現代におけるエセ科学信仰も、何百年後かにはバカにされていると思うのです。
というわけで記事タイトルと関係あるんだがないんだか、最終的には関係あるんだけどいきなり何も関係なさそうなところから始めてみる。
現在お楽しみ中の本はこちら。「描かれなかった十字架」。
初期キリスト教についてちょっと調べたいことがあってついでに入手してきたのだが、まずまずの面白さ。
この本の著者は、「自分の言うことが絶対正しいとは限らないので眉に唾をつけるぐらいでいいよ」と言っているが、よい態度だと思う。宗教なんてもんは人により受け止め方や解釈が違うもので(宗教会議で統一しようったってそーはいかない)、「これこれが正しい」と言ってしまったら、その時点で言った人は宗教家になってしまうし、受け取る側は信仰としてその考えを受け入れるか否かという選択をさせられる羽目になる。
そもそもこの本の内容が「本当はエゲツなかったキリスト教美術史」な内容であることからして、絶対的に正しいのだ、という態度をとると、聖書の内容を頭から尻尾まで丸ごと固く信じているような人から猛烈な反発を食らう危険もあるわけで、曖昧な態度をとっておくのは後々の言い訳用に重要なことだと思う。
まぁ私もそんな感じの、「これは個人的な意見だから合ってるとか間違ってるとかじゃないよ」という感じでだらだらと語ってみたいと思う。ちなみにウチは真言宗の仏教徒で四国八十八箇所のどれかの寺の檀家だったりする典型的な四国民ですが、親戚にはカトリックの人もいたりしますよ。
私はこの人の考え方の方向や書きっぷりはわりと好きだ。
ただ一つ、これは違うだろと思ったのは、
信仰に理性を求めちゃダメだろう。
ってこと。
聖書にツッコミ入れながら、「なんでもっと理性的に考えなかったんだ昔の神学者たちはバカジャネーノ」とか言っちゃいけないんだ。信仰とはまず自ら信じることだから。
つか、そもそも、理性で全てに説明がつくのなら神なんぞいらんです。
人は理解できないことに出会った時こそ神を必要とすると思うんですよ。
人間の理性を過大評価してはいけない。
どんな理性的な人間も、自分のキャパシティを越えた事象に出会うと真っ白になるものだ。たとえば大災害とか大事故とかね。そんなとき、人は理性の限界を知り、神ではなくても人智を越えた何かの意識への侵入を許してしまうわけだ。
オーロラや、日食や、地震なんかも、今でこそ原因を知っていてそれが不思議なことでも何でもないと知っているわけだけれど、昔の人は何故それが起きるのかを知らなかったし、想像もつかなかった。世界は今より謎めいていた。人知を超えた現象の理由付けと原因として、神様の出番は多かった。
今でも神様の出番はなくなったわけじゃなくて、たとえば突然の身内の死とか、突然自分に襲い掛かる難病だとか、そういうどーしょーもない逃げようの無い「運」みたいなものに対しては、人の理性なんざ大した力は持たないと思うのですよ。だからって神に祈ってどうなるもんでもないと思うけど。自分の理性だけで立ち向かえるほど強くない人たちにとっては、必要なものだと思うんだ。
ていうか、もしもの時に頼れる「なにか」が居ないって、かなりマズいと思うんだ。自分の理性ではどうにも解決できない事象に巻き込まれているのに、神に祈ることも仏にすがることも、それ以外の何かに逃げることも出来ないとしたら、もうぶっ壊れるしかないじゃん?
(まぁアニメでも何でもいいんだよね。極度のストレス状態に陥った時に起動する緊急回路みたいな使い方の出来る信仰は、非常に有効。理性の処理がおっつかない時しか起動しない回路なら、そもそも理屈なんぞ最初から必要ない。)
と、いうわけで、この世がまだ未知なるものに溢れ、世界を照らす人の理性の灯が今よりも暗かった時代においては、過去の神学者や神父たちの語った諸々は、合理的な解釈だったのではないかと。
現代人の我々は神をバカにしても神罰のいかづちに貫かれたりしないことを知ってるし、雷って電気でしょ? くらい小学生でも知ってるし、飛行機に乗れば簡単に誰でも雲の上に行けて、そこに天の国なんぞないことも分かっているから何も恐れないのであって、雷のメカニズムを知らず、雲の上にも行ったことがない昔の人々にとってはそりゃ本当に恐ろしかったのかもしれないんだよ。という話である。
現代人にとっては、聖書の内容に矛盾ありまくりで、神様が身勝手だったりエコ贔屓激しかったり意味不明に思える命令を下してきたりするのはまぁ、まぁ、ツッコミ入れだしたらキリがないよねコレ、って世界である。
しかし過去の人々にとっては、ツッコミを入れることすなわち自分たちの世界を支える根本的な概念を崩すこと、自分の頼る瀬を失うこと、或いはもっと実際的に、共同体からの追放なんかを意味したんではないのかな。預言者たちの言うことは絶対! 疑うとかありえない! …だったんだと思う。
で、だからといって昔の人々がバカだったかというとそんなことは決してなく、現代人はむしろ「科学っぽいモノに恐れを抱きやすい」というだけの話だと思う。
「○○すると痩せる」「○○すると長生きする」的なアレとか。肥満と短命をただいたずらに恐れて教会ならぬ通販ショップの言うがままに祈りならぬ金を捧げるその姿、教会にお布施して最後の審判を免れようとした中世のクリスチャンとどう違うのかって、何も違いはせんのです。知識階級が製薬会社か神父かの違いだけで、自分たちがよく分からないまま抱いている恐れを知識階級の言うとおりにすれば解消できると信じている辺り、それはもはや信仰に等しいと思います。ただ、科学の神様は、困った時にあんま助けてくれなさそうなんだよな…
*****
…タイトルは最後の最後でしか関係ないうえに、実は本の内容にほとんど触れていないという。^^;
現在お楽しみ中の本はこちら。「描かれなかった十字架」。
初期キリスト教についてちょっと調べたいことがあってついでに入手してきたのだが、まずまずの面白さ。
この本の著者は、「自分の言うことが絶対正しいとは限らないので眉に唾をつけるぐらいでいいよ」と言っているが、よい態度だと思う。宗教なんてもんは人により受け止め方や解釈が違うもので(宗教会議で統一しようったってそーはいかない)、「これこれが正しい」と言ってしまったら、その時点で言った人は宗教家になってしまうし、受け取る側は信仰としてその考えを受け入れるか否かという選択をさせられる羽目になる。
そもそもこの本の内容が「本当はエゲツなかったキリスト教美術史」な内容であることからして、絶対的に正しいのだ、という態度をとると、聖書の内容を頭から尻尾まで丸ごと固く信じているような人から猛烈な反発を食らう危険もあるわけで、曖昧な態度をとっておくのは後々の言い訳用に重要なことだと思う。
まぁ私もそんな感じの、「これは個人的な意見だから合ってるとか間違ってるとかじゃないよ」という感じでだらだらと語ってみたいと思う。ちなみにウチは真言宗の仏教徒で四国八十八箇所のどれかの寺の檀家だったりする典型的な四国民ですが、親戚にはカトリックの人もいたりしますよ。
私はこの人の考え方の方向や書きっぷりはわりと好きだ。
ただ一つ、これは違うだろと思ったのは、
信仰に理性を求めちゃダメだろう。
ってこと。
聖書にツッコミ入れながら、「なんでもっと理性的に考えなかったんだ昔の神学者たちはバカジャネーノ」とか言っちゃいけないんだ。信仰とはまず自ら信じることだから。
つか、そもそも、理性で全てに説明がつくのなら神なんぞいらんです。
人は理解できないことに出会った時こそ神を必要とすると思うんですよ。
人間の理性を過大評価してはいけない。
どんな理性的な人間も、自分のキャパシティを越えた事象に出会うと真っ白になるものだ。たとえば大災害とか大事故とかね。そんなとき、人は理性の限界を知り、神ではなくても人智を越えた何かの意識への侵入を許してしまうわけだ。
オーロラや、日食や、地震なんかも、今でこそ原因を知っていてそれが不思議なことでも何でもないと知っているわけだけれど、昔の人は何故それが起きるのかを知らなかったし、想像もつかなかった。世界は今より謎めいていた。人知を超えた現象の理由付けと原因として、神様の出番は多かった。
今でも神様の出番はなくなったわけじゃなくて、たとえば突然の身内の死とか、突然自分に襲い掛かる難病だとか、そういうどーしょーもない逃げようの無い「運」みたいなものに対しては、人の理性なんざ大した力は持たないと思うのですよ。だからって神に祈ってどうなるもんでもないと思うけど。自分の理性だけで立ち向かえるほど強くない人たちにとっては、必要なものだと思うんだ。
ていうか、もしもの時に頼れる「なにか」が居ないって、かなりマズいと思うんだ。自分の理性ではどうにも解決できない事象に巻き込まれているのに、神に祈ることも仏にすがることも、それ以外の何かに逃げることも出来ないとしたら、もうぶっ壊れるしかないじゃん?
(まぁアニメでも何でもいいんだよね。極度のストレス状態に陥った時に起動する緊急回路みたいな使い方の出来る信仰は、非常に有効。理性の処理がおっつかない時しか起動しない回路なら、そもそも理屈なんぞ最初から必要ない。)
と、いうわけで、この世がまだ未知なるものに溢れ、世界を照らす人の理性の灯が今よりも暗かった時代においては、過去の神学者や神父たちの語った諸々は、合理的な解釈だったのではないかと。
現代人の我々は神をバカにしても神罰のいかづちに貫かれたりしないことを知ってるし、雷って電気でしょ? くらい小学生でも知ってるし、飛行機に乗れば簡単に誰でも雲の上に行けて、そこに天の国なんぞないことも分かっているから何も恐れないのであって、雷のメカニズムを知らず、雲の上にも行ったことがない昔の人々にとってはそりゃ本当に恐ろしかったのかもしれないんだよ。という話である。
現代人にとっては、聖書の内容に矛盾ありまくりで、神様が身勝手だったりエコ贔屓激しかったり意味不明に思える命令を下してきたりするのはまぁ、まぁ、ツッコミ入れだしたらキリがないよねコレ、って世界である。
しかし過去の人々にとっては、ツッコミを入れることすなわち自分たちの世界を支える根本的な概念を崩すこと、自分の頼る瀬を失うこと、或いはもっと実際的に、共同体からの追放なんかを意味したんではないのかな。預言者たちの言うことは絶対! 疑うとかありえない! …だったんだと思う。
で、だからといって昔の人々がバカだったかというとそんなことは決してなく、現代人はむしろ「科学っぽいモノに恐れを抱きやすい」というだけの話だと思う。
「○○すると痩せる」「○○すると長生きする」的なアレとか。肥満と短命をただいたずらに恐れて教会ならぬ通販ショップの言うがままに祈りならぬ金を捧げるその姿、教会にお布施して最後の審判を免れようとした中世のクリスチャンとどう違うのかって、何も違いはせんのです。知識階級が製薬会社か神父かの違いだけで、自分たちがよく分からないまま抱いている恐れを知識階級の言うとおりにすれば解消できると信じている辺り、それはもはや信仰に等しいと思います。ただ、科学の神様は、困った時にあんま助けてくれなさそうなんだよな…
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…タイトルは最後の最後でしか関係ないうえに、実は本の内容にほとんど触れていないという。^^;

