フン族の王アッティラと行く5世紀ヨーロッパ遠征の旅ツアー(ローマ語通訳付き)
オプショナルツアー: 東ローマ宮廷(コンスタンティノープル) も、在るヨ! お値段は50リブレから♪
と、いうわけでフン族の本なのです。
さて、以前のエントリ 「フン族と匈奴は同一か?」という問題に見る各国の視点 で書いたように、フン族を巡る歴史解釈は、それを述べる学者のバックボーンによって大きく異なる。
端的に言うと、フン族が何者かについて 「フン族=匈奴」説を採るか、採らない(懐疑説をとる)か という二種類に大きく分かれる。現実を言えばフン族はどうやらモンゴロイド的な特徴を持ち、中央アジアの文化を一部受け継いでいた可能性があるものの、出自については謎。
そんな中、この本は著者名にヤロスラフ・レベィンスキーという、いかにも東欧っぽい名前が入っていたので手にとった。この人はウクライナ人。もう一人のカタリン・エッシェーはハンガリー人である。つまり、フン族に関する関心が高く、資料も豊富に扱え、過去にフン族が民族の祖先だと主張されたこともある地域の学者さんたちによる本なのだ。これはアタリにしてもハズレにしても面白くないわけがなかろうと。
そして結果としては大変面白い本だった。
というか大当たりだ。おめでとう自分。
何がよいかというと、これまでに手にしたルイ・アンビスの「アッチラとフン族 」(白水社)や、E.A. トンプソン「フン族―謎の古代帝国の興亡史」(法政大学出版局)よりも、考古学資料を重視しているという点。
フン族を巡る資料の解釈にバックボーンからくるバイアスがかかるのは、何も現代の学者だけではない。古代の歴史家たちが既にそうだったので、フン族について書かれた記録は、人により大きく異なり、どれが正しいのか分からなくなっている。言い換えれば、文書記録に頼ったフン族研究は、誤りを含む可能性が大きい。偏見や無理解によって誤解された記録も、伝説化され原型の分からなくなった歴史も、過去を知るためには大した訳には立たない。
過去の大半のフン族研究とは、しかしながら、そうした事実を無視して文書記録に頼って不確かな仮説の上に仮説を重ねてきた。あまりにも説がバラバラで、信頼できる記述を探すのが大変なので、うんざりしてくるほどに。
この本の最初で述べられているように、
「すべてが述べられ記された――しばしば、真偽のほどは顧慮されず。」
という状態なのだ。
しかし、考古学資料、つまり物的証拠には、そうした問題はない。
それをどう解釈するかにはバイアスがかかるだろうが、見つかったもの自体は過去に存在した動かしようのない実体だ。少ないとはいえ、もちっと考古学資料を重視した研究をしてもいいんじゃないのか…。そう思ってたところに、この本が来た。
こういうのが欲しかったんですよ!
フン族の外見について、文書記録として残されたものはある。
しかしそれが正確かどうかは分からない。
フン族の墓とされるものはあり、発掘されている骨から人種的特徴を見出すことは出来る。
しかしフン族自体が征服した多種多様な民族の連合であり、事実として発見されている骨や遺物も出自がバラバラであることから、その中の一体どれが「もともとの」フン族だったのかが分からない。
フン族の衣服についても同様で、多分こうなんだろう…という説はあるけれど、描かれた資料が後世のものしかない。
という状態から、少ない考古学資料をかき集めて再現してくれるっていう試みが滅多になくてですね。フン族のイメージといったら、かなり貧弱な「匈奴っぽい騎馬民族」くらいしか無かった。だいたいの場合、極端に「蛮族」か「文明人」かにブレるし。出所明記して再現してもらえるとイメージが湧きやすくて助かる。だよね…やっぱ弁髪はないよねー…。
※映画に見る蛮族扱いの例
フリッツ・ラングの「ニーベルンゲンの歌」
※映画に見る文明人扱いの例
「覇王伝アッティラ」
とかくフン族研究については、「何が確実で、何が不確実か」をはっきりさせることが重要になってくる。
アッティラと同時代に書かれた記録でさえも確実ではない。複数の著者が言及していたことですら確実でない可能性があり、文書記録については著者がどんなバイアスをかけて記録したかを想定することが不可欠。それを忘れると、「フン族の王ルガは天罰で死にました」というようなキリスト教教会の宣伝記録すら信じてしまうことになる。
不確実性をできるだけ取り除いておぼろげに見えてくるものが、本来あるべきフン族についての歴史観。
それは伝説とはかけ離れていてつまらんかもしれんけど、興味深い内容なのである。
とりあえず、今までとっちらかっていた諸々がつながってきたわー…。
アッティラが風呂を作らせたっていうモチーフは、アッティラの側近の一人がローマ出身で、自宅に風呂作らせてたっていう記録から生まれた伝説なんだなー とか…。
無いと思ってたフン族の「攻城兵器」も、実は在ったらしい。(ローマ軍の逃亡兵を抱えていたことによる)
フン族と呼ばれている人々が、実は人数的にはごくごく少数で、征服して召抱えた多種多様な民族がフン帝国の大半を占めていただろうことは、確実と言っていいようだ。記録に残されているフン宮廷の人物名を丁寧に見ていくと、ゲピド人やらゴート人やらサルマティア人やらローマ人やら本当に色々。アッティラというカリスマ亡き後、帝国が短期間に瓦解していったのも、このあたりの事情があるのだろう。
と同時に、フン族の遺跡が他の民族のものと判別のつかない理由もよく分かった。初期からいろんな民族がごたまぜになっていて、一番最初にヨーロッパに現れた時代のフン族の特徴がどれだったのか分からなくなってるんだね…。
と、いうわけでフン族の本なのです。
さて、以前のエントリ 「フン族と匈奴は同一か?」という問題に見る各国の視点 で書いたように、フン族を巡る歴史解釈は、それを述べる学者のバックボーンによって大きく異なる。
端的に言うと、フン族が何者かについて 「フン族=匈奴」説を採るか、採らない(懐疑説をとる)か という二種類に大きく分かれる。現実を言えばフン族はどうやらモンゴロイド的な特徴を持ち、中央アジアの文化を一部受け継いでいた可能性があるものの、出自については謎。
そんな中、この本は著者名にヤロスラフ・レベィンスキーという、いかにも東欧っぽい名前が入っていたので手にとった。この人はウクライナ人。もう一人のカタリン・エッシェーはハンガリー人である。つまり、フン族に関する関心が高く、資料も豊富に扱え、過去にフン族が民族の祖先だと主張されたこともある地域の学者さんたちによる本なのだ。これはアタリにしてもハズレにしても面白くないわけがなかろうと。
そして結果としては大変面白い本だった。
というか大当たりだ。おめでとう自分。
何がよいかというと、これまでに手にしたルイ・アンビスの「アッチラとフン族 」(白水社)や、E.A. トンプソン「フン族―謎の古代帝国の興亡史」(法政大学出版局)よりも、考古学資料を重視しているという点。
フン族を巡る資料の解釈にバックボーンからくるバイアスがかかるのは、何も現代の学者だけではない。古代の歴史家たちが既にそうだったので、フン族について書かれた記録は、人により大きく異なり、どれが正しいのか分からなくなっている。言い換えれば、文書記録に頼ったフン族研究は、誤りを含む可能性が大きい。偏見や無理解によって誤解された記録も、伝説化され原型の分からなくなった歴史も、過去を知るためには大した訳には立たない。
過去の大半のフン族研究とは、しかしながら、そうした事実を無視して文書記録に頼って不確かな仮説の上に仮説を重ねてきた。あまりにも説がバラバラで、信頼できる記述を探すのが大変なので、うんざりしてくるほどに。
この本の最初で述べられているように、
「すべてが述べられ記された――しばしば、真偽のほどは顧慮されず。」
という状態なのだ。
しかし、考古学資料、つまり物的証拠には、そうした問題はない。
それをどう解釈するかにはバイアスがかかるだろうが、見つかったもの自体は過去に存在した動かしようのない実体だ。少ないとはいえ、もちっと考古学資料を重視した研究をしてもいいんじゃないのか…。そう思ってたところに、この本が来た。
こういうのが欲しかったんですよ!
フン族の外見について、文書記録として残されたものはある。
しかしそれが正確かどうかは分からない。
フン族の墓とされるものはあり、発掘されている骨から人種的特徴を見出すことは出来る。
しかしフン族自体が征服した多種多様な民族の連合であり、事実として発見されている骨や遺物も出自がバラバラであることから、その中の一体どれが「もともとの」フン族だったのかが分からない。
フン族の衣服についても同様で、多分こうなんだろう…という説はあるけれど、描かれた資料が後世のものしかない。
という状態から、少ない考古学資料をかき集めて再現してくれるっていう試みが滅多になくてですね。フン族のイメージといったら、かなり貧弱な「匈奴っぽい騎馬民族」くらいしか無かった。だいたいの場合、極端に「蛮族」か「文明人」かにブレるし。出所明記して再現してもらえるとイメージが湧きやすくて助かる。だよね…やっぱ弁髪はないよねー…。
※映画に見る蛮族扱いの例
フリッツ・ラングの「ニーベルンゲンの歌」
※映画に見る文明人扱いの例
「覇王伝アッティラ」
とかくフン族研究については、「何が確実で、何が不確実か」をはっきりさせることが重要になってくる。
アッティラと同時代に書かれた記録でさえも確実ではない。複数の著者が言及していたことですら確実でない可能性があり、文書記録については著者がどんなバイアスをかけて記録したかを想定することが不可欠。それを忘れると、「フン族の王ルガは天罰で死にました」というようなキリスト教教会の宣伝記録すら信じてしまうことになる。
不確実性をできるだけ取り除いておぼろげに見えてくるものが、本来あるべきフン族についての歴史観。
それは伝説とはかけ離れていてつまらんかもしれんけど、興味深い内容なのである。
とりあえず、今までとっちらかっていた諸々がつながってきたわー…。
アッティラが風呂を作らせたっていうモチーフは、アッティラの側近の一人がローマ出身で、自宅に風呂作らせてたっていう記録から生まれた伝説なんだなー とか…。
無いと思ってたフン族の「攻城兵器」も、実は在ったらしい。(ローマ軍の逃亡兵を抱えていたことによる)
フン族と呼ばれている人々が、実は人数的にはごくごく少数で、征服して召抱えた多種多様な民族がフン帝国の大半を占めていただろうことは、確実と言っていいようだ。記録に残されているフン宮廷の人物名を丁寧に見ていくと、ゲピド人やらゴート人やらサルマティア人やらローマ人やら本当に色々。アッティラというカリスマ亡き後、帝国が短期間に瓦解していったのも、このあたりの事情があるのだろう。
と同時に、フン族の遺跡が他の民族のものと判別のつかない理由もよく分かった。初期からいろんな民族がごたまぜになっていて、一番最初にヨーロッパに現れた時代のフン族の特徴がどれだったのか分からなくなってるんだね…。