「偽書の歴史」 上記・秀真伝・竹内文献など日本の偽書たちがどうやって作られたか etc.
偽書を、何をもって偽書とするかは難しい。
また偽書といいつつその中に歴史的価値が見出されることもある。
そんな話は「オシァン」についての論争を扱った時に書いた気がするが、今回は「日本の偽書」の話である。
内容は面白く、よくまとまっていてわかりやすいと思うのだが、いかんせん著者の使っている単語などが難しいため、とりあえずは話題の中心となっている偽書や論争を大雑把に知っていたほうが読みやすいかもしれない。
話題の中心に取り上げられている偽書とは、
「上記」(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)
竹内文献(たけのうちぶんけん/たけのうちもんじょ)
「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)
である。このへんは、「ムー」やらテレビのオカルト系の番組やら小説やらでお馴染みの「奇書」(実際は近代に作られた偽物なので違うのだが…)なので、知名度はまあまあ高いのではないかと思う。マンガのネタにもなってたりするし。
著者も言っているように、これらの書物は内容の稚拙さや出自の怪しさから、偽書であることは明白とされている。
しかしこれを偽書であると糾弾する側の態度にも問題があり、十分な偽書である所以の説明を残さないまま来てしまったため、未だに正書と信じてしまっている人がいる。また偽書であると結論づけたあと世の中から消し去ろうとしたことにより、結果的に「都合の悪い真実が書かれているから抹殺された」というような、深読みをしてこれらを信奉する別の流れを生み出してしまったという。
もちろん、これらの問題は、世界中どこにでも転がっている。
例えばピラミッドは宇宙人が作った云々の説を信じる人たちのいう、「学者はまともに反論してこない」「知られてはいけない事実だから証拠を抹消した」といった主張も、まさしく日本の偽書を真書と信じる人たちの言動と一致する。
ゆえに、この本のスタンスは以下のようなものとなっている。
偽物なのは明白なのだから、ことさらそればかり騒ぎ立てても仕方がない。人の話を聞かない人は聞かないし、信じたいと言いはる人は何かにつけて難癖をつけて偽書である証左を退けようとするのだから、説得するのは時間の無駄、そこで終わっていてはもったいない。偽書を偽書であると証明したその先に、学問の道は広がっている。
と、いうことである。
人はなぜ偽書を作るのか、なぜそれが流布してしまったのか、偽書の何が人を魅了するのか。
これが、この本の主題である。
著者はそれぞれの偽書について、その成立の背景を追っていく。
まあ、ざっくりと要約してしまえば、文明開化以降、価値観が急速に変化していく中での不安定な社会、そして戦中戦後の「国粋」意識の高まりによる自国の歴史への関心、これらが偽書の語る途方も無い「創られた歴史」というファンタジーに飛びつかせる原因を作ったということである。だからこそ偽書たちは、ごく一部を除いて近代に創られ、近代に突如スボットライトを浴び始めた。ゆえに偽書とバレるのも自明のことで、使われている単語や概念が新しすぎるのである。
このあたりの事情は、世界大戦中のドイツが必死で自国の歴史を喧伝し、「ゲルマン民族の誇り」や「アーリア人の優位」などという概念を持ちだしてきたのと同じだ。本書でも悪名高きウラ・リンダ年代記の名前はちらりと出てくる。
例外は「旧事紀」(くじき)というもので、これは10世紀に創られた偽書だというから、もはやそれ自体が古典文学である。18世紀に入るまで誰もそれが偽書かどうか疑わなかったというから息も長い。話題となっている「ほつまつたえ」や「たけのうちぶんけん」などが共通して参考にしたのはこの「旧事紀」からさらに派生して作られた「先代旧事本紀大成経」ではないかともされ、だから神代文字やウガヤ王朝といった共通する概念も使われているのだという。
近代に出現した偽書たちは、過去に作られた偽書を元ネタの一つとして、さらに地元ローカルな伝承や自身の願望、偶然触れた情報ーーたとえば聖書の記述すら取り込んで、独自の世界を創作していった。
著者はマスメディアが何の自浄作用も持たず無邪気に信じたこれらを喧伝したことの責任も挙げているが、実際は人々の「信じたい」という思いも大きかったのだろう。
今再び、世界は大きな価値観の転換期を迎えている。日本もいずれそれに巻き込まれるのだろうか。
世の中の不安定さ、人の信じたいという思いは、偽書を生み出す土壌ともなる。隣国韓国を見ていると分かる。
いま現在、韓国で、傍から見ていると思わず笑ってしまうような「自国の立派な伝統と文化」を学者自身が捏造しているのも、近代国家の仲間いりをしようともがいていた時代の日本がやったことと同じメカニズムで、ただちょっと向こうの方はツッコミを入れられるマトモな人が少なすぎるだけなのだと思う。そのうち、いやあるいは既に、日本における「竹内文献」のような偽書が、かの国でも出来上がっているかもしれない。(この間、日本政府が応じていた韓国の古文書返還なども、偽書作成のタネ本にするつもりではないかと密かに思っている。)
偽書をひとつの文学として扱う試みは、私も賛成である。歴史書として、事実として読もうとするから厄介なのであって、異端神話の一つのバリエーションとして扱うぶんには面白い。残しておいても、皆がそれを信じることはなく、必死で抹消しようとするほど危険なものではない。著者が最初に書いているように、「偽書がデタラメなものであることは、それが発見された当初はともかく後は自明のことである」、言わなくてもわかりきった話なのだから。
もしも偽書たちが正史として世の中の大半に受け入れられるような時代が来るとしたら、それは偽書そのものが危険なのではなく、偽と真を見抜ける者がいなくなったことに知の終焉を見て嘆くべきだと思う。
以前、ニセ科学やニセ考古学についての本を紹介した時にもたびたび書いてきたことだが、ニセモノはそれ自体が魅力的だから「ニセモノ」でいられるのである。魅力がなければニセモノですらもなく、存在し続けることすら出来無い。
少なくとも自国の歴史に興味を抱く人々が一定存在し続けるかぎり、日本において、日本の偽書が偽書でなくなる日は来ないだろうと私は思う。
だが、一定の割合で信じる人ば存在し続ける。偽物であることをことさらに騒ぎ立てることに終始するのではなく、その先を見つめよという著者の指摘は的を射ていると思う。
また偽書といいつつその中に歴史的価値が見出されることもある。
そんな話は「オシァン」についての論争を扱った時に書いた気がするが、今回は「日本の偽書」の話である。
内容は面白く、よくまとまっていてわかりやすいと思うのだが、いかんせん著者の使っている単語などが難しいため、とりあえずは話題の中心となっている偽書や論争を大雑把に知っていたほうが読みやすいかもしれない。
話題の中心に取り上げられている偽書とは、
「上記」(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)
竹内文献(たけのうちぶんけん/たけのうちもんじょ)
「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)
である。このへんは、「ムー」やらテレビのオカルト系の番組やら小説やらでお馴染みの「奇書」(実際は近代に作られた偽物なので違うのだが…)なので、知名度はまあまあ高いのではないかと思う。マンガのネタにもなってたりするし。
著者も言っているように、これらの書物は内容の稚拙さや出自の怪しさから、偽書であることは明白とされている。
しかしこれを偽書であると糾弾する側の態度にも問題があり、十分な偽書である所以の説明を残さないまま来てしまったため、未だに正書と信じてしまっている人がいる。また偽書であると結論づけたあと世の中から消し去ろうとしたことにより、結果的に「都合の悪い真実が書かれているから抹殺された」というような、深読みをしてこれらを信奉する別の流れを生み出してしまったという。
もちろん、これらの問題は、世界中どこにでも転がっている。
例えばピラミッドは宇宙人が作った云々の説を信じる人たちのいう、「学者はまともに反論してこない」「知られてはいけない事実だから証拠を抹消した」といった主張も、まさしく日本の偽書を真書と信じる人たちの言動と一致する。
ゆえに、この本のスタンスは以下のようなものとなっている。
偽書がデタラメなものであることは、それが発見された当初はともかく後は自明のことである。それのみを論じるのは不毛である。こういった糾弾調の偽書論を展開する人は、偽書にだまされる人々の迷夢を醒まさなければいけないという啓蒙的使命感を持っているように見受けられるが、のれんに腕押し、単に偽書の内容がデタラメであることを論じても、信じる人には効き目がない。
真に必要なことは、偽書というものが存在するのも一つの歴史的事実であることをうけとめ、それがどういう意味を持つのかを醒めた目で分析し、学問の上に位置づけることである。
偽物なのは明白なのだから、ことさらそればかり騒ぎ立てても仕方がない。人の話を聞かない人は聞かないし、信じたいと言いはる人は何かにつけて難癖をつけて偽書である証左を退けようとするのだから、説得するのは時間の無駄、そこで終わっていてはもったいない。偽書を偽書であると証明したその先に、学問の道は広がっている。
と、いうことである。
人はなぜ偽書を作るのか、なぜそれが流布してしまったのか、偽書の何が人を魅了するのか。
これが、この本の主題である。
著者はそれぞれの偽書について、その成立の背景を追っていく。
まあ、ざっくりと要約してしまえば、文明開化以降、価値観が急速に変化していく中での不安定な社会、そして戦中戦後の「国粋」意識の高まりによる自国の歴史への関心、これらが偽書の語る途方も無い「創られた歴史」というファンタジーに飛びつかせる原因を作ったということである。だからこそ偽書たちは、ごく一部を除いて近代に創られ、近代に突如スボットライトを浴び始めた。ゆえに偽書とバレるのも自明のことで、使われている単語や概念が新しすぎるのである。
このあたりの事情は、世界大戦中のドイツが必死で自国の歴史を喧伝し、「ゲルマン民族の誇り」や「アーリア人の優位」などという概念を持ちだしてきたのと同じだ。本書でも悪名高きウラ・リンダ年代記の名前はちらりと出てくる。
例外は「旧事紀」(くじき)というもので、これは10世紀に創られた偽書だというから、もはやそれ自体が古典文学である。18世紀に入るまで誰もそれが偽書かどうか疑わなかったというから息も長い。話題となっている「ほつまつたえ」や「たけのうちぶんけん」などが共通して参考にしたのはこの「旧事紀」からさらに派生して作られた「先代旧事本紀大成経」ではないかともされ、だから神代文字やウガヤ王朝といった共通する概念も使われているのだという。
近代に出現した偽書たちは、過去に作られた偽書を元ネタの一つとして、さらに地元ローカルな伝承や自身の願望、偶然触れた情報ーーたとえば聖書の記述すら取り込んで、独自の世界を創作していった。
著者はマスメディアが何の自浄作用も持たず無邪気に信じたこれらを喧伝したことの責任も挙げているが、実際は人々の「信じたい」という思いも大きかったのだろう。
今再び、世界は大きな価値観の転換期を迎えている。日本もいずれそれに巻き込まれるのだろうか。
世の中の不安定さ、人の信じたいという思いは、偽書を生み出す土壌ともなる。隣国韓国を見ていると分かる。
いま現在、韓国で、傍から見ていると思わず笑ってしまうような「自国の立派な伝統と文化」を学者自身が捏造しているのも、近代国家の仲間いりをしようともがいていた時代の日本がやったことと同じメカニズムで、ただちょっと向こうの方はツッコミを入れられるマトモな人が少なすぎるだけなのだと思う。そのうち、いやあるいは既に、日本における「竹内文献」のような偽書が、かの国でも出来上がっているかもしれない。(この間、日本政府が応じていた韓国の古文書返還なども、偽書作成のタネ本にするつもりではないかと密かに思っている。)
偽書をひとつの文学として扱う試みは、私も賛成である。歴史書として、事実として読もうとするから厄介なのであって、異端神話の一つのバリエーションとして扱うぶんには面白い。残しておいても、皆がそれを信じることはなく、必死で抹消しようとするほど危険なものではない。著者が最初に書いているように、「偽書がデタラメなものであることは、それが発見された当初はともかく後は自明のことである」、言わなくてもわかりきった話なのだから。
もしも偽書たちが正史として世の中の大半に受け入れられるような時代が来るとしたら、それは偽書そのものが危険なのではなく、偽と真を見抜ける者がいなくなったことに知の終焉を見て嘆くべきだと思う。
以前、ニセ科学やニセ考古学についての本を紹介した時にもたびたび書いてきたことだが、ニセモノはそれ自体が魅力的だから「ニセモノ」でいられるのである。魅力がなければニセモノですらもなく、存在し続けることすら出来無い。
少なくとも自国の歴史に興味を抱く人々が一定存在し続けるかぎり、日本において、日本の偽書が偽書でなくなる日は来ないだろうと私は思う。
だが、一定の割合で信じる人ば存在し続ける。偽物であることをことさらに騒ぎ立てることに終始するのではなく、その先を見つめよという著者の指摘は的を射ていると思う。
