神職と医師 神官医者が職業医師になったとき
古代のエジプトやメソポタミアの「医学」を思い浮かべてみる。
医師はほとんど例外なく神官でもある。これは、古代の知識階級が王族と神職に限られたことによるだろう。エジプトでは「生命の家」と呼ばれる医者の教育施設は神殿の一部分だったし、いくつかの病は悪霊のせい、または神の呪いとして受け止められていたことが、医療パピルスや宗教文書から伺える。
神官と医者は兼業であり、それでも矛盾はしなかった。
同じような状況は実は他の地域でもそうで、おそらく、地球上のほとんどの文明で初期には 神官=医師 だったのではないかと思う。日本では陰陽師や巫女による加持祈祷があったし、アジアの国々には今でもシャーマンによる悪霊祓いが一部残っている。
さて、では神官と医師が職業として完全に分離すると何が起こるのか?
迷信に満ちた未開の学問から、先進的な科学としての医学が発生するとおもうだろうか。たぶん、それもある。しかしそれだけではない。
ヒントになりそうな記述がある。中世に栄えた、トロワという町についての本だ。
とりあえずここまで。
確かな腕をもつ医師が一握りで、それ以外は庶民向けの有象無象の医者だったという状況は、他の地域、たとえば新王国時代のエジプトでも変わらない。ちなみにここで「理髪師」と言われているのは、中世ヨーロッパで健康法のひとつとされていた瀉血(血抜き)は、カミソリを用いることから理髪師の仕事だったからである。
続き。
神職が医学を行う場合は、代価は喜捨や神への信仰でよかったかもしれないが、医者がひとつの職業ともなれば、それはもう稼業である。利益優先の医療は、代価によって患者の扱いや治療を変えることにも繋がっていく。
ここで再び古代のエジプトに戻ってみる。
最初に述べたように、古代エジプトにおいても医者は神官と兼業だった。しかし、いつかのタイミングで二つの職は分離する。それがいつだったのか。
思い浮かぶのは、ヘロドトスの「歴史」の中にある、ミイラづくりに関する次のような記述だ。
ミイラ職人は医師ではないが、人の死に深く関わる神職の一部である。そのミイラ職人が、人の死に値段を定め、値段に応じて対応を変えるという。これは死がビジネスになったことを意味している。
かつては、ミイラになれるのは王や貴族だけだった。しかしヘロドトスの旅した時代のエジプトでは、一般庶民もミイラにしてもらって埋葬されるのが当たり前になっていた。だからミイラ職人の数が増え、このような商売まがいのこともいるようになったのだと思っていたが、見方を変えれば逆に、医療が商売になったおかげて、「金さえ払えば」王のようなミイラにさえしてもらえる、という時代になったのかもしれない。
考えてみれば、そもそも古代エジプトのミイラは、死後に復活したオシリス神の如くなる、という思想のもとで洗練されてきた技術だ。元来の信仰では王は神だったから、オシリスと同化し、永遠を手に入れるのは神の化身たる王だけでなくてはならなかった。それが貴族に開放され、のちに庶民にも広まっていくのだから、ミイラづくりが王の神権に強く結びつく技術ではなくなっていったというのは、確かにありそうだ。
ヘロドトスの記述ではミイラ職人の話だが、おそらく同時代の医者も、人の生き死にをビジネスと捉えていたと思う。転換期はおそらく、エジプト宗教が大きく姿を変えた末期王朝時代だろう。ヘロドトスの旅していた時代のエジプトの都市にも、中世のトロワと同じように少数の本物の医師と、それ以外の産婆や祈祷師、有象無象のヤブ医者たちがいて、容態を深刻に見せる技を考え、患者の家族から代金を請求するときの口上を教科書に従って述べ、定番となっている神への祈りの言葉を唱えていたのかもしれない。
医師はほとんど例外なく神官でもある。これは、古代の知識階級が王族と神職に限られたことによるだろう。エジプトでは「生命の家」と呼ばれる医者の教育施設は神殿の一部分だったし、いくつかの病は悪霊のせい、または神の呪いとして受け止められていたことが、医療パピルスや宗教文書から伺える。
神官と医者は兼業であり、それでも矛盾はしなかった。
同じような状況は実は他の地域でもそうで、おそらく、地球上のほとんどの文明で初期には 神官=医師 だったのではないかと思う。日本では陰陽師や巫女による加持祈祷があったし、アジアの国々には今でもシャーマンによる悪霊祓いが一部残っている。
さて、では神官と医師が職業として完全に分離すると何が起こるのか?
迷信に満ちた未開の学問から、先進的な科学としての医学が発生するとおもうだろうか。たぶん、それもある。しかしそれだけではない。
ヒントになりそうな記述がある。中世に栄えた、トロワという町についての本だ。
当時、トロワくらいの大きさの都市には、免許を持つ医師はほんの数人しかいなかった。もっとも、数多くの産婆、理髪師、修道士、加えてまったくのやぶ医者が何らかの形で医療に関わっていた。きちんとした教育を受けた医師は専門職の中でも最高ランクの存在であり、その社会的地位は高く、治療代も高額だった。そのため、当然のことながら、彼らが診るのは裕福層の患者に限られていたことが当時の医学書などにはっきりと記されている。
中世ヨーロッパの都市の生活/講談社学術文庫
とりあえずここまで。
確かな腕をもつ医師が一握りで、それ以外は庶民向けの有象無象の医者だったという状況は、他の地域、たとえば新王国時代のエジプトでも変わらない。ちなみにここで「理髪師」と言われているのは、中世ヨーロッパで健康法のひとつとされていた瀉血(血抜き)は、カミソリを用いることから理髪師の仕事だったからである。
続き。
13世紀当時の医師が持っていた知識・技量は、後世の基準から考えれば怪しいものだったが、それでも以前に比れば進歩はしていた。中世初期には、医学を担っていたのは修道士であり、修道院だった。それは「病気は自然現象である」というヒポクラテスの考え方を捨て去り、「病気は神の与えたもうた天罰である」という考え方を採用することを意味していた。この考え方は13世紀になってもなくなってはおらず、むしろ医師たちは口では進んで神を称えた。しかし、病気を合理的に理解しようとする動きも、世俗の開業医たちのなかにたしかに見えはじめていた。
医学が宗教から離れていくことはまた、医学が「商売」の色合いを強めていくことでもあった。患者の扱い方が説明してある同じ医学書に、診察代の徴収方法について事細かな説明が載っている。
神職が医学を行う場合は、代価は喜捨や神への信仰でよかったかもしれないが、医者がひとつの職業ともなれば、それはもう稼業である。利益優先の医療は、代価によって患者の扱いや治療を変えることにも繋がっていく。
ここで再び古代のエジプトに戻ってみる。
最初に述べたように、古代エジプトにおいても医者は神官と兼業だった。しかし、いつかのタイミングで二つの職は分離する。それがいつだったのか。
思い浮かぶのは、ヘロドトスの「歴史」の中にある、ミイラづくりに関する次のような記述だ。
そして、それを専門として、その技術を会得している者がいる。これらの者は彼等のもとへ遺体がもたらされると、その運んで来た人達に、色彩で実物のようにされた木製の死体の見本を示し、そして、それらのうちかような事柄にその名を引き合いにだすのは不敬なものの、それが最も完全であると告げ、次に、それより劣りまたもっと廉価なのを二番目のものとして見せ、更に、最も低廉な三番目のものを示す。そして、そう告げた上、彼等にどの方法で彼等の遺体を調製してもらいたいかと尋ねる。
歴史 Ⅱ (86)
ミイラ職人は医師ではないが、人の死に深く関わる神職の一部である。そのミイラ職人が、人の死に値段を定め、値段に応じて対応を変えるという。これは死がビジネスになったことを意味している。
かつては、ミイラになれるのは王や貴族だけだった。しかしヘロドトスの旅した時代のエジプトでは、一般庶民もミイラにしてもらって埋葬されるのが当たり前になっていた。だからミイラ職人の数が増え、このような商売まがいのこともいるようになったのだと思っていたが、見方を変えれば逆に、医療が商売になったおかげて、「金さえ払えば」王のようなミイラにさえしてもらえる、という時代になったのかもしれない。
考えてみれば、そもそも古代エジプトのミイラは、死後に復活したオシリス神の如くなる、という思想のもとで洗練されてきた技術だ。元来の信仰では王は神だったから、オシリスと同化し、永遠を手に入れるのは神の化身たる王だけでなくてはならなかった。それが貴族に開放され、のちに庶民にも広まっていくのだから、ミイラづくりが王の神権に強く結びつく技術ではなくなっていったというのは、確かにありそうだ。
ヘロドトスの記述ではミイラ職人の話だが、おそらく同時代の医者も、人の生き死にをビジネスと捉えていたと思う。転換期はおそらく、エジプト宗教が大きく姿を変えた末期王朝時代だろう。ヘロドトスの旅していた時代のエジプトの都市にも、中世のトロワと同じように少数の本物の医師と、それ以外の産婆や祈祷師、有象無象のヤブ医者たちがいて、容態を深刻に見せる技を考え、患者の家族から代金を請求するときの口上を教科書に従って述べ、定番となっている神への祈りの言葉を唱えていたのかもしれない。