。
エレファンティンはそのうるわしい神殿を奪い去られて、今はもう委員会の偉大な作品(ナポレオンの遠征軍が作成した「エジプト誌」のこと)の中に存在するだけとなった。アルマントは、その正門の最も美しい半分を精糖工場に明け渡してしまった。エスナ、エルカブの小神殿、エドフのティフォニウム、サッカラのオンノフレの大墳墓、リコポリスの地下室の半分は、永久に失われた
1859年/ヴィヴィアン・ド・サンマルタン
現在残る遺跡の多くが、天井や壁の一部を欠いているのは、偶然ではない。それらは運び去られ、町や工場を作るのに使われてしまった。円柱は輪切りにすると石臼にするのに丁度よかったらしい。なんともはや、である。
そのような中で、
一人の考古学者が買おうとしなければ、他の考古学者が買うだろう。そして誰一人買おうとしなければ、ミイラの持ち主はミイラを叩き壊し、ばらばらにして火にくべてしまうだろう
というウォーリス・バッジの言い分は正しいのであり、
ミイラをエジプトから持ち去るということで個々の考古学者がどのような非難を受けようとも、この問題をよく理解している公平な人間ならば誰でも、次のことは認めなければならないだろう。つまり、ひとたびミイラが管財人の手に渡り、大英博物館に所蔵されることになってしまえば、それは、王のものであろうとなかろうと、エジプトの墳墓の中に保存されるよりははるかに良く保存される可能性があるということである
これもまた、その時代を反映した言い分ということになるのである。
ちなみに、ウォーリス・バッジは当時として悪名高き遺物買い付けエージェントであり、多くのエジプトコレクションを大英博物館へ送った人物である。
バッジよりも前、近代の盗掘に火をつけた人物がいた。イタリア人、ジョヴァンニ・ベルツォーニである。
この本の主人公の一人であり、ページの半分ほどが彼のために割かれている。
ベルツォーニがイギリスに送った多くの貴重な遺物、埋もれていたアブ・シンベル神殿の発掘、ロンドンで行った展示会の成功などが、エジプトブームに火をつけた。ブームとともに需要が生まれ。多くの好古家が遺物を買いあさる。そうなると値段がつりあがるから、現地では盗掘が盛んになる。
しかし同時に、興味の高まりは保護への意識転換にも役立つのだった。
オーギュスト・マリエット、ガストン・マスペロ、アメリア・ジョーンズ、フリンダース・ピートリ etc.
この本では、珍しくルーシー・ダフ・ゴードンなんかも登場する。考古学者として発掘をしたわけではないが、現地に住み着いて民俗について詳しく記した。転生は信じていなかったようだが、オム・セティと同じタイプの素人学者だったと思えばいい。
19世紀の終わりから20世紀の始まりにかけての転換期には、人々の意識が大きく動く。
ハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発掘は、まさにその転換期の終わりにあり、この発見を境にして、エジプトからの遺物の持ち出しは厳しく制限されるようになっていく。だが、その時はまだ、エジプト人自身が自らの過去に対し責任を持って保存するには不十分だった。つい最近まで、エジプトの遺物保護に対する取り組みは未熟そのものだった。カイロ博物館ですら、警備が手薄で、手狭で、雑多で、環境は最悪だった。
ウォーリス・バッジの言い分が完全に正しかったとは思わない。(なぜなら、現在では、ミイラはそれを掘り出した人の所有物ではないからだ)
しかし、売れないと分かると遺物を砕いて再利用してしまうような時代があったことは確かであり、海外に持ち出されることによってそうした破壊を免れるものがあったこともまた事実である。
と同時に、逆方向から見れば、いま遺物の保護者の顔をしている各国博物館は、かつて神殿を「爆破」して壁画を持ち去った破壊者であり、権力者に金を握らせて石像やオベリスクを奪い去った「ナイルの略奪者」でもあったのだ。
保護の歴史は略奪の歴史と表裏一体。
過去は過去として留め置きつつ、ザヒ・ハワス博士も、その後任者も、「これから」を考えるべきのように、今の私は思う。

