ペンを持つ全ての者たちへ。映画「もうひとりのシェイクスピア」――シェイクスピア好きじゃなくてもOK!
公式サイト
http://shakespeare-movie.com/
まぁとにかくコレはオススメ。例によって見る人を選びそうな作品だけどね。
======== 以下ネタバレ自重気味の感想 ============
映画を見てゾクリとしたのは、久しぶりのことだ。
あまりプッシュされておらず、上映館も少ない映画だが、そしてまた予告編が非常につまらない出来だったのだが、にも関わらず見に行ったのには理由がある。予告編の中で、女性の登場人物が「なぜ書くの?」とシェイクスピア(本物のほう)に聞くのである。
「なぜ書くの?」
自分の場合で言おう。ペンを持たなければ死ぬ人種だから、と言うほかない。パソコンがなければメモ帳に書く。長い会議中に疲れてくると書類の端っこがメモ書きで埋まっている。詩女神ミューズは滅多に降りてこない。教養もイマイチ。言葉遣いは最悪。でも書くのが好き。
そんな人種にとって、映画の中の登場人物は他人ではない。”誰もシェイクスピアにはなれない”という映画の中の言葉の通り、我々平凡なる者たちはシェイクスピアにはなれない。自分自身は、もう一人の主人公、ベン・ジョンソンに重ね合わされるのである。
これは、全てのペンを持つものたちが見るべき映画の1つだと思う。
日記でもラノベでも三文詩でもいい、生涯ペンを置くことの出来ない者なら、登場人物たちの気持ちがきっと分かる。映画の中で語られるセリフの一言、一言が自分自身の言葉となって跳ね返ってくる。
「たとえ私を裏切ろうとも 私の言葉は裏切れない」
…そうだよね。人間を裏切るのは簡単なんだけど、胸に響く言葉を振り払うのって難しいよね。
だからこそ、ベンの感じていた嫉妬や羨望、しかし最高の作品を捨てることは決して出来ない、抗えない気持ちがよく分かるんだよ。
ちなみに洋物映画の場合、「邦題が間違ってる(おかしい)」、「公式ストーリーが間違っている」、「登場人物紹介がデタラメ」など、配給会社の怠慢というほかない失敗が多々あるものだが、この映画の場合は 公式の予告編がおかしい という新境地を開いてくれた。そういう話じゃないだろ。ていうか時系列がむちゃくちゃだろ。ブツぎりにしたシーンをデタラメに繋ぎあわせた面白みに欠けるトレイラーである。どうしてこうなった。
べつにシェイクスピア(本物)は、エリザベス1世の心を変えるためにペンを持ったわけじゃないよ…。
********
ぶっちゃけて言うと、シェイクスピアの作品はあまり好きではない。
好きではないというか「合わない」のだと思う。喜劇は笑えない漫才、悲劇は暗すぎて鬱になる。ソネットは「こんなの女子高生にでもくれてやれ」的な感じで、ハイネと一緒に本棚に並べればいいと思う。
だが、だからといってシェイクスピアに価値がないわけではない。
つまらない作品なら、これほど長く、これほど多くの人々を惹きつけることはないだろう。テレビや各種メディアでゴリ推しされているアイドルやポップスターなんてものは百年と言わず十年もすれば綺麗サッパリ消えてなくなる。シェイクスピアは四百年、そう、大航海時代から四百年も受け継がれてきたのである。価値がないわけがない。
「石で作られた記念碑は、やがて忘れ去られるが、言葉によって作られた記念碑は、人々の記憶に残るだろう」
そして、シェイクスピアの戯曲は 演じられてはじめて命を吹き込まれる のだということを、映画のなかで読み上げられるセリフによって知った。
オックスフォード伯は民衆を動かす力を演劇に見出したが、作中のエリザベス1世の時代は、まさに「言葉が力を持ち、人々の心を操る」ことが出来た時代だった。セシル親子が恐れたのも無理は無い。だが、いずれイングランド王室は、その恐れた力を「禁止」するのではなく「擁護」することによって、政局を思い通りにしようとしていく。
スコットランド併合は彼女の死後百年経ったあとの出来事だが、次なるステージは、現代では作家として知られるが実際は職業ジャーナリストとして活躍していた、ダニエル・デュフォーやジョナサン・スウィフトらが、ペンの力で世論を動かそうと試みる時代なのである。
シェイクスピアは、まさに出るべき時代に出てきた作家なのだと思う。
しかし、その正体は、映画の冒頭の導入部分でも語られるとおり、はっきりしていない。「名義を貸した”シェイクスピア”と真の作者は別」という説もあるが、署名が六通りあることから「六人いたのでは?」という説もあったりする。そこに目をつけて、「シェイクスピア別人説」をドラマティックに仕立てあげたのが本作品。
そしてこの作品、時代考証や背景の作りこみがすごい。エリザベス女王にしろ、シェイクスピア(偽物)にしろ、ジェームズ王にしろ、肖像画でよく見るアレのまんま、イメージどおりの装いで出てくるので、それだけでも必見。そしてちょこっとだけしか出てこないけど帆船。大航海時代の帆船ですよー。アルマダの海戦からまだ二十年経ってませんし! 字幕版で見に行くと「銃を捨てろ!」のところ「マスケットを捨てろ」って言ってて、うはーこれがマスケットなんだあああ って感じで妙なところでワクテカしたり。
ただ、歴史ネタとしても結構濃いところを扱っているので、単にシェイクスピアの書いたものが好き、というだけの人だと王位継承問題についての微妙な部分は意味がわからないかも。
ディープにシェイクスピア好きの人であれば、彼の生きた時代について全く無知ということはおそらく無い(何しろ、リチュード3世とかヘンリー6世とか歴史ネタを扱った作品があるのだから)だろうから、エリザベス1世を取り巻く当時のイングランド事情は承知の上だろうから、鑑賞に問題ないと思う。
<<時代背景>>
・現在のイギリス(UK)は、北アイルランド・スコットランド・ウェールズ・イングランドを集合させたものだが、作中の時代はまだスコットランドは独立した国だった
・エリザベスが「アイルランドの女王」も名乗っているのはアイルランドは既にイングランドに併合されているから
・エリザベス1世が跡継ぎを残さなかったため、次の代は隣のスコットランドの王様を連れてきて即位させた
・ちなみにそのスコットランド王ジェームズの母はイングランド亡命時にイングランド王位を狙ったため、エリザベスが幽閉して処刑させた
・このあとのジェームズの運命はお察しください。
歴史ものなので、誰がどう死ぬかはあらかじめ決まっている。
主要登場人物たちは、名前と顔見せの時点でネタバしているも同然だ。にもかかわらず歴史映画が面白いのは、決められた結末に向かってどのように生き、どう考えるかという過程が、作品によって毎回異なるからだ。
ただ単に死ぬにしても、その死がどのようなものであったかは、過程次第である。
シェイクスピア(本物)の死は、悲しげに描かれていたが、私にはむしろ栄光の死に見えた。
「言葉だけが私の遺産である」と彼は言うが、その言葉の遺産は金銭に換算できないほどの価値を持っていることを、たとえ作者として名を残すことは許されなかったにしろ、四百年を経た今も生き続け、賞賛されていることを知っているからだ。平凡な作家は百年の時すら越えられない。時代を越えて言葉を伝えられる者はほんの一握りなのである。
私はシェイクスピアの作品は好きではない、が、もし彼と同じ時代に生きていて、その作品が公開されるたびに人々が熱狂するのを見ていたら、おそらくベンと同じ気持ちになったと思う。決して越えられない不可能な存在、才能に嫉妬しつつも「その言葉を裏切れず」、自分の書くものが及ばないと知って虚しく感じ、…それでもペンを置くことが出来ない。
だからクライマックスシーンの彼は自分自身の投影となる。
一度解き放たれた言葉は決して死なないということを、彼も私も知っている。
時を越えて語り続ける彼らの言葉に何かを感じることが出来る者は、きっと幸せなのだろう。
*****
久々にDVD出たら買おうかなーと思う作品でした。
http://shakespeare-movie.com/
まぁとにかくコレはオススメ。例によって見る人を選びそうな作品だけどね。
======== 以下ネタバレ自重気味の感想 ============
映画を見てゾクリとしたのは、久しぶりのことだ。
あまりプッシュされておらず、上映館も少ない映画だが、そしてまた予告編が非常につまらない出来だったのだが、にも関わらず見に行ったのには理由がある。予告編の中で、女性の登場人物が「なぜ書くの?」とシェイクスピア(本物のほう)に聞くのである。
「なぜ書くの?」
自分の場合で言おう。ペンを持たなければ死ぬ人種だから、と言うほかない。パソコンがなければメモ帳に書く。長い会議中に疲れてくると書類の端っこがメモ書きで埋まっている。詩女神ミューズは滅多に降りてこない。教養もイマイチ。言葉遣いは最悪。でも書くのが好き。
そんな人種にとって、映画の中の登場人物は他人ではない。”誰もシェイクスピアにはなれない”という映画の中の言葉の通り、我々平凡なる者たちはシェイクスピアにはなれない。自分自身は、もう一人の主人公、ベン・ジョンソンに重ね合わされるのである。
これは、全てのペンを持つものたちが見るべき映画の1つだと思う。
日記でもラノベでも三文詩でもいい、生涯ペンを置くことの出来ない者なら、登場人物たちの気持ちがきっと分かる。映画の中で語られるセリフの一言、一言が自分自身の言葉となって跳ね返ってくる。
「たとえ私を裏切ろうとも 私の言葉は裏切れない」
…そうだよね。人間を裏切るのは簡単なんだけど、胸に響く言葉を振り払うのって難しいよね。
だからこそ、ベンの感じていた嫉妬や羨望、しかし最高の作品を捨てることは決して出来ない、抗えない気持ちがよく分かるんだよ。
ちなみに洋物映画の場合、「邦題が間違ってる(おかしい)」、「公式ストーリーが間違っている」、「登場人物紹介がデタラメ」など、配給会社の怠慢というほかない失敗が多々あるものだが、この映画の場合は 公式の予告編がおかしい という新境地を開いてくれた。そういう話じゃないだろ。ていうか時系列がむちゃくちゃだろ。ブツぎりにしたシーンをデタラメに繋ぎあわせた面白みに欠けるトレイラーである。どうしてこうなった。
べつにシェイクスピア(本物)は、エリザベス1世の心を変えるためにペンを持ったわけじゃないよ…。
********
ぶっちゃけて言うと、シェイクスピアの作品はあまり好きではない。
好きではないというか「合わない」のだと思う。喜劇は笑えない漫才、悲劇は暗すぎて鬱になる。ソネットは「こんなの女子高生にでもくれてやれ」的な感じで、ハイネと一緒に本棚に並べればいいと思う。
だが、だからといってシェイクスピアに価値がないわけではない。
つまらない作品なら、これほど長く、これほど多くの人々を惹きつけることはないだろう。テレビや各種メディアでゴリ推しされているアイドルやポップスターなんてものは百年と言わず十年もすれば綺麗サッパリ消えてなくなる。シェイクスピアは四百年、そう、大航海時代から四百年も受け継がれてきたのである。価値がないわけがない。
「石で作られた記念碑は、やがて忘れ去られるが、言葉によって作られた記念碑は、人々の記憶に残るだろう」
そして、シェイクスピアの戯曲は 演じられてはじめて命を吹き込まれる のだということを、映画のなかで読み上げられるセリフによって知った。
オックスフォード伯は民衆を動かす力を演劇に見出したが、作中のエリザベス1世の時代は、まさに「言葉が力を持ち、人々の心を操る」ことが出来た時代だった。セシル親子が恐れたのも無理は無い。だが、いずれイングランド王室は、その恐れた力を「禁止」するのではなく「擁護」することによって、政局を思い通りにしようとしていく。
スコットランド併合は彼女の死後百年経ったあとの出来事だが、次なるステージは、現代では作家として知られるが実際は職業ジャーナリストとして活躍していた、ダニエル・デュフォーやジョナサン・スウィフトらが、ペンの力で世論を動かそうと試みる時代なのである。
シェイクスピアは、まさに出るべき時代に出てきた作家なのだと思う。
しかし、その正体は、映画の冒頭の導入部分でも語られるとおり、はっきりしていない。「名義を貸した”シェイクスピア”と真の作者は別」という説もあるが、署名が六通りあることから「六人いたのでは?」という説もあったりする。そこに目をつけて、「シェイクスピア別人説」をドラマティックに仕立てあげたのが本作品。
そしてこの作品、時代考証や背景の作りこみがすごい。エリザベス女王にしろ、シェイクスピア(偽物)にしろ、ジェームズ王にしろ、肖像画でよく見るアレのまんま、イメージどおりの装いで出てくるので、それだけでも必見。そしてちょこっとだけしか出てこないけど帆船。大航海時代の帆船ですよー。アルマダの海戦からまだ二十年経ってませんし! 字幕版で見に行くと「銃を捨てろ!」のところ「マスケットを捨てろ」って言ってて、うはーこれがマスケットなんだあああ って感じで妙なところでワクテカしたり。
ただ、歴史ネタとしても結構濃いところを扱っているので、単にシェイクスピアの書いたものが好き、というだけの人だと王位継承問題についての微妙な部分は意味がわからないかも。
ディープにシェイクスピア好きの人であれば、彼の生きた時代について全く無知ということはおそらく無い(何しろ、リチュード3世とかヘンリー6世とか歴史ネタを扱った作品があるのだから)だろうから、エリザベス1世を取り巻く当時のイングランド事情は承知の上だろうから、鑑賞に問題ないと思う。
<<時代背景>>
・現在のイギリス(UK)は、北アイルランド・スコットランド・ウェールズ・イングランドを集合させたものだが、作中の時代はまだスコットランドは独立した国だった
・エリザベスが「アイルランドの女王」も名乗っているのはアイルランドは既にイングランドに併合されているから
・エリザベス1世が跡継ぎを残さなかったため、次の代は隣のスコットランドの王様を連れてきて即位させた
・ちなみにそのスコットランド王ジェームズの母はイングランド亡命時にイングランド王位を狙ったため、エリザベスが幽閉して処刑させた
・このあとのジェームズの運命はお察しください。
歴史ものなので、誰がどう死ぬかはあらかじめ決まっている。
主要登場人物たちは、名前と顔見せの時点でネタバしているも同然だ。にもかかわらず歴史映画が面白いのは、決められた結末に向かってどのように生き、どう考えるかという過程が、作品によって毎回異なるからだ。
ただ単に死ぬにしても、その死がどのようなものであったかは、過程次第である。
シェイクスピア(本物)の死は、悲しげに描かれていたが、私にはむしろ栄光の死に見えた。
「言葉だけが私の遺産である」と彼は言うが、その言葉の遺産は金銭に換算できないほどの価値を持っていることを、たとえ作者として名を残すことは許されなかったにしろ、四百年を経た今も生き続け、賞賛されていることを知っているからだ。平凡な作家は百年の時すら越えられない。時代を越えて言葉を伝えられる者はほんの一握りなのである。
私はシェイクスピアの作品は好きではない、が、もし彼と同じ時代に生きていて、その作品が公開されるたびに人々が熱狂するのを見ていたら、おそらくベンと同じ気持ちになったと思う。決して越えられない不可能な存在、才能に嫉妬しつつも「その言葉を裏切れず」、自分の書くものが及ばないと知って虚しく感じ、…それでもペンを置くことが出来ない。
だからクライマックスシーンの彼は自分自身の投影となる。
一度解き放たれた言葉は決して死なないということを、彼も私も知っている。
時を越えて語り続ける彼らの言葉に何かを感じることが出来る者は、きっと幸せなのだろう。
*****
久々にDVD出たら買おうかなーと思う作品でした。