「俺の話を聞けーーー!」チェコ聖人列伝 ヤン・フスさん(享年45歳くらい)
申し訳ないけどキリスト教(カトリック)の聖人というのは大抵が殺人者だ。
異教徒弾圧、残酷な処刑。生皮剥ぐとか火の中放り込むとかすればするほど死後早くに列聖されて、多くの人々に崇め奉られる宗教それがカトリック。そんな中、ひとりも殺していない(多分)のに列聖され、しかも過去に遡ればそもそもの死因が異端審問による有罪判決だった、という珍しい聖人がいる。
それが、チェコ人の愛する聖人ヤン・フスさん。
ルターによる宗教革命、プロテスタント運動の始まりに先立つ15世紀初頭、現在のチェコの首都プラハの大学で学んだひとりの学生がいた。今に伝わる名前はヤン・フス、「フシネツ村」というところの出身だったことから「フス」となっているのだとかで、一介の農民の生まれだったようだ。そのせいか、フスの説教は特に社会的に身分の低い、貧しい人々に広く受け入れられた。
財を蓄え権力をむさぼる教会のあり方に異を唱え、分かりやすい説教で「キリスト教徒は聖書の教えに立ち戻るべき。」と説いて人気を博したこの人物、しかしそのわかりやすさと求心力ゆえに教会からは危険視された。
不幸だったのは教会のみならず、教会のあり方に危機感を持つ同業者たちからもまた危険視されてしまったこと。教会制度を批判することは、すなわち多くの聖職者に失職しろと言っているのと同じことだからだ。
またもうひとつ不幸だったのは、教会権力の台頭が気に食わなかった地方貴族たちがフスの考え方に同調して、大義名分を振りかざしつつ神の名のもとに教会を攻撃する口実をつくろうと画策していたことだろうか。
もちろん純粋に信仰的な熱情もあった、のだろうが、いつの世も人の情熱に方向を定めるのは、ただ中にあって打算で動く一部の冷静な人々である。
フスは人々の情熱をかきたてることはできたが、それをコントロールするすべをもたず、また、方向を定めて世の中を変えようという気概も持ちあわせていなかった。ただ、おのれの信念を人に分かりやすく説く能力に優れた説教家だった。
要するに、宣教師や牧師としては優秀だったが、政治家や活動家ではなく、リーダーには向かない人物だったのだ。
結果的に、フスの説教に同調した多くの貧しい人々は、貴族の炊きつけもあってか教会を襲い貯めこまれた財産を奪うだけの暴徒となり下がり、その責任を押し付けられたフスは亡命生活を余儀なくされる。不幸な結果ではあったが、当然の結末とも言える。
そんなフス、研究熱心で亡命生活中は神学の研究に明け暮れていたらしい。
利害関係の一致している貴族に匿われて、それなりに幸せな暮らしをしていたようだ。
「政治家でも、運動家でもなく」、自らが燃え上がらせた人々の情熱のゆくえに全く興味がなかったとすれば、悠々自適な研究生活の中でひたすら自説を磨く生活は、たとえ軟禁状態でも不自由なかったのではないかと思う。教会が破壊されていたことには心を痛めたかもしれないが、特にそれを咎めるとか止めようとするといった行動に出ていないところを見ると、俗世にあんまり興味のない純学者タイプの人だったのだろうか。
そんなフスさんが亡くなった理由は、コンスタンツの公会議(※公会議とは、カトリックの異端審問みたいな会議と思いねぇ)にノコノコ出かけていって、その場で異端者の烙印を押され有罪になってしまったからだ。
招待されたとはいえ、なんでわざわざ自分からでかけていったのかというと、「自説の正しさを証明したかったから」だというから、どこまでも学者基質な人物である。学者たるもの、論戦をふっかけられて黙っているなどあり得ない。とくに自分の得意ジャンルとあれば…。
しかし中世の公会議とは権力争いの場でもあり、結局は「正しい、正しくない」よりも政治的な利害のほうが勝るのである。
フスがいると都合の悪い教会関係者たちは最初からフスは有罪と決めており、その決定が覆ることはなかった。
彼が火刑に処せられて死んだのが15世紀。
列聖されたのが1999年、死後600年近くも経ってからだというから今更かいという感じではあるものの、それだけ長い間、チェコ人がフスを忘れず、フスが不当に殺されたのだと想い続けていたのもまた凄いことである。
それほどの人望があったのかどうかは判らない。少なくとも資料から見るフスは自分至上主義な学者肌の人物であり、あまり他人を思いやるタイプには見えない。が、チェコ人にとっては、死をも恐れずに自らの主張を貫き通したフスは「民族の英雄」であるという。私のイメージ的には「英雄」というより「堅物親父」とか「がんこ学者」なんだが…。
理想に生き、理想に死んだフスの像は、プラハの旧市街広場で今日も人々を見下ろしている。
トーガなんかまとってお高くとまっているようすのその像は、後世にだいぶ美化されたものと見え、実際のフスは道行く観光客にまで自説を語っちゃうような、めっさ語りたがりの学者先生ではなかったのかな、などと思う。
異教徒弾圧、残酷な処刑。生皮剥ぐとか火の中放り込むとかすればするほど死後早くに列聖されて、多くの人々に崇め奉られる宗教それがカトリック。そんな中、ひとりも殺していない(多分)のに列聖され、しかも過去に遡ればそもそもの死因が異端審問による有罪判決だった、という珍しい聖人がいる。
それが、チェコ人の愛する聖人ヤン・フスさん。
ルターによる宗教革命、プロテスタント運動の始まりに先立つ15世紀初頭、現在のチェコの首都プラハの大学で学んだひとりの学生がいた。今に伝わる名前はヤン・フス、「フシネツ村」というところの出身だったことから「フス」となっているのだとかで、一介の農民の生まれだったようだ。そのせいか、フスの説教は特に社会的に身分の低い、貧しい人々に広く受け入れられた。
財を蓄え権力をむさぼる教会のあり方に異を唱え、分かりやすい説教で「キリスト教徒は聖書の教えに立ち戻るべき。」と説いて人気を博したこの人物、しかしそのわかりやすさと求心力ゆえに教会からは危険視された。
不幸だったのは教会のみならず、教会のあり方に危機感を持つ同業者たちからもまた危険視されてしまったこと。教会制度を批判することは、すなわち多くの聖職者に失職しろと言っているのと同じことだからだ。
またもうひとつ不幸だったのは、教会権力の台頭が気に食わなかった地方貴族たちがフスの考え方に同調して、大義名分を振りかざしつつ神の名のもとに教会を攻撃する口実をつくろうと画策していたことだろうか。
もちろん純粋に信仰的な熱情もあった、のだろうが、いつの世も人の情熱に方向を定めるのは、ただ中にあって打算で動く一部の冷静な人々である。
フスは人々の情熱をかきたてることはできたが、それをコントロールするすべをもたず、また、方向を定めて世の中を変えようという気概も持ちあわせていなかった。ただ、おのれの信念を人に分かりやすく説く能力に優れた説教家だった。
要するに、宣教師や牧師としては優秀だったが、政治家や活動家ではなく、リーダーには向かない人物だったのだ。
結果的に、フスの説教に同調した多くの貧しい人々は、貴族の炊きつけもあってか教会を襲い貯めこまれた財産を奪うだけの暴徒となり下がり、その責任を押し付けられたフスは亡命生活を余儀なくされる。不幸な結果ではあったが、当然の結末とも言える。
そんなフス、研究熱心で亡命生活中は神学の研究に明け暮れていたらしい。
利害関係の一致している貴族に匿われて、それなりに幸せな暮らしをしていたようだ。
「政治家でも、運動家でもなく」、自らが燃え上がらせた人々の情熱のゆくえに全く興味がなかったとすれば、悠々自適な研究生活の中でひたすら自説を磨く生活は、たとえ軟禁状態でも不自由なかったのではないかと思う。教会が破壊されていたことには心を痛めたかもしれないが、特にそれを咎めるとか止めようとするといった行動に出ていないところを見ると、俗世にあんまり興味のない純学者タイプの人だったのだろうか。
そんなフスさんが亡くなった理由は、コンスタンツの公会議(※公会議とは、カトリックの異端審問みたいな会議と思いねぇ)にノコノコ出かけていって、その場で異端者の烙印を押され有罪になってしまったからだ。
招待されたとはいえ、なんでわざわざ自分からでかけていったのかというと、「自説の正しさを証明したかったから」だというから、どこまでも学者基質な人物である。学者たるもの、論戦をふっかけられて黙っているなどあり得ない。とくに自分の得意ジャンルとあれば…。
しかし中世の公会議とは権力争いの場でもあり、結局は「正しい、正しくない」よりも政治的な利害のほうが勝るのである。
フスがいると都合の悪い教会関係者たちは最初からフスは有罪と決めており、その決定が覆ることはなかった。
彼が火刑に処せられて死んだのが15世紀。
列聖されたのが1999年、死後600年近くも経ってからだというから今更かいという感じではあるものの、それだけ長い間、チェコ人がフスを忘れず、フスが不当に殺されたのだと想い続けていたのもまた凄いことである。
それほどの人望があったのかどうかは判らない。少なくとも資料から見るフスは自分至上主義な学者肌の人物であり、あまり他人を思いやるタイプには見えない。が、チェコ人にとっては、死をも恐れずに自らの主張を貫き通したフスは「民族の英雄」であるという。私のイメージ的には「英雄」というより「堅物親父」とか「がんこ学者」なんだが…。
理想に生き、理想に死んだフスの像は、プラハの旧市街広場で今日も人々を見下ろしている。
トーガなんかまとってお高くとまっているようすのその像は、後世にだいぶ美化されたものと見え、実際のフスは道行く観光客にまで自説を語っちゃうような、めっさ語りたがりの学者先生ではなかったのかな、などと思う。
