もしも日本神道の司祭がW・B・イェイツの「神秘の薔薇」を読んだら ―「ケルトと日本」

【2018/3/2追加分】

最近の研究をまとめてみたところ、ブリテン島やアイルランドを指して使われる「ケルト」という言葉には歴史的な裏づけがなく、中世以降で自称しはじめて何となく今もイメージで使われている言葉だったと判りました。この本に使われている「ケルト」という言葉は歴史上実在した「ケルト」人についてではなく、中世以降の自称/イメージの「ケルト」でした。

「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話
https://55096962.seesaa.net/article/201705article_21.html

・今まで「ケルト神話」と言われていたものも、島のケルトに属するものは”ケルト”神話じゃない
・ケルト人が島に渡ったという証拠はない

慣習で使い続けている(感情的に否定できない)人はいると思いますが、事実として上記となります。

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あるジャンルの専門の学者が集まって、一冊の本を書くことは珍しくないが、色々なジャンルの人が集まって一つのお題について書く本はあまりない。「ケルトの日本」、この本を読む時は、末尾の著者の素性は見ないまま読んだほうが面白い。というか、その部分を先に見てしまうと余計な先入観を持って面白くなくなってしまうかもしれない。

ケルトと日本 (角川選書)
角川書店
鎌田 東二

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変わった本には違いない。
書く著者がわりと好き勝手に、違った方向に向けて書いているので、どちらかというと読みづらい部類に属する。が、一つのお題でここまで好き勝手な方向にいけるのかと興味深く読める本ではある。

何しろ本屋で手にとって開いたページが「ピンクフロイドの曲と日本の神社はよく似合う」なんていう突拍子もない部分だったのだから…。


今はよい時代なもので、Youtubeあたりで検索をかければ、たいていの人気曲はヒットする。「ピンクフロイドだって? 何だいそりゃ」くらいの私でも、適当に「Pink Floyd」「Atom Heart Mother」でググれば曲は出てくる。

http://www.youtube.com/watch?v=XLn7snLiNcY&feature=related

正直に感想を言おう。
神社と合う、という感覚は全く分からなかった。

神社のイメージが違うのかもしれない。私の中にある神社というと小中学校の通学路にあった春日神社で、春になるたびに満開の桜に埋め尽くされた、記憶の中ではいつも薄紅の春の風景のままの、生命力に溢れる場所だからだ。

だが、「聞いていると死にたくなる曲」というのは何となく分かる気がした。「冬の雲ひとつない紺碧の青空を眺めているときに、突然湧き起こってくる『死にたくなる』気分」。そんなこともあるにはある。高い山に苦労して登って、地平線の向に海なんか見えたりすると、「この風景だけ覚えて死ねるならそれでもいいかな」という気分になることが無くもない。

だが、ピンクフロイドの曲にケルトの輪廻の世界観を見るのは、今の私ではさすがに無理だ。
イギリス本土には行ったことがある、ウェールズも入り口までならある、だがスコットランドもアイスランドも行ったことがない。魔女と幽霊なら会ったことがあるが、妖精さんにはついぞ見えずじまい。

そんな、「分かる奴だけ分かってくれればいい」的な、感覚的な、ややもするとオカルトに踏み込みそうなコラムまで載っているのが、この本なのである。まさに何でもあり。各自ケルトというお題で好きなことを書きなさい状態。


いちおうタイトルが「日本とケルト」なので、両者の比較は多くある。
ラフカディオ・ハーンに言及するのは言わずもがな。遠野物語が出てくるのも王道である。

ただ、西洋の「おばけ」である妖精は陽気だが、日本の「おばけ」である妖怪たちは憂鬱というのは、どこか違う気がした。憂鬱というより、陰惨な部分を引き受けた妖精たちは、北欧に居る。アイルランドのある場所よりももっと北、薄暗く冬の厳しい土地の妖精たちは、陽気な悪戯をやっている余裕が無い。日本の妖怪も、豆腐小僧や座敷わらしあたりは陽気で妖精に近い存在なんではなかろうか。

ケルトの民は基本的に狩猟民で、日本人は農耕民だったことも大きいと思う。
狩猟民の神は荒々しいのである。田んぼの神様はとにかく優しい。人間とともに生きようとする。対して山の神様は人間に厳しく、それはそのまま人の住む里と人を拒む山との自然模様の対比でもあると思う。妖精や妖怪が神の面影を残す零落した姿であるならば、元々の性格が違うのだから、別物になって然るべきように思う。妖精と妖怪は、決して平行線上にはない。

その意味では、日本とケルトは同じアミニズムだとか、同じ辺境性を持つ文化だとか、多神教だとかいう括りで見てしまうと何も理解できずに終わる気がする。そもそもがケルトはキリスト教を受け入れ、日本は仏教を受け入れた。ケルトはタテマエ上は一神教になり妖精たちを追放したが、日本は多神教から多神教で融合させた。そのうえ「交わらざる異界」としての深い山間部には、どちらでもない天狗のような超自然の存在が生き残り続けた。


 比較は出来るが同一線上では語れない。


当たり前のことなのだが、これが、この本を読む上での大前提としてあるべき意識だろうと思う。



さて、この本の中で取り上げられている沢山の話題の中で16世紀の「ケルトマニア」に絡む話の中に面白いものがあった。19世紀のケルト・リバイバルとはまた別に、16世紀にフランスで起きていた、「ケルトこそヨーロッパ文明の祖である」というような今からすると謎な潮流である。フランス=ケルトとして、しかもガリア人がギリシャ人の祖先でもあるというような話になっているので、何がなんだか分からない。

その中の一人、オランダの学者「マルクス・ズエリウス・ボクスホルニウス」氏が著した「ガリアの起源についての書」では、ガリア人とゲルマン人とギリシャ人の共通祖先がスキタイ人であるという、ヨーロッパ・スキタイ起源説なるものが唱えられているようなのだ。

ケルトとスキタイ。

そう、以前フルボッコにした例のあの本ですよ。


「アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ」 …は? なんでスキタイ?? と思っていたけど、すでに16世紀にはもう、下地になるトンデモ説は成立していたようだ。

というか、アーサー王がスキタイ人だとかいうのは全くまっさらな状態から出てきた新説ではなく、さんざん否定され尽くして忘れ去られた大昔の学説の、これもある意味では「リバイバル」の一種だったのか。納得はしたが、なぜ今更そんな説を掘り起こしてきたのか、何故そんなので映画一本撮っちゃったのか、残念感も漂う…。


合う合わないは分かれる本だろうが、というか合わない人のほうが多そうだが、エンヤの曲を聞きながら冬の漁村で荒波に揉まれてみたりしたい人にはお勧めできる。実に不思議な雰囲気の本なのです。

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