ギリシャ文明とは何か ー ギリシャ with エジプト、ペルシア

エジプトは、その王朝時代の末期、短期間だがペルシアに支配されていた時期がある。
当時のエジプトはギリシャ人傭兵を雇って国防に勤めていたのだが、ペルシアの送り込んでくる圧倒的人海戦術の前には防衛はかなわず、一度は政権を取り戻すものの、再び征服されてしまう。

それが第二十七王朝(第一次ペルシア支配)、第三十一王朝(第二ペルシア支配)。

第二次ペルシア支配以降、エジプト人がファラオとしてエジプトを治めることはなく、エジプト王国最後の繁栄時代を築いたのは、マケドニア系ギリシャ人のプトレマイオスと、その子孫たちだった――。


****

と、いうわけで、今まであんまり知らなかったエジプト王国末期時代、プトレマイオス朝でも勉強してみることに。
一冊面白い本を見つけた。

ギリシア文明とはなにか (講談社選書メチエ 478)
講談社
手嶋 兼輔

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ギリシア文明とはなにか (講談社選書メチエ 478) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


↑これは久々に「初心者でも読んどけ」と言える本。



この本の最初のほうでは、冒頭に述べた、ペルシアの侵攻に伴うエジプトに雇われたギリシャ傭兵たちの奮闘、敗北、エジプトとギリシャの国交の断絶された時期が述べられている。そこからアレクサンドロスによる東方遠征、その途中でのエジプト解放、アレクサンドロスの死後は彼の部下だったプトレマイオスによるエジプト統治… と、話が続いていく。

アレクサンドロスは、エジプト人にとって「ペルシアの圧制からの解放者」である。

エジプト側の記録として、アレクサンドロスによる解放を記念した碑文、彼に贈られた称号がそのことを示しており、公式には、ペルシアからの解放後のエジプトは「アレクサンドロスがファラオの座についていた」ことになっている。エジプト人がなぜペルシア人を嫌い、マケドニア人であるアレクサンドロスを愛したのかの意味がよく分からなかったのだが、この本を読んでいるうちに成るほどと思い至ったことがある。

プトレマイオスは、エジプトを支配するにあたり、自らを「エジプト化」することにつとめた。
エジプトの記録に現れるプトレマイオスとその子孫、プトレマイオス王朝の中心人物たちはすべてエジプト風に描かれ、伝統あるエジプト王の肩書きも持っている。

それを著者はこう言っている。


なぜなら、ヘロドトスの時代から一世紀半ほど後のプトレマイオス王朝の成立時においてなお、エジプトとギリシアとの力関係には歴然たるものがあったからである。

<中略>

エジプト、ギリシア両民族の歴史、国力、文明度の差は依然として開いたまま、縮まらなかったはずである。学芸文化の開花は必ずしも富や国力の充実とは結びつくものではない。
であれば、強引なギリシア風の押し付けは困難なばかりか、功を奏さないのは確実である。エジプトの伝統に即し、その体制を基本的には受け入れる。もっとも、支配権力をギリシア人が握る限り、ギリシア的要素が加味されていくのは自然な成り行きである。



ペルシア王カンビュセス2世は、エジプト支配後、現地の文化を無視し、信仰をないがしろにした。ヘロドトスが著書「歴史」の中でそれを書いている。
神殿を打ち砕いたり、信仰を集めていた聖牛アピスを殺したり、といった具合である。「卑怯で傲慢、憎むべき異邦の王」…それがエジプトの抱いたペルシア像だった。
しかしギリシャの王は、アレクサンドロスも、その同胞だったプトレマイオスも、当初からエジプトを尊重し、無理やりギリシア風を押し付けることはしなかった。

だからペルシア人の王と、ギリシャ人の王に対するエジプトの評価はぜんぜん違っていたのだ。これは当時エジプトに住んでいた人からすると当然の感情といえよう。



だが、もう一つ、この解説を読んで気づくべきところがあるる
「エジプト、ギリシア両民族の歴史、国力、文明度の差は依然として開いたまま、縮まらなかったはずである」というところ。

ギリシャ文明といえば、文明の基礎を築いた文明のように思われる。哲学、文学、音楽、芸術。ありとあらゆる「古典」がギリシャに端を発している。それはローマの礎となり、やがてヨーロッパ中に広がっていく、文明のスタンダードでもある。

にもかかわらず、ギリシャの持つ文化は、エシプトの、そしてペルシアのそれに、遠く及ばなかった―― という事実。


歴史はまだ分かる。エジプトもペルシアも、オリエント文明の双璧としてこの時点で既に数千年の歴史の上に成り立っていた。ギリシャは足元にも及ばない。のみならず、ギリシャの文化もまた、全世界からみれば一極の「辺境の文化」でしかなかった、というのは、言われてはじめて「ああ、なるほど!」と目からウロコだった。

ギリシャの文化はギリシャ人だけのものであって、それをヨーロッパじゅうに広めたのは、結局ローマの手柄なのだ。ギリシャ人は自分たち都市社会に生きる者以外のものを区別して、「蛮族」、バルバロイと呼んでいた。あのペルシャ帝国ですら「蛮族」であり、その国民はみな愚鈍な奴隷であるとすら思っていた。彼等の世界観は狭く、ローマなくしては、今のようにギリシャ文化が広まることはなかっただろう。
ギリシャとローマは切り離して考えなくてはいけない、という理由がここにある。

そして、長い歴史と、その中で培った莫大な富を有するエジプトやペルシアに対し、ギリシャの富はあまりにも貧弱だった。貧しさゆえに、彼等はエジプトに傭兵に出なくてはならなかったのだし、生き延びられる土地を探して旅にも出なければならなかった。そもそもギリシャの各都市が築かれた場所というのも、人の住んでいなかった貧しい土地である。


だからギリシャは、、まずは、ペルシアやエジプトに対し、決して対等にはなれないという宿命に気がつく必要があった。その上で、「どう接していくか」を模索する必要があった。
アレクサンドロスは東方遠征で広大な王国を手に入れたけれど、元ペルシアであった土地をどう支配すればいいか分からなかった。歴史でも文化でも圧倒的に上位にある相手を支配するにはどうしたらいいのか。その答えを出したのか、アレクサンドロスの後継者の一人であるプトレマイオスなのだと著者は言う。「エジプトの伝統に即し、その体制を基本的には受け入れる」とは、ペルシア遠征に同行し、バルバロイであるはずのペルシアの富と文化に圧倒されたプトレマイオスがたどり着いた、支配者のあるべき姿だったのではないか、と。

――――

この本の中で主要なテーマとして出てくるのは、以下のようなものである。

「ギリシャ人の驕り」
「ギリシャ的思想」

ソクラテスやアリストテレスが、それを持つ代表者として扱われている。
実際は世界の中心ではなく、歴史でも財力でも文明の洗練度でも劣っていた。しかし自分たちは常に最良であるとの意識を持ち、属する都市国家をひたすら愛した。

そのくびきから解き放たれてはじめて、ギリシャ人は井戸から出て「世界」を認識することが出来たのだ、ということ。ヘロドトスが異様にエジプトをヨイショしているのも、ギリシャ第一の価値観がひっくり返った反動なのかもしれない。

この記事へのトラックバック