マネトーと「エジプト誌」の時代 ~その1~

マネトー、とは、「トトに愛されしもの」(多分、メリトートのギリシャ語形)という意味の名前である。ざっくり言うと「古代エジプト栄光の最後の時代、プトレマイオス朝時代に生きたエジプト神官」。そして、現在も使われている、エジプトの「第○○王朝」という概念を作った人である。

マネトーは紀元前305年ごろに生まれ、285年頃に亡くなったとされる。出身地はエジプトのメンデスまたはヘリオポリス。いずれも、古来からのエジプトの聖都である。

プトレマイオス朝は、ギリシャ系(マケドニア人)による王家だった。
アレキサンダーの去った後、その帝国は分割され、エジプトはプトレマイオスの一族が手に入れる。エジプト人はあまり積極的に貿易をやっていなかったが、ギリシャ系の人々にとって地中海貿易は必要なもの。ましてエジプトは当時、地中海世界有数の穀倉地帯である。プトレマイオス1世は、ナイル川を遡った先にある伝統的な首都を捨て、地中海に面したアレクサンドリア(アレキサンドリア)に新たな町を築き始める。その後も栄え続ける貿易港、アレクサンドリアの誕生である。

しかし、当時は― 古いもの、伝統を持つものが価値を持つ時代 であった。



プトレマイオス王家は、いわば突然エジプトで王になった、ぽっと出の一族。
しかも首都アレクサンドリアは、もともと町も何もなかった場所でその土地には歴史も何も無い。

となると、王家としては知識人を雇ってウチは歴史ある正当な王家ですという雰囲気を演出しないといけない。そこで雇われた一人がマネトー… というわけである。あるいは逆にマネトーが、プトレマイオス王家に対して「エジプトで王やるからには、こーしたほうがいいですよ」と上梓したともとれる。

そもそもエジプトには、誇れる長い歴史があった。
ピラミッドやスフィンクスをはじめ、各地に大神殿があり、ヘリオポリスをはじめとした古くからの宗教中心地にはおびただしい量の書物が貯蓄されていた。エジプト語が読める現地出身の神官であれば、それらを自由に用いて、いくらでも立派な歴史書を作り出すことが出来たのである。

たとえポッと出の王家であっても、何千年にも及ぶエジプトの歴史につなげられれば、即座に立派な伝統と格式を持つことが出来た。たとえ作られたばかりの町であっても、「エジプト」という歴史ある国の一部であると言われれば、即座に立派な都市へと変貌した。プトレマイオス1世が、アレキサンドリアを学術都市にしようとしたのは、おそらく偶然ではない。そうすることによって、新興都市アレクサンドリアはエジプトの歴史を背負う、アテネにもバビロニアにも負けない町になれたからだ。


マネトーが書いた「アイギュプティアカ(エジプト誌)」は、現存しない。他の人々の引用としてのみ残されている。
しかし、これが王家に進呈された、もともとは王家をヨイショする目的の本であったことは、残されている部分から推測されている。

マネトー以外にも王家の御用達知識人はいたようで、たとえばヘカタイオスという人も同じタイトルで「エジプト誌」を書いている。




重要なことは、マネトーは、エジプトの歴史を正確に書き残したかったわけではない、と知っておくことだ。
おそらく王家をヨイショするのに不都合な事実や、エジプトの輝かしい過去に相応しくない記述はしなかっただろう。彼は王家のための知識人であり、神官であり、歴史家ではなかった。もっとも、全くのデタラメや嘘を書いたのではないことは、彼の歴史分類がその後のエジプト学で大いに役立ったことからも分かるだろう。

彼がやった明らかなペテンは、エジプトの歴史を水増ししたことくらいだ。
どうやったのかというと、

 神様も歴史に入れた。

エジプト神話では、オシリスから王位を奪ったセトとホルスがエジプトの王権を巡って争う話があるが、そのあたりも実在の歴史に組み込まれてしまっている。神々がエジプトを治めた期間は、なんと人間の王たちが治めた期間より長い。自分の名前にも入っているトト神の治世が最も長く、3000年を越えるというから、もう何がなんだか。

まあこれは日本もそーだし、世界各国、いろんな国がやってそうなのでマネトーだけが悪いわけではない。
そもそも聖書だってアダムやイヴの時代の人間は何百年も生きるのが普通ってことになってるし。

もちろんエジプトの歴史が中断なく、王家が連綿と続いていたというのもマネトーが見せるまやかしなわけで、そのあたり、書物の書かれた時代背景を察していれば、取り扱いを間違うこともなかろうと思うわけである。

>>つづく

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