エジプトに来ていたケルト人? ファイユームの盾に秘められたドラマ
アイルランドで出土しているエジプトのファイフンスビーズの話を調べていたら逆に、エジプトのファイユーム地方から見つかっているケルト風の盾の話を見つけてしまい…。
は? エジプトにケルト人なんて来てたっけ??
というわけでちょっと調べてみた…
*以下2枚の写真は「ケルト歴史地図/東京書籍」より
↑問題のブツ
↑でもケルト人の移住範囲にエジプトは入っていない。ガラティアまで。
Web上の解説で探して見る限り、この盾は、一時的にエジプトに住んだケルト人のものではないかという説が多かった。↓こことか。
http://www.roman-reenactor.com/scutum%20el%20fayum.html
ガラティアのように一族郎党まとめて定住してたんじゃなく、ケルト人の傭兵がローマによってエジプトに派遣されて一時的に住んでただけってのはありそうだな。時代的にも紀元前3世紀で、ローマは拡大政策真っ最中。ちょこちょこ調べてみると、ファイユームからは他にも、1世紀頃のケルト風な剣が見つかっているという話もあった。盾と剣、これらは確かに遠征中の戦士の持ち物。
http://www.uam.es/proyectosinv/equus/warmas/online/Quesada2011Braganza.pdf(PDFファイル)
ケルト人が移住してエジプトに住んでたわけじゃなく、傭兵として送られていたんだとすれば、出てくるものが武器防具ばっかりってのも頷ける話。大規模な戦闘があれば人骨なども残されるだろうところ、特に戦争やってたわけでもないので、忘れられた持ち物の一部だけ残されてる、と、たぶんそういうことなんだと思う。
…しかしケルト人がエジプトっていうのもまたなんていうか、想像するだに不思議な光景である。
****
そして更に足取りを追っていたらこんな資料を発見。
繋がった! エジプトの資料とケルトの資料が繋がったよ!
紀元前3世紀、そう、この時代だ。この時の傭兵の盾かっ。
ファイユームにケルト人傭兵のコミュニティが作られていたのかもね。で、そこの傭兵たちは、王の命令で処刑されたと…。これ見つかった盾の持ち主の話で一本映画撮れちゃうやん。めっちゃドラマやん。
こういう、一つの遺物からたどっていくと歴史が見えてくる、的な出会いがあるから、考古学ファンはやめられないんだぜ。
******
<2018/03/02追記分>
以下のような話もありつつ、こっちは本物の(歴史上実在したほうの)"ケルト人"の話です。
「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話
https://55096962.seesaa.net/article/201705article_21.html
は? エジプトにケルト人なんて来てたっけ??
というわけでちょっと調べてみた…
*以下2枚の写真は「ケルト歴史地図/東京書籍」より
↑問題のブツ
↑でもケルト人の移住範囲にエジプトは入っていない。ガラティアまで。
Web上の解説で探して見る限り、この盾は、一時的にエジプトに住んだケルト人のものではないかという説が多かった。↓こことか。
http://www.roman-reenactor.com/scutum%20el%20fayum.html
ガラティアのように一族郎党まとめて定住してたんじゃなく、ケルト人の傭兵がローマによってエジプトに派遣されて一時的に住んでただけってのはありそうだな。時代的にも紀元前3世紀で、ローマは拡大政策真っ最中。ちょこちょこ調べてみると、ファイユームからは他にも、1世紀頃のケルト風な剣が見つかっているという話もあった。盾と剣、これらは確かに遠征中の戦士の持ち物。
http://www.uam.es/proyectosinv/equus/warmas/online/Quesada2011Braganza.pdf(PDFファイル)
ケルト人が移住してエジプトに住んでたわけじゃなく、傭兵として送られていたんだとすれば、出てくるものが武器防具ばっかりってのも頷ける話。大規模な戦闘があれば人骨なども残されるだろうところ、特に戦争やってたわけでもないので、忘れられた持ち物の一部だけ残されてる、と、たぶんそういうことなんだと思う。
…しかしケルト人がエジプトっていうのもまたなんていうか、想像するだに不思議な光景である。
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そして更に足取りを追っていたらこんな資料を発見。
ケルト的世界の拡大は、傭兵としての進出だったという解釈がある。すでに前四世紀半、ギリシアの傭兵としてのガリア人は、イベリア人とともにシラグザ軍(イタリア南部シチリア)の一翼を担っていたらしいが、特に前三世紀初めのアレクサンドロス大王の死後の混乱の時代のなかで、ガリア・ケルト人の傭兵が活躍した。前二七七年から前二七六年、エジプト王フィラデルフォスのプトレマイオス(プトレマイオス2世)の傭兵として活躍していた四千人のガリア人が、反乱を恐れて王によって、ナイル河の島で殺害されたという記録がある。
ー興亡の世界史7 ケルトの水脈/講談社
繋がった! エジプトの資料とケルトの資料が繋がったよ!
紀元前3世紀、そう、この時代だ。この時の傭兵の盾かっ。
傭兵は二千から四千の兵で構成され、妻子も引き連れていた。したがって総勢では五千人から一万人にのぼったと推定されている。こうした傭兵の活躍が、ガリアに特徴的な剣の鞘のヨーロッパ的規模での拡散を説明すると、クルータは見る。
ファイユームにケルト人傭兵のコミュニティが作られていたのかもね。で、そこの傭兵たちは、王の命令で処刑されたと…。これ見つかった盾の持ち主の話で一本映画撮れちゃうやん。めっちゃドラマやん。
こういう、一つの遺物からたどっていくと歴史が見えてくる、的な出会いがあるから、考古学ファンはやめられないんだぜ。
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<2018/03/02追記分>
以下のような話もありつつ、こっちは本物の(歴史上実在したほうの)"ケルト人"の話です。
「島のケルト」は「大陸のケルト」とは別モノだった。というかケルトじゃなかったという話
https://55096962.seesaa.net/article/201705article_21.html