カレワラ・タリナ 最終章マリヤッタの処女懐胎後シーンでジジィの性格が変わってた
カレワラ・タリナとは、フィンランドの民族的叙事詩と言われる「カレワラ」を物語調にしたもの。
オリジナルの「カレワラ」は、実際に歌い手が歌い上げる口伝の「詩」として伝承されてきたため繰り返しや独特の言い回しが多く、歌ったときに言葉が韻を踏むように構成されていて、物語として読もうとすると苦労する。そこで、歌を物語に直したものが「カレワラ・タリナ」。タリナはtales、つまり「物語」という意味。日本語に訳せば「カレワラの物語」、フィンランド語では「カレワラン タリナット」。
原典カレワラに近い翻訳はこちら
*原典に「忠実」な訳ではなく、ある程度日本語としておかしくないよう加工はされているが、原文の雰囲気には近い。ただしそのぶん読みにくさはある。巻末の索引や説明が充実しているのが岩波文庫のよいところ。
今回買ってきた「カレワラ タリナ」はこちら。
もともと岩波のほうで読んでいたので、「カレワラ タリナ」は可もなく不可もなく、「ふーん」という感じで…
読みやすさは格段に岩波よりは上、普通の小説のようにするする読めるのは、いいかな。
ただ、この「1000点世界文学体系」シリーズは、ページ数を削るためなのか全くといっていいほど解説がついていない。この本だけ買った人は「面白かったけど、この物語って結局なんなの? 神話??」ってカンジで終わってしまいそうな。
そのぶん安くなるならいいんですが。
薄い文庫で1000円越えてるんで、これなら解説つけて2500円くらいのほうが私は嬉しかった。私はね。
さて、内容的にはするする読める「カレワラ・タリナ」だが、岩波版で読むのと若干印象が違う部分がいくつかある。翻訳の単語の選び方によるものだろうが、ひとことで言うと ワイナミョイネンが真面目。 一人称を「わたし」にして、語尾も「~です」にしただけでも、だいぶ印象変わるね。やってることは相変わらずだけど(笑)
中でも印象が違うと思うシーンの最たるものだなと思ったのが、最終章の「マリヤッタの懐妊」と「ワイナミョイネンの旅立ち」のシーン。
北欧神話の「巫女の予言」のクライマックスは、神々と過去の世界が死に絶え、新しい世界に一部の神々と人間が生き残るシーンになっているが、「カレワラ」の場合は、つるこけももで身ごもった(処女懐胎した)乙女の生んだ赤ん坊によって、老賢者ワイミョイネンが断罪され追放されて旅に出るシーンで終わっている。文化圏が違うとはいえ、北欧の伝承がどちらもキリスト教の伝播を暗喩する終わり方なのは、示唆的だ。
とってつけた感のある最終章ではあるが、ここは、新しい神によって古い時代の神的な存在ワイナミョイネンが追い払われるシーンである。
乙女名前が「マリヤッタ」、つまり聖母マリアの隠喩になっていて、赤ん坊には人間としての名前はないが、太陽は「私のつくりぬし」と呼んでいる。要するに神の子という設定だ。追放されたワイナミョイネンは船で海に乗り出し、「いつか戻ってくることもあるだろうが」と言い残す。これは、キリスト教の伝来によって、古い神々が去っていったことを示している。
岩波版の「カワレラ」も、プレスポートの「カレワラ・タリナ」もこの大筋は同じ。
では去るとき、ワイナミショイネンはなんと言ったのか?
「カレワラ・タリナ」では、こうなっている。
岩波訳のカレワラでは、
旅立ちの場所が湖からか海からか、という違いはおいとくとして、岩波版で見るワイナミヨイネンは全体を通して「すぐキレる」「賢者のくせに大泣きする」「さっき死に掛けてたのにもう元気」…等々、面白い性格のじーさんなのに対し、プレスポートの「カレワラ・タリナ」では、性格がかなり丸くなっている。怒らないキレない泣く時は静かにさめざめと泣く。去っていくときも「立腹」してない。ほかの登場人物も、なべてそんな感じだ。(レンミンカイネンが外道じゃないなんて…)
そんなわけで、些細な差に見えるが、最初に「立腹」したかどうかはかなり重要な話だと思う。丸くなったワイナミョイネンは立腹しない。でも元々のワイナミョイネンは、年と肩書きのわりにキレやすいじーさんなのだ。
ついでに、ここで言ってる「いつかまた乞われることもあるだろう」と「再びわしが必要となるだろう」は、似てるようで、実はぜんぜん違うニュアンスだ。
意訳してみると、
「そっかー、じゃ仕方ないや。旅に出るけど必要があったらまた呼んでね。忘れないでねっ!」…ていうのが、「カレワラ・タリナ」のほうで、
「ふざくんな何でわしが出ていかなあかんねん。くそー若造に負けて超ハズいから旅に出てくるわっ! どうせそのうちまたわしが必要になるに決まってるもんふふふーんだ」…って言ってるのが岩波訳の「カレワラ」。
もうちょい言うと、「乞われたら戻ってきてまたお役に立ちますよ」と言ってるカレワラ・タリナと、「今は無用扱いでも、いつか必要になるに決まってる。アイルビーバック!」な岩波訳カレワラ。
カレワラ・タリナの丸くなってるじーさんだと、困ったときにお願いしたら助けに戻ってきてくれそうな感じなんだけど、岩波カレワラのじーさんだと、みんなが浜辺で丸くなってカレワラの歌を歌ってたりすると、いつのまにか勝手に混じってそうな感じ、むしろそのへんで熊とってきて焚き火に投げ込みそうな感じなんだよね。
どっちも日本語への翻訳だから、原典の雰囲気をどこまで残しているのかは謎なのだが、フィンランド人の抱くイメージのワイナミョイネンは一体どっち側なんだろうか。
それにしても、これだけの民族叙事詩の最大の山場が魔女のばーさん vs 大賢者のじーさんの海上空中大決戦 って、冷静に考えると凄い伝承だよなあ、カレワラ…。
***
オマケ
カレワラ・タリナが無かった時代、岩波のカレワラを読んで挫折した人のために作ったあらすじがこちら。
はっちゃけてますが、まああれですよ若気の至りとかそういうやつですよ。
でもジジィが魔法で親友ぶっとばすのとか、ばーさんがスカート翻して海岸線ダッショするのとかは脚色じゃなくてガチ。フィンランドの伝承はとにかく高齢者がパワフリャーである。
http://www.moonover.jp/2goukan/karewara/karewara-index.htm
オリジナルの「カレワラ」は、実際に歌い手が歌い上げる口伝の「詩」として伝承されてきたため繰り返しや独特の言い回しが多く、歌ったときに言葉が韻を踏むように構成されていて、物語として読もうとすると苦労する。そこで、歌を物語に直したものが「カレワラ・タリナ」。タリナはtales、つまり「物語」という意味。日本語に訳せば「カレワラの物語」、フィンランド語では「カレワラン タリナット」。
原典カレワラに近い翻訳はこちら
*原典に「忠実」な訳ではなく、ある程度日本語としておかしくないよう加工はされているが、原文の雰囲気には近い。ただしそのぶん読みにくさはある。巻末の索引や説明が充実しているのが岩波文庫のよいところ。
今回買ってきた「カレワラ タリナ」はこちら。
もともと岩波のほうで読んでいたので、「カレワラ タリナ」は可もなく不可もなく、「ふーん」という感じで…
読みやすさは格段に岩波よりは上、普通の小説のようにするする読めるのは、いいかな。
ただ、この「1000点世界文学体系」シリーズは、ページ数を削るためなのか全くといっていいほど解説がついていない。この本だけ買った人は「面白かったけど、この物語って結局なんなの? 神話??」ってカンジで終わってしまいそうな。
そのぶん安くなるならいいんですが。
薄い文庫で1000円越えてるんで、これなら解説つけて2500円くらいのほうが私は嬉しかった。私はね。
さて、内容的にはするする読める「カレワラ・タリナ」だが、岩波版で読むのと若干印象が違う部分がいくつかある。翻訳の単語の選び方によるものだろうが、ひとことで言うと ワイナミョイネンが真面目。 一人称を「わたし」にして、語尾も「~です」にしただけでも、だいぶ印象変わるね。やってることは相変わらずだけど(笑)
中でも印象が違うと思うシーンの最たるものだなと思ったのが、最終章の「マリヤッタの懐妊」と「ワイナミョイネンの旅立ち」のシーン。
北欧神話の「巫女の予言」のクライマックスは、神々と過去の世界が死に絶え、新しい世界に一部の神々と人間が生き残るシーンになっているが、「カレワラ」の場合は、つるこけももで身ごもった(処女懐胎した)乙女の生んだ赤ん坊によって、老賢者ワイミョイネンが断罪され追放されて旅に出るシーンで終わっている。文化圏が違うとはいえ、北欧の伝承がどちらもキリスト教の伝播を暗喩する終わり方なのは、示唆的だ。
とってつけた感のある最終章ではあるが、ここは、新しい神によって古い時代の神的な存在ワイナミョイネンが追い払われるシーンである。
乙女名前が「マリヤッタ」、つまり聖母マリアの隠喩になっていて、赤ん坊には人間としての名前はないが、太陽は「私のつくりぬし」と呼んでいる。要するに神の子という設定だ。追放されたワイナミョイネンは船で海に乗り出し、「いつか戻ってくることもあるだろうが」と言い残す。これは、キリスト教の伝来によって、古い神々が去っていったことを示している。
岩波版の「カワレラ」も、プレスポートの「カレワラ・タリナ」もこの大筋は同じ。
では去るとき、ワイナミショイネンはなんと言ったのか?
「カレワラ・タリナ」では、こうなっている。
ワイナモイネンはこれを大いに恥じて、湖の広い浜辺から旅に出る支度をするために歩き出した。ワイナモイネンは魔法の詩を歌い始めた。そうして最後の詩を高らかに歌いながら、銅の小舟をつくった。
ワイナモイネンはその舟に乗り込み、湖面を静かに漕ぎだした。
時はめぐり、月日は過ぎて、またやって来る。
いつの日かまたこの私が
乞われることもあるであろう。
サンポを捕りに行く者として、
太陽や月を解き放つ者として、
この世に歓びをもたらす者として。
岩波訳のカレワラでは、
そこでワイナミョイネンは立腹した、
立腹しそして恥じ入った。
自ら歩いて出かけた
海辺の岸へと。
そこで歌い始めた、
その最後に呪歌を歌った。
銅の船を歌いだした、
銅を被せた船を。
自ら船尾に腰をすえ、
澄んだ海原へ乗り出した。
立ち去る時に更に述べた、
出けるときに物語った。
「時よ過ぎて行くがよい、
一日去って、次が来る、
再びわしが必要となるだろう、
待ち望み、懐かしむことだろう
新しいサンポをもたらすよう、
新しい音楽を奏でるよう、
新しい月を運び出すよう、
新しい太陽を解き放つよう、
月がなく太陽のないときに、
そして世の歓びもないときに。」
旅立ちの場所が湖からか海からか、という違いはおいとくとして、岩波版で見るワイナミヨイネンは全体を通して「すぐキレる」「賢者のくせに大泣きする」「さっき死に掛けてたのにもう元気」…等々、面白い性格のじーさんなのに対し、プレスポートの「カレワラ・タリナ」では、性格がかなり丸くなっている。怒らないキレない泣く時は静かにさめざめと泣く。去っていくときも「立腹」してない。ほかの登場人物も、なべてそんな感じだ。(レンミンカイネンが外道じゃないなんて…)
そんなわけで、些細な差に見えるが、最初に「立腹」したかどうかはかなり重要な話だと思う。丸くなったワイナミョイネンは立腹しない。でも元々のワイナミョイネンは、年と肩書きのわりにキレやすいじーさんなのだ。
ついでに、ここで言ってる「いつかまた乞われることもあるだろう」と「再びわしが必要となるだろう」は、似てるようで、実はぜんぜん違うニュアンスだ。
意訳してみると、
「そっかー、じゃ仕方ないや。旅に出るけど必要があったらまた呼んでね。忘れないでねっ!」…ていうのが、「カレワラ・タリナ」のほうで、
「ふざくんな何でわしが出ていかなあかんねん。くそー若造に負けて超ハズいから旅に出てくるわっ! どうせそのうちまたわしが必要になるに決まってるもんふふふーんだ」…って言ってるのが岩波訳の「カレワラ」。
もうちょい言うと、「乞われたら戻ってきてまたお役に立ちますよ」と言ってるカレワラ・タリナと、「今は無用扱いでも、いつか必要になるに決まってる。アイルビーバック!」な岩波訳カレワラ。
カレワラ・タリナの丸くなってるじーさんだと、困ったときにお願いしたら助けに戻ってきてくれそうな感じなんだけど、岩波カレワラのじーさんだと、みんなが浜辺で丸くなってカレワラの歌を歌ってたりすると、いつのまにか勝手に混じってそうな感じ、むしろそのへんで熊とってきて焚き火に投げ込みそうな感じなんだよね。
どっちも日本語への翻訳だから、原典の雰囲気をどこまで残しているのかは謎なのだが、フィンランド人の抱くイメージのワイナミョイネンは一体どっち側なんだろうか。
それにしても、これだけの民族叙事詩の最大の山場が魔女のばーさん vs 大賢者のじーさんの海上空中大決戦 って、冷静に考えると凄い伝承だよなあ、カレワラ…。
***
オマケ
カレワラ・タリナが無かった時代、岩波のカレワラを読んで挫折した人のために作ったあらすじがこちら。
はっちゃけてますが、まああれですよ若気の至りとかそういうやつですよ。
でもジジィが魔法で親友ぶっとばすのとか、ばーさんがスカート翻して海岸線ダッショするのとかは脚色じゃなくてガチ。フィンランドの伝承はとにかく高齢者がパワフリャーである。
http://www.moonover.jp/2goukan/karewara/karewara-index.htm


