史実と神話の狭間 ~ギルガメシュ叙事詩~
ギルガメシュ(シュメル語ではビルガメシュ。ギルガメッシュという表記もある)とは、人類最古の叙事詩とも言われる「ギルガメシュ叙事詩」の主人公である。古くはシュメル時代に作られ、バビロニア語、アッシリア語でも記録された。楔文字で書かれた夥しい粘土板の出土は、この物語が王朝を越えて人気であったことを意味している。物語の終盤で、主人公が大洪水を生き延びた賢人のもとへ赴くシーンがあり、洪水伝説の元ネタとして発見当初から注目されてきた物語でもある。
紀元前2600年頃の物語にも関わらず、主人公は実在の人物だったと言われている。
物語の中で、ギルガメシュは「ウルク(という都市国家)の王」と呼ばれている。ウルクは実在したことが確認されている都市だ。同じ物語の中に、「キシュの王エンメバラゲシ」、「その息子アッガ」などが出てくるが、エンメバラゲシは実際にキシュの王であったことが遺物から証明されている。他にも歴史と符合する人物名が登場することから、ギルガメシュはエンメバラゲシと同時代の紀元前26世紀ごろにウルクの王として実在したと考えられている。
実在した王であるとしても、ギルガメシュは物語の中では神格化されている。
「2/3が神」であり、女神ニンスンを「母」と呼ぶ。(ただし、神と人間の間の子ではない。それなら1/2とか1/4になるはずだし、シュメル神話ではギリシャのように神と人は交わらない。育ての親とか、母として親しく崇拝するとかいう意味なのだと思う)
死後まもなくして神格化が始まったのだと推測されているが、それにしても、この物語にはある不可解な―― 不可解というか、不思議に思う点が、ある。気にしなければ気にしないでいいのだが、気になるとどうにもこうにも違和感を覚えてしまう事実がある。
それは、
この物語はBL要素を多分に含む叙事詩なのだ。
人類最古の叙事詩は、人類最古の男性同士の愛のカタチを描いた物語でもあった。
またまたそんな穿った読み方してんじゃねーの、と言われるかもしれないが、こればっかりは深読みしなくてもナナメに見なくてもズバリそのまんまBLなのだ。
若かりし日のギルガメシュは、腕っ節は強く英雄要素を備えているが粗暴で女好き、国中の女を嫁入り前の娘だろうが人妻だろうがさらって手篭めにしてしまう王である。困った人々は神に祈り、もたらされたのはエンキドゥという強い野人である。エンキドゥはギルガメシュをこらしめるべく作られ、遣わされたのだが、激しい戦いのあとに何故か友情が芽生えてしまうという少年ジャンプ的展開になってしまう。
親友となったエンキドゥとギルガメシュは「恋人のように」手を取り合う。ニンスン女神はギルガメシュに「エンキドゥを女のように抱き、彼に愛を注ぐだろう」と言う。抱き合ったりキッスしたり一緒に寝たりする。いいのか。これは本当にいいのか。シュメル語からアッカド語やバビロニア語に翻訳して広めちゃってるわけだが、主人公の英雄が男同士で抱き合っても、それは友情と解釈されるのか…?
解釈A: 男と抱き合ってもOK
シュメールでは、日本の戦国武将のように「女も男もたしなむ」のが支配者だった。
解釈B: 訳の関係でBLになってるだけで、ごく普通の友情表現だった
「恋人のように手を取り合う」「花嫁のように顔を覆う」「女のように愛を注ぐ」などの表現は、訳の都合上、言葉のうえでそうなっているだけで、意味としては親友に対する振る舞いに過ぎない。
どうだろうか。
花嫁のように顔を覆う」=女々しく逃げる という解釈もありそうっちゃありそうだが、「女のように愛する」とかもう比喩の範疇越えてるだろ… っちゅーことで解釈Bは厳しそうな気が。
解釈Aも厳しいが、エジプトでも、嵐の神セトが甥っ子を押し倒そうとする神話があるくらいなので、男同士でもやったもん勝ちな文化がもしかしたら少しはあったのかもしれない。だが、そうだとすると解釈Bはなくなって、書いてある単語はすべてそのまま解釈しろと、そういうことになる。男もOKで愛する親友を囲っておく王を神格化して後世に伝えちゃう。そんな人類の歴史って一体。
というか、そもそもエンキドゥは実在したのだろうか。ギルガメシュは実在した可能性が高いという。ならばその親友、森から現れた野人エンキドゥも実在していて、実際にギルガメシュと行動をともにしていたかもしれない。だとすると、それでもギルガメシュは神格化されたことになり、しかも男同士でイチャイチャしてても特に非難されることはなかったわけで、同性愛に対するあり方が現代とずいぶん違っていたことになりはしないか。
というか、これを語るには、厳密には、まずギルガメシュとエンキドゥが抱き合ったり手を繋いだりするシーンが、彼の死後一体いつから書き記されるようになったかを証明しないといけないのだが、シュメル語版は古いぶんあまり残っていないので良く分からない。紀元前2000年ごろから遣われ始めるアッカド語の版では確実に存在する。案外、アッカド人がちょっと手を加えたのかもしれない。アッカド神話は男同士カップルで妊娠するエピソードもあったりして、ちょっとぶっ飛んだ感じなのは確かだ。もし後世のつけたしだとすると、ギルガメシュは実在しても、親友エンキドゥは実在しなかったり、物語の中に登場するような親友的存在ではなく、ただの腕の立つ家来だった可能性もあるかもしれない。それはそれで面白くないというか濃厚な男同士の友情がないといまいちファンタジーとして盛り上がらないわけだが。
と。そんなどーでもよさそうなことをウダウダと考えてしまうあたり、自分は本当にどうしようもないなと思います、ハイ。我ながら一体なんなんだこのエントリは。
いや、腐ってないし怪しくもない。…これは文化人類学的思考なのですよ…
*翻訳の正確さならこちら
*軽く読みたいならこちら
紀元前2600年頃の物語にも関わらず、主人公は実在の人物だったと言われている。
物語の中で、ギルガメシュは「ウルク(という都市国家)の王」と呼ばれている。ウルクは実在したことが確認されている都市だ。同じ物語の中に、「キシュの王エンメバラゲシ」、「その息子アッガ」などが出てくるが、エンメバラゲシは実際にキシュの王であったことが遺物から証明されている。他にも歴史と符合する人物名が登場することから、ギルガメシュはエンメバラゲシと同時代の紀元前26世紀ごろにウルクの王として実在したと考えられている。
実在した王であるとしても、ギルガメシュは物語の中では神格化されている。
「2/3が神」であり、女神ニンスンを「母」と呼ぶ。(ただし、神と人間の間の子ではない。それなら1/2とか1/4になるはずだし、シュメル神話ではギリシャのように神と人は交わらない。育ての親とか、母として親しく崇拝するとかいう意味なのだと思う)
死後まもなくして神格化が始まったのだと推測されているが、それにしても、この物語にはある不可解な―― 不可解というか、不思議に思う点が、ある。気にしなければ気にしないでいいのだが、気になるとどうにもこうにも違和感を覚えてしまう事実がある。
それは、
この物語はBL要素を多分に含む叙事詩なのだ。
人類最古の叙事詩は、人類最古の男性同士の愛のカタチを描いた物語でもあった。
またまたそんな穿った読み方してんじゃねーの、と言われるかもしれないが、こればっかりは深読みしなくてもナナメに見なくてもズバリそのまんまBLなのだ。
若かりし日のギルガメシュは、腕っ節は強く英雄要素を備えているが粗暴で女好き、国中の女を嫁入り前の娘だろうが人妻だろうがさらって手篭めにしてしまう王である。困った人々は神に祈り、もたらされたのはエンキドゥという強い野人である。エンキドゥはギルガメシュをこらしめるべく作られ、遣わされたのだが、激しい戦いのあとに何故か友情が芽生えてしまうという少年ジャンプ的展開になってしまう。
親友となったエンキドゥとギルガメシュは「恋人のように」手を取り合う。ニンスン女神はギルガメシュに「エンキドゥを女のように抱き、彼に愛を注ぐだろう」と言う。抱き合ったりキッスしたり一緒に寝たりする。いいのか。これは本当にいいのか。シュメル語からアッカド語やバビロニア語に翻訳して広めちゃってるわけだが、主人公の英雄が男同士で抱き合っても、それは友情と解釈されるのか…?
解釈A: 男と抱き合ってもOK
シュメールでは、日本の戦国武将のように「女も男もたしなむ」のが支配者だった。
解釈B: 訳の関係でBLになってるだけで、ごく普通の友情表現だった
「恋人のように手を取り合う」「花嫁のように顔を覆う」「女のように愛を注ぐ」などの表現は、訳の都合上、言葉のうえでそうなっているだけで、意味としては親友に対する振る舞いに過ぎない。
どうだろうか。
花嫁のように顔を覆う」=女々しく逃げる という解釈もありそうっちゃありそうだが、「女のように愛する」とかもう比喩の範疇越えてるだろ… っちゅーことで解釈Bは厳しそうな気が。
解釈Aも厳しいが、エジプトでも、嵐の神セトが甥っ子を押し倒そうとする神話があるくらいなので、男同士でもやったもん勝ちな文化がもしかしたら少しはあったのかもしれない。だが、そうだとすると解釈Bはなくなって、書いてある単語はすべてそのまま解釈しろと、そういうことになる。男もOKで愛する親友を囲っておく王を神格化して後世に伝えちゃう。そんな人類の歴史って一体。
というか、そもそもエンキドゥは実在したのだろうか。ギルガメシュは実在した可能性が高いという。ならばその親友、森から現れた野人エンキドゥも実在していて、実際にギルガメシュと行動をともにしていたかもしれない。だとすると、それでもギルガメシュは神格化されたことになり、しかも男同士でイチャイチャしてても特に非難されることはなかったわけで、同性愛に対するあり方が現代とずいぶん違っていたことになりはしないか。
というか、これを語るには、厳密には、まずギルガメシュとエンキドゥが抱き合ったり手を繋いだりするシーンが、彼の死後一体いつから書き記されるようになったかを証明しないといけないのだが、シュメル語版は古いぶんあまり残っていないので良く分からない。紀元前2000年ごろから遣われ始めるアッカド語の版では確実に存在する。案外、アッカド人がちょっと手を加えたのかもしれない。アッカド神話は男同士カップルで妊娠するエピソードもあったりして、ちょっとぶっ飛んだ感じなのは確かだ。もし後世のつけたしだとすると、ギルガメシュは実在しても、親友エンキドゥは実在しなかったり、物語の中に登場するような親友的存在ではなく、ただの腕の立つ家来だった可能性もあるかもしれない。それはそれで面白くないというか濃厚な男同士の友情がないといまいちファンタジーとして盛り上がらないわけだが。
と。そんなどーでもよさそうなことをウダウダと考えてしまうあたり、自分は本当にどうしようもないなと思います、ハイ。我ながら一体なんなんだこのエントリは。
いや、腐ってないし怪しくもない。…これは文化人類学的思考なのですよ…
*翻訳の正確さならこちら
*軽く読みたいならこちら


