ツタンカーメンの死因: 古代エジプトとマラリアの被害
ここのところ、もにょもにょと調べていたことの途中まで。
高度な資料まで読み砕く時間は暫く取れそうに無い…。
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2010年2月、いまや世界的に有名な古代エジプトのファラオ、ツタンカーメンの死因の一つが、マラリアであったと報道された。マラリアは蚊が媒介する熱病で、アフリカ南部は特にその感染者が多い地域である。
しかし、現代のマラリアの発祥地はエジプト以南である。そもそも古代エジプトではマラリアは流行っていたのか? その証拠はあるのか? という疑問を抱いた人がいると思う。
参考:厚生労働省の蚊が媒介する病気の分布図
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou27/dl/beshi4.pdf
証拠はあまり多くはない。というより、ミイラから、目に見えないマラリアの証拠を見つけられるようになったのが、ごく最近のことなので研究があまり進んでいない。少なくとも、古代人が蚊に悩まされていたことを示す記述は、ヘロドトスの「歴史」には登場する。
寝る時に使った網は蚊帳のようなものだろうか。それは魚とる網とは別もんだろー。というツッコミはまぁ、まぁ、置いておくとして、少なくとも沼地の住人が蚊に悩まされていたらしいことは分かる。
大前提として、エジプトは暑く乾燥した国だ。国土の90%は水溜まりすらない砂漠、ボウフラの湧く余地はない。雨も年に数回、それもごく一瞬しか降らないから、水は地表に留まらない。蚊が生きていけるのは、川の流れの緩やかな淀みと、人間が人工的に作り出した用水路や溜池などに限られる。
古代、ツタンカーメンの生きた時代… その条件に一致する、蚊による伝染病に罹り易いリスキーな土地だった場所とは…、 下ナイルのデルタ地帯だ。
左下に拡大されている、河口付近が「ナイルデルタ」になる。
近代になって、川の上流にアスワン・ハイ・ダムという巨大なダムが作られる前は、ナイルは一年に一度、上流の雨季に遭わせて氾濫を起こす川だった。氾濫した水は周囲を何ヶ月も水浸しにし、下流の町は水の中に浮く島のようになったという。
また、ナイルデルタから少し上流になるが、ファイユーム地方という穀倉地帯がある。これも拡大地図の中に入っているが、最古の灌漑の跡が見られるという古代の穀倉地帯で、ナイルから引き込まれた水が巨大な水溜りをつくり、周囲の畑に十分な水を供給する。ここも何ヶ月も冠水するうえに水の流れは殆ど無く、蚊の繁殖に適している。
さて地図の中に、二つの都市を記した。
一つは古代エジプト最古の都市にして、その歴史を通じて数千年の間エジプトの中心でありつづけた都市「メンフィス」。現在の首都・カイロの対岸にある。日本で言うところの京都だと常々喩えてきたが、そんなかんじの場所である。
もう一つは新王国時代―― ツタンカーメンの生きた時代の少し前から首都機能を持ち始めた都市で、日本でたとえるなら東京である。対岸には、王や王族の墓が多数作られた、王家の谷がある。
見ての通り、メンフィスはナイルデルタに接しているが、テーベはナイルの上流のほうで、比較すれば蚊の媒介する熱病のリスクは低い。新王国時代を通して、王たちはテーベに住まい、そこに墓、王宮、神殿を建ててきた。しかしツタンカーメンの時代は違っていた。もしかすると、ツタンカーメンはメンフィスに住んだかもしれない。
ツタンカーメンの父親(と、今は判明した)アクエンアテン王は、壮麗な首都テーベを突然放棄し、メンフィスとテーベの間の、それまで町が作られたことのない土地に、エル・アマルナという自分だけの都市を建設した。強引な遷都は反発を呼び、新首都は王の死とともに数十年で放棄される。その後、後継者であるツタンカーメンは従来の首都テーベに戻ったのではないか… というのがよく言われる説なのだが、疑問もある。
そもそもアクエンアテンは、テーベにいる神官団が、王に匹敵する権力を得たことが気に食わなかったのが原因で、新たな町を作ろうとしたのだという。その神官団の本拠地であるテーベにあっさり帰れたものかどうか。ツタンカーメン銘いりの遺物がメンフィス周辺から見つかっていたりして、短期間にせよメンフィスに在住した可能性はあるかもしれない。
そうでなくとも、メンフィスは王の常住する場所でなくなってからもエジプトの中心であったことに変わりはない。(現代日本で、かのやんごとなきお方の本来おわすところが京都ということになっているのと同じである) 儀礼・式典などで訪れた可能性はあるだろう。
もしツタンカーメンが、メンティスにいる時にマラリアに罹り亡くなったのなら、もう一つの推測にも繋がってくる。
ツタンカーメンのミイラは、とても状態が悪い。皮膚がひび割れ、肉体の一部は正常に保存されていない。エジプトは暑い国だから、死体はすぐに腐り始めてしまうのだ。何らかの原因で、死後すぐに適切な処置が出来なかったのではないか、と言われている。
参考: ミイラの状態がわかる、顔のアップ写真 (※ややグロ。そうでなくても幻想を打ち砕かれる危険性あり)
埋葬施設の整っているテーベではなくメンフィスで亡くなった、あるいはメンフィスから帰る途中で亡くなったのだとすると、遺体に応急処置しか出来ず、ミイラにする前に遺体の一部が腐敗してしまった可能性も出てくる。
つまり・・・・・
メンフィス滞在中にマラリアに感染していれば、死因とミイラの状態に、説得力のある筋書きをつけられそうだということ。
現実は、常に最良のシナリオが正解というわけではないのだが、これは一つの可能性としてアリではないかと思う。ミイラは過去を語る。これから研究が進んで、他にマラリアに罹ったことのある古代エジプト人が見つかれば、もっと詳細なことが言えるようになるだろう。
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とりあえず、このへんとか勧めてみる。
疫病は文明の発達を妨げる大きな要因なのです。人材をランダムで定期的にロストさせるバッドイベント。
面白いかといわれるとあんまり面白くはないけど、取り合えず一通り「全部いり」な本
古病理学とか、ギデオン・オリヴァーとか聞いて耳ぴくっとなる人にはオススメ。
高度な資料まで読み砕く時間は暫く取れそうに無い…。
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2010年2月、いまや世界的に有名な古代エジプトのファラオ、ツタンカーメンの死因の一つが、マラリアであったと報道された。マラリアは蚊が媒介する熱病で、アフリカ南部は特にその感染者が多い地域である。
しかし、現代のマラリアの発祥地はエジプト以南である。そもそも古代エジプトではマラリアは流行っていたのか? その証拠はあるのか? という疑問を抱いた人がいると思う。
参考:厚生労働省の蚊が媒介する病気の分布図
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou27/dl/beshi4.pdf
証拠はあまり多くはない。というより、ミイラから、目に見えないマラリアの証拠を見つけられるようになったのが、ごく最近のことなので研究があまり進んでいない。少なくとも、古代人が蚊に悩まされていたことを示す記述は、ヘロドトスの「歴史」には登場する。
実におびただしくいる蚊に対しては、彼等はその対策としてこのような工夫をしている。沼沢地の上部の住人は城壁の高い塔を利用し、それへ上がって行って寝ている。蚊は風のために高く飛べないからである。が、沼沢地の住人は高い塔の代わりにどんな工夫を凝らしているかというと、彼らは皆網を持っており、昼間はそれで魚を捕獲するが、夜間にはそれを利用し、寝床の周囲にその網を立てかけて置いて、もぐりこんでその下に就寝する、という具合にしている。
第二巻95(青木巌訳/新潮社)
寝る時に使った網は蚊帳のようなものだろうか。それは魚とる網とは別もんだろー。というツッコミはまぁ、まぁ、置いておくとして、少なくとも沼地の住人が蚊に悩まされていたらしいことは分かる。
大前提として、エジプトは暑く乾燥した国だ。国土の90%は水溜まりすらない砂漠、ボウフラの湧く余地はない。雨も年に数回、それもごく一瞬しか降らないから、水は地表に留まらない。蚊が生きていけるのは、川の流れの緩やかな淀みと、人間が人工的に作り出した用水路や溜池などに限られる。
古代、ツタンカーメンの生きた時代… その条件に一致する、蚊による伝染病に罹り易いリスキーな土地だった場所とは…、 下ナイルのデルタ地帯だ。
左下に拡大されている、河口付近が「ナイルデルタ」になる。
近代になって、川の上流にアスワン・ハイ・ダムという巨大なダムが作られる前は、ナイルは一年に一度、上流の雨季に遭わせて氾濫を起こす川だった。氾濫した水は周囲を何ヶ月も水浸しにし、下流の町は水の中に浮く島のようになったという。
また、ナイルデルタから少し上流になるが、ファイユーム地方という穀倉地帯がある。これも拡大地図の中に入っているが、最古の灌漑の跡が見られるという古代の穀倉地帯で、ナイルから引き込まれた水が巨大な水溜りをつくり、周囲の畑に十分な水を供給する。ここも何ヶ月も冠水するうえに水の流れは殆ど無く、蚊の繁殖に適している。
さて地図の中に、二つの都市を記した。
一つは古代エジプト最古の都市にして、その歴史を通じて数千年の間エジプトの中心でありつづけた都市「メンフィス」。現在の首都・カイロの対岸にある。日本で言うところの京都だと常々喩えてきたが、そんなかんじの場所である。
もう一つは新王国時代―― ツタンカーメンの生きた時代の少し前から首都機能を持ち始めた都市で、日本でたとえるなら東京である。対岸には、王や王族の墓が多数作られた、王家の谷がある。
見ての通り、メンフィスはナイルデルタに接しているが、テーベはナイルの上流のほうで、比較すれば蚊の媒介する熱病のリスクは低い。新王国時代を通して、王たちはテーベに住まい、そこに墓、王宮、神殿を建ててきた。しかしツタンカーメンの時代は違っていた。もしかすると、ツタンカーメンはメンフィスに住んだかもしれない。
ツタンカーメンの父親(と、今は判明した)アクエンアテン王は、壮麗な首都テーベを突然放棄し、メンフィスとテーベの間の、それまで町が作られたことのない土地に、エル・アマルナという自分だけの都市を建設した。強引な遷都は反発を呼び、新首都は王の死とともに数十年で放棄される。その後、後継者であるツタンカーメンは従来の首都テーベに戻ったのではないか… というのがよく言われる説なのだが、疑問もある。
そもそもアクエンアテンは、テーベにいる神官団が、王に匹敵する権力を得たことが気に食わなかったのが原因で、新たな町を作ろうとしたのだという。その神官団の本拠地であるテーベにあっさり帰れたものかどうか。ツタンカーメン銘いりの遺物がメンフィス周辺から見つかっていたりして、短期間にせよメンフィスに在住した可能性はあるかもしれない。
そうでなくとも、メンフィスは王の常住する場所でなくなってからもエジプトの中心であったことに変わりはない。(現代日本で、かのやんごとなきお方の本来おわすところが京都ということになっているのと同じである) 儀礼・式典などで訪れた可能性はあるだろう。
もしツタンカーメンが、メンティスにいる時にマラリアに罹り亡くなったのなら、もう一つの推測にも繋がってくる。
ツタンカーメンのミイラは、とても状態が悪い。皮膚がひび割れ、肉体の一部は正常に保存されていない。エジプトは暑い国だから、死体はすぐに腐り始めてしまうのだ。何らかの原因で、死後すぐに適切な処置が出来なかったのではないか、と言われている。
参考: ミイラの状態がわかる、顔のアップ写真 (※ややグロ。そうでなくても幻想を打ち砕かれる危険性あり)
埋葬施設の整っているテーベではなくメンフィスで亡くなった、あるいはメンフィスから帰る途中で亡くなったのだとすると、遺体に応急処置しか出来ず、ミイラにする前に遺体の一部が腐敗してしまった可能性も出てくる。
つまり・・・・・
メンフィス滞在中にマラリアに感染していれば、死因とミイラの状態に、説得力のある筋書きをつけられそうだということ。
現実は、常に最良のシナリオが正解というわけではないのだが、これは一つの可能性としてアリではないかと思う。ミイラは過去を語る。これから研究が進んで、他にマラリアに罹ったことのある古代エジプト人が見つかれば、もっと詳細なことが言えるようになるだろう。
*****
とりあえず、このへんとか勧めてみる。
疫病は文明の発達を妨げる大きな要因なのです。人材をランダムで定期的にロストさせるバッドイベント。
面白いかといわれるとあんまり面白くはないけど、取り合えず一通り「全部いり」な本
古病理学とか、ギデオン・オリヴァーとか聞いて耳ぴくっとなる人にはオススメ。


