コプト教と「光の子」伝説 エジプト神話本にナグ・ハマディ文書が載ってる理由
故・矢島文夫先生の「エジプトの神話」(ちくま文庫)という本がある。
エジプト神話ってなんぞい何もしらんがな。という初心者が一冊目に読んでも分かりやすい、氏ならではの優しい口調で書かれた良い本である。
初心者にはぜひオススメしたい本なのだが、アマゾンで見てみたらもう取り扱い無くなってて軽くショック。
まあ町の本屋さんならまだ残ってるかもしれないので、興味のある人は探してみてほしい。
さて、この本の中に、古代エジプトの神話にまじって何故か「コプト時代の伝承」というのが一つ入っている。コプト時代の神話とはいうものの実態は「ナグ・ハマディ文書」、つまりグノーシス派キリスト教の文書の中の一部である。「コプト時代」とは、ほかの国で言うところの「ビザンツ時代」とだいたいイコール。プトレマイオス王朝終了後、キリスト教が広まっていった時代で、ローマ支配から離れてアラブ支配になりイスラム教が広まりだす時代までを指す。
かなり大雑把にまとめると、以下のような流れ。
ファラオ時代
*ギリシャ系ファラオの前まで
↓
グレコ(ギリシャ)・ローマン(ローマ)時代
*アレクサンドロス以降ローマ属州に入るあたり
↓
コプト時代
*グレコローマンに入ってることもある。ローマ属州以降、キリスト教が国教の時代
↓
アラブ支配時代
もう何年も前になるが、場違いに思えるソレがなぜ「エジプトの神話」という本に入っているのか、と言われたとき、私はその理由がよくわからなかった。「コプト時代」と「コプト教」の使い分けを明確にできていなかったこと、そのどちらも理解できていなかったためだ。矢島先生ほどの方が古代エジプトとコプト時代を混同するはずもないよなぁ…と漠然と思いつつ月日は過ぎた。
今ならば説明をつけることができる。
たぶん矢島先生的に言いたかったことは、コプト時代に書かれたグノーシス派キリスト教の伝承は、オリエントの神話伝承を下敷きにして作られた進化系なんだということじゃないのかと。つまり古代エジプト宗教の神話伝承も元ネタの一つになって生まれた、コプト時代の新しい「世界創造の物語」とした書かれているのだと。
本の構成を見ると、「ファラオ時代の伝承」「コプト時代の伝承」と世界創造の物語が2つ並んでいる。
前者は通常のエジプト神話本でも扱われる、「オシリス神とセト神が争ってオシリスが殺されて冥界の王となって、どうこう」という話。そして後者が「世界は混沌から生まれ、知恵が世界の元となり、男女対になる神々が生まれ…」というグノーシスの神話。
このふたつを並べることで、同じ神話の「古代エジプト、ファラオの時代の姿」と、「変化後のキリスト教時代の姿」を言いたかったんじゃないのかな…。
ナグ・ハマディ文書は、一つの物語ではない。
いくつもの写本の集合体なのだが、中身には被っているものもある。たとえるなら、各自が図書館にいって重要だと思うページの写しを取ってきて纏めて保管したところ、何人かの写したぶんは被ってました。という感じ。つまり被っている回数の多い文書ほど当時重要だと思われていたはずで、「コプト時代の伝承」として紹介されている「世界の起源について」という文書は二巻の五番目と十三巻の二番目の二回登場するので、それなりに重要視されていたはずだ。
文書の中には世界の起源に関する文書が他にもあるようだが、世界の始まりが混沌の闇であるところ、「知恵(ソフィア)」が大きな役割を果たすというところ、男女対になる神々が何対か誕生するところなどは共通している。また神々の住まう真なる世界と、人間の住まうこの世界との間が隔てられており、人間はいつか元いた真なる世界に戻らなくてはならないという思想も貫かれている。
この神話の裏にあるのはエジプト神話だけではないが、世界の始まりが混沌の闇、または原初の海であるという思想は、エジプトのみならずメソポタミアなどオリエント一帯では広く共通している。エジプト神話では最初に生まれるのは男性神だが、世界を照らす太陽=光であるというところはナグ・ハマディ文書に出てくる世界創造の物語に通じるものがある。また男女対になる神々の誕生は、おそらくエジプト神話の中の創世伝承の一つ、ヘルモポリス神話のパターンを踏襲しているのではないかと思う。
で、この神話なのだが、実はいまでも部分的に生きているらしい。
コプト教典礼の中でソフィアの名前を呼んでるらしいと聞いてちょこちょこ調べてみたところ、エジプトのキリスト教徒たちの間には「光の子」伝説というのがあるんだそうだ。
人は神々の住まう真なる世界から転がり落ちてしまったが、かつて光の子(キリスト教なので一応イエス・キリストということになっている)が、その事実を報せるために地上にやってきた。人の内には、天上界からこぼれ落ちた光が宿っている。正しく生きて死ねば、肉体を脱ぎ捨てて光なる魂は元の世界に戻れるのだという。
天上界=天国とすればキリスト教なのだが、言ってることはまんまグノーシス派キリスト教の文書内容だ。
グノーシスの思想の中に、「天使たちは花婿であり、人の魂という花嫁の帰還を待っている」というものがあるが、伝統的なコプト教の断食の日は「花婿が去る日」と呼ばれているそうで、これも何か関係がありそう。
しかし不思議なのは、「魂という光が真なる世界に帰るとき、肉体は脱ぎ捨てられる」という思想。
古代エジプトといえば、遺体の保存(ミイラ)に強くこだわり続けてきた文化圏ではないのかと。正統派(多数派)キリスト教徒は、今もその思想のとおり土葬、肉体の保存にこだわり、審判の日には肉体ごと復活できると信じているはずではないのか。影響を受けた側が肉体の復活を信じ、元祖とも言うべきエジプトで肉体が無用の長物になってしまったというのは、どういうことか。
あるいはエジプト人は、何千年も肉体を保存し続け、その復活が一度も起こらないのを目の当たりにするに至り、肉体に意味がないと悟ってしまったのかもしれない。
「どんだけ保存したって千年も経てばみんな塵だし。え? その千年後に世紀末がくる? うちの国、初代ファラオの時代から、もう三千年経ってますけどwwww終末なんてきてないっスけどwwww」
…みたいな。
エジプト神話ってなんぞい何もしらんがな。という初心者が一冊目に読んでも分かりやすい、氏ならではの優しい口調で書かれた良い本である。
初心者にはぜひオススメしたい本なのだが、アマゾンで見てみたらもう取り扱い無くなってて軽くショック。
まあ町の本屋さんならまだ残ってるかもしれないので、興味のある人は探してみてほしい。
さて、この本の中に、古代エジプトの神話にまじって何故か「コプト時代の伝承」というのが一つ入っている。コプト時代の神話とはいうものの実態は「ナグ・ハマディ文書」、つまりグノーシス派キリスト教の文書の中の一部である。「コプト時代」とは、ほかの国で言うところの「ビザンツ時代」とだいたいイコール。プトレマイオス王朝終了後、キリスト教が広まっていった時代で、ローマ支配から離れてアラブ支配になりイスラム教が広まりだす時代までを指す。
かなり大雑把にまとめると、以下のような流れ。
ファラオ時代
*ギリシャ系ファラオの前まで
↓
グレコ(ギリシャ)・ローマン(ローマ)時代
*アレクサンドロス以降ローマ属州に入るあたり
↓
コプト時代
*グレコローマンに入ってることもある。ローマ属州以降、キリスト教が国教の時代
↓
アラブ支配時代
もう何年も前になるが、場違いに思えるソレがなぜ「エジプトの神話」という本に入っているのか、と言われたとき、私はその理由がよくわからなかった。「コプト時代」と「コプト教」の使い分けを明確にできていなかったこと、そのどちらも理解できていなかったためだ。矢島先生ほどの方が古代エジプトとコプト時代を混同するはずもないよなぁ…と漠然と思いつつ月日は過ぎた。
今ならば説明をつけることができる。
たぶん矢島先生的に言いたかったことは、コプト時代に書かれたグノーシス派キリスト教の伝承は、オリエントの神話伝承を下敷きにして作られた進化系なんだということじゃないのかと。つまり古代エジプト宗教の神話伝承も元ネタの一つになって生まれた、コプト時代の新しい「世界創造の物語」とした書かれているのだと。
本の構成を見ると、「ファラオ時代の伝承」「コプト時代の伝承」と世界創造の物語が2つ並んでいる。
前者は通常のエジプト神話本でも扱われる、「オシリス神とセト神が争ってオシリスが殺されて冥界の王となって、どうこう」という話。そして後者が「世界は混沌から生まれ、知恵が世界の元となり、男女対になる神々が生まれ…」というグノーシスの神話。
このふたつを並べることで、同じ神話の「古代エジプト、ファラオの時代の姿」と、「変化後のキリスト教時代の姿」を言いたかったんじゃないのかな…。
ナグ・ハマディ文書は、一つの物語ではない。
いくつもの写本の集合体なのだが、中身には被っているものもある。たとえるなら、各自が図書館にいって重要だと思うページの写しを取ってきて纏めて保管したところ、何人かの写したぶんは被ってました。という感じ。つまり被っている回数の多い文書ほど当時重要だと思われていたはずで、「コプト時代の伝承」として紹介されている「世界の起源について」という文書は二巻の五番目と十三巻の二番目の二回登場するので、それなりに重要視されていたはずだ。
文書の中には世界の起源に関する文書が他にもあるようだが、世界の始まりが混沌の闇であるところ、「知恵(ソフィア)」が大きな役割を果たすというところ、男女対になる神々が何対か誕生するところなどは共通している。また神々の住まう真なる世界と、人間の住まうこの世界との間が隔てられており、人間はいつか元いた真なる世界に戻らなくてはならないという思想も貫かれている。
この神話の裏にあるのはエジプト神話だけではないが、世界の始まりが混沌の闇、または原初の海であるという思想は、エジプトのみならずメソポタミアなどオリエント一帯では広く共通している。エジプト神話では最初に生まれるのは男性神だが、世界を照らす太陽=光であるというところはナグ・ハマディ文書に出てくる世界創造の物語に通じるものがある。また男女対になる神々の誕生は、おそらくエジプト神話の中の創世伝承の一つ、ヘルモポリス神話のパターンを踏襲しているのではないかと思う。
で、この神話なのだが、実はいまでも部分的に生きているらしい。
コプト教典礼の中でソフィアの名前を呼んでるらしいと聞いてちょこちょこ調べてみたところ、エジプトのキリスト教徒たちの間には「光の子」伝説というのがあるんだそうだ。
人は神々の住まう真なる世界から転がり落ちてしまったが、かつて光の子(キリスト教なので一応イエス・キリストということになっている)が、その事実を報せるために地上にやってきた。人の内には、天上界からこぼれ落ちた光が宿っている。正しく生きて死ねば、肉体を脱ぎ捨てて光なる魂は元の世界に戻れるのだという。
天上界=天国とすればキリスト教なのだが、言ってることはまんまグノーシス派キリスト教の文書内容だ。
グノーシスの思想の中に、「天使たちは花婿であり、人の魂という花嫁の帰還を待っている」というものがあるが、伝統的なコプト教の断食の日は「花婿が去る日」と呼ばれているそうで、これも何か関係がありそう。
しかし不思議なのは、「魂という光が真なる世界に帰るとき、肉体は脱ぎ捨てられる」という思想。
古代エジプトといえば、遺体の保存(ミイラ)に強くこだわり続けてきた文化圏ではないのかと。正統派(多数派)キリスト教徒は、今もその思想のとおり土葬、肉体の保存にこだわり、審判の日には肉体ごと復活できると信じているはずではないのか。影響を受けた側が肉体の復活を信じ、元祖とも言うべきエジプトで肉体が無用の長物になってしまったというのは、どういうことか。
あるいはエジプト人は、何千年も肉体を保存し続け、その復活が一度も起こらないのを目の当たりにするに至り、肉体に意味がないと悟ってしまったのかもしれない。
「どんだけ保存したって千年も経てばみんな塵だし。え? その千年後に世紀末がくる? うちの国、初代ファラオの時代から、もう三千年経ってますけどwwww終末なんてきてないっスけどwwww」
…みたいな。

