受け継がれる出来事:もしも数千年後の未来に何か伝えたいならば
現代は、情報社会である。地球の裏側で起きた出来事もインターネットなどを通じてニュースとして即座に配信される。しかも写真や映像つきで、である。様々な立場、知識を持つ人の意見を多角的に聞くことも出来る。それらの中から、「歴史的事実」と呼ばれるものを拾い上げることになる。そして、映像や、書かれた媒体は、何年も、何十年でも容易に残っていく。印刷やダビングによって拡散され、再版や引用、リメイクによって更新される。
しかし古代はどうだっただろうか。
古代というとアバウトになってしまうので、紀元前5~6世紀あたりの東地中海世界、と限定してみよう。ギリシャの文筆家ヘロドトスが生きていたのがそのあたりで、イメージしやすいだろうからだ。
古代において情報は、人の行き来でしか流れない。交流のない地域の出来事は知られないだろう。遠方のニュースが届くまでには、場合によっては何年もかかるかもしれない。また小さな出来事は人のウワサにものぼらず、興味のある一部の人だけが記憶することになる。
しかし、人が死ねば、記憶は消滅する。百年を越えて生きる人間は稀だ。人の記憶にしか存在しない出来事は、たとえそれが事実起こったものであったとしても、記憶している人間が死に絶えた時点で無かったことなる。紙に書いたとしても、その紙自体が貴重で、容易に手に入るものではない。そもそも識字率がそう高いわけでもなく、"書く"という選択肢を選べる人自体が少ない。また印刷技術などもないから、紙に書いたものは筆写しない限り一点物となる。一点物とは、それが失われればそこに記された情報も跡形なく消えるという意味である。紙の寿命はそう長くはない。だから、価値あるものとして他社に頻繁に書き写されるような文書以外は、書かれてから現在までの時の中で朽ち果て失われていったのだ。
そう、古代において、過去はわずか百年で跡形もなく消え去ることが出来るのである。
誰一人知る人もなく。
火山の噴火や大戦争のような悲劇すら、それを目撃した人々の子孫が死に絶えれば、容易に無かったこととなる。間接的に知っている人がいたとしても、積極的に記録に残そうと試みなければ、歴史から完全に消し去ることができた。そして「歴史」が概念として成立していない紀元前5~6世紀とは、まだそれが可能な時代であった。
では、そんな時代に自分が生きていたとして、何かを後世に伝えたかったとしたら、どうするか。
あり得ないことだが、タイムスリップして、その世界で自分が生きたことを本来の時代に伝えたいとか、そんな想像をしてみてもいい。
取りうる方法としては、歌や物語にして語り継ぐか、石にでも刻むか。
実際に現在まで生き残っている古代の記憶の保存方法である。
――という前提を踏まえた上で、古代人が実際にとってきた「記憶を保存する」方法を振り返ってみたい。
前提とした紀元前5-6世紀あたりの東地中海世界では、歴史を元にした神話や物語が作られている。歴史という概念がまだ無かった未熟な時代、というわけではなく、記憶を保存するためには、その方法しか無かったのだと思う。
実際にあった出来事を淡々と物語にするのでは、面白くない。面白くない物語は記憶されず、受け継がれない。ならば事実にこだわらず、人が人に伝えたくなるようなフィクションまじりの伝承に仕立てるしかない。そうすれば、「史実」とは大きく異るとしても、「何かがあった」ことだけは後世に伝えられる。もちろん完全に意図したわけではなかろうが、実際にそうした人の興味をひく物語だけが、現代まで「記憶」として生き残っている。
しかしこの方法は、人に依存して記憶を伝える方法である。よって、人によって容易に改変される可能性を持つ。場合によっては善悪が逆転したり、登場人物が入れ替えられたりもする。ある文化圏の人間が完全に絶える可能性は低く、いったん人気作品となってしまえば口伝が途切れることはあまりないが、伝えたい必要な情報が改変される可能性が高い。
対して、石に刻むという方法では、情報は刻まれた時のまま改変される可能性は低いものの、人に依存しない分、石自体がモノとして再利用されたり、埋もれたり、破壊されたりして消え去る可能性が高い。特に石碑などは、後世からすると「石材」としか見られないことも多い。貴重な金属や宝石で記念品を造れば廃棄されることはなくなるだろうが、鋳潰すなどで再利用されることは良くある。
どちらもリスキーであり、数千年後まで伝えたい情報が伝わるかどうかは、運まかせということになる。
実際問題として、言いたいことを数千年後まで伝えられた古代人は、そう多くない。ごく一握り、どう多く見積もっても一世代に数十人程度、そんな人々の言葉しか、我々は知ることが出来無い。
現代から過去を振り返れば、点在する歴史的事実だけをなぞってその道則が見えた気になる。歴史書を手に多少知恵が付けば、過去は手に届く範囲にある、想像が出来るなどと勘違いをしてしまいそうになる。だが、ひとたび古代世界に身をおいて未来を仰ぎ見れば、絶望的な時の距離と、天のあまりの高さに目がくらむ。
たった一人の思いでは、時の壁は越えられない。
ある一つの「出来事」が未来に伝わるだけでも、そこには多くの人々の手が、意思が、介在しているのではないだろうか。
――そんなことを考えてみた。
しかし古代はどうだっただろうか。
古代というとアバウトになってしまうので、紀元前5~6世紀あたりの東地中海世界、と限定してみよう。ギリシャの文筆家ヘロドトスが生きていたのがそのあたりで、イメージしやすいだろうからだ。
古代において情報は、人の行き来でしか流れない。交流のない地域の出来事は知られないだろう。遠方のニュースが届くまでには、場合によっては何年もかかるかもしれない。また小さな出来事は人のウワサにものぼらず、興味のある一部の人だけが記憶することになる。
しかし、人が死ねば、記憶は消滅する。百年を越えて生きる人間は稀だ。人の記憶にしか存在しない出来事は、たとえそれが事実起こったものであったとしても、記憶している人間が死に絶えた時点で無かったことなる。紙に書いたとしても、その紙自体が貴重で、容易に手に入るものではない。そもそも識字率がそう高いわけでもなく、"書く"という選択肢を選べる人自体が少ない。また印刷技術などもないから、紙に書いたものは筆写しない限り一点物となる。一点物とは、それが失われればそこに記された情報も跡形なく消えるという意味である。紙の寿命はそう長くはない。だから、価値あるものとして他社に頻繁に書き写されるような文書以外は、書かれてから現在までの時の中で朽ち果て失われていったのだ。
そう、古代において、過去はわずか百年で跡形もなく消え去ることが出来るのである。
誰一人知る人もなく。
火山の噴火や大戦争のような悲劇すら、それを目撃した人々の子孫が死に絶えれば、容易に無かったこととなる。間接的に知っている人がいたとしても、積極的に記録に残そうと試みなければ、歴史から完全に消し去ることができた。そして「歴史」が概念として成立していない紀元前5~6世紀とは、まだそれが可能な時代であった。
では、そんな時代に自分が生きていたとして、何かを後世に伝えたかったとしたら、どうするか。
あり得ないことだが、タイムスリップして、その世界で自分が生きたことを本来の時代に伝えたいとか、そんな想像をしてみてもいい。
取りうる方法としては、歌や物語にして語り継ぐか、石にでも刻むか。
実際に現在まで生き残っている古代の記憶の保存方法である。
――という前提を踏まえた上で、古代人が実際にとってきた「記憶を保存する」方法を振り返ってみたい。
前提とした紀元前5-6世紀あたりの東地中海世界では、歴史を元にした神話や物語が作られている。歴史という概念がまだ無かった未熟な時代、というわけではなく、記憶を保存するためには、その方法しか無かったのだと思う。
実際にあった出来事を淡々と物語にするのでは、面白くない。面白くない物語は記憶されず、受け継がれない。ならば事実にこだわらず、人が人に伝えたくなるようなフィクションまじりの伝承に仕立てるしかない。そうすれば、「史実」とは大きく異るとしても、「何かがあった」ことだけは後世に伝えられる。もちろん完全に意図したわけではなかろうが、実際にそうした人の興味をひく物語だけが、現代まで「記憶」として生き残っている。
しかしこの方法は、人に依存して記憶を伝える方法である。よって、人によって容易に改変される可能性を持つ。場合によっては善悪が逆転したり、登場人物が入れ替えられたりもする。ある文化圏の人間が完全に絶える可能性は低く、いったん人気作品となってしまえば口伝が途切れることはあまりないが、伝えたい必要な情報が改変される可能性が高い。
対して、石に刻むという方法では、情報は刻まれた時のまま改変される可能性は低いものの、人に依存しない分、石自体がモノとして再利用されたり、埋もれたり、破壊されたりして消え去る可能性が高い。特に石碑などは、後世からすると「石材」としか見られないことも多い。貴重な金属や宝石で記念品を造れば廃棄されることはなくなるだろうが、鋳潰すなどで再利用されることは良くある。
どちらもリスキーであり、数千年後まで伝えたい情報が伝わるかどうかは、運まかせということになる。
実際問題として、言いたいことを数千年後まで伝えられた古代人は、そう多くない。ごく一握り、どう多く見積もっても一世代に数十人程度、そんな人々の言葉しか、我々は知ることが出来無い。
現代から過去を振り返れば、点在する歴史的事実だけをなぞってその道則が見えた気になる。歴史書を手に多少知恵が付けば、過去は手に届く範囲にある、想像が出来るなどと勘違いをしてしまいそうになる。だが、ひとたび古代世界に身をおいて未来を仰ぎ見れば、絶望的な時の距離と、天のあまりの高さに目がくらむ。
たった一人の思いでは、時の壁は越えられない。
ある一つの「出来事」が未来に伝わるだけでも、そこには多くの人々の手が、意思が、介在しているのではないだろうか。
――そんなことを考えてみた。