緑の夢、砂漠の幻想 ―エジプト・トシュカ計画の破綻
ここのところ、エジプト情勢が騒がしい。カイロの中心部タハリール広場は連日の暴動で死者も出ている。
しかしそんな中、私が思い出すのはナイル上流のアスワンのことだった。
ごみごみしたカイロの町並みより、アスワンの水辺のほうが好きだ。
そこはアレキサンドリアほど開けておらず、国際色も豊かではない。昔ながらの保守的な田舎くささと人の良さ、窓を開ければ暑くからりとした砂漠の風がいつも砂を運んでくる。そんな町。
三角帆のファルーカがゆったりと浮かぶ水辺には、ほんのちょっぴりの緑がそよぐ。ホテルの窓から見れば果てしない赤い砂漠と、ナイルの水がわだかまる谷間にへばりつく人間と町並み。人は水がなくては暮らしてはいけない。はるか何千年も昔から、人々はナイルの川縁に暮らしてきた。
しかしその河は、もう古代のように水位を上下させない。
下流の町を黒々と浸すことも、季節によって畑を潤すこともしない。
アスワン・ダムが作られ、さらにアスワン・ハイ・ダムが出来て河の流れは上流でせき止められた。そして、その流れは、人工的に向きを変えられて、一部が砂漠へと注ぎこむようになったのである。
トシュカの話をしよう。
「トシュカ計画」とは、エジプトで1997年に始まった砂漠緑化のための国家事業である。
現代のファラオたるムバラク前首相が政府の威信をかけて始めたもので、アスワン・ハイ・ダムによって多くの土地が水没するかわりに、ダムの水を使って新たに砂漠を緑化させ、開墾しようという野心に満ちた計画だった。日本も多くのODAを提供している。
参考:外務省ページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/seisaku/enjyo/egypt._h.html
画像は八千代エンジニヤリングのレポートより
http://www.ecfa.or.jp/japanese/act-pf_jka/H18/renkei/yachiyo_egypt.pdf
「トシュカ」はもともと地名として存在したわけではない。
水没したヌビア人の土地の代わりを作るという意図から、ヌビアの言葉を使い、香る花ガビーラを意味する「トュシュ」に、場所を意味する「カー」を繋ぎあわせ、何もなかった砂漠の一画に「香る花の地」=トシュカ、と名付けたのである。
せき止めたナイルの水を使い、サハラの一画を緑化して、ダムに故郷を沈められた人々を救済する。あるいは、雇用を創出し、人口過密な都市部からの移住を促する――。
まるで夢物語だ。実現出来ていればエジプトは農業大国として繁栄を築けたかもしれない。
だが夢は夢のまま終わってしまおうとしている。
そもそもの原因は何だったのか。
まず一つは、国際的な援助を受けていながらも、エジプト自身が当初の計画通りに設備を整えられなかったことにある。ダムから水を引き込む設備はエジプトが作り、土地は分譲して外資系企業を含む様々な企業に売却する。一時期はアラブの石油王が広大な土地を所有していたこともあった。
しかし、ダムから水を引き込む作業の遅れから、土地の分譲が思うように進まず、今も大半が荒地のまま手付かずで残されている。
そしてもう一つ、これが最大の原因と思われるが、そもそもの計画が無茶だった。
開梱する土地の気候条件や土壌を考慮しておらず、農地に変えるためにかかるコストが見積もり以上にかかってしまった。また、水の蒸発しやすい熱い気候で農業をするには大量の水が必要で、トシュカを潤すためにはアスワン・ハイ・ダムの圧倒的な貯水量をしても足りなかったというのがある。
要するに、計画が始まる前から批判されていた意見が、だいたいアタリだったわけだ。
ファラオの無茶な思いつきで農民がコキ使われるのは、何も今に始まったことではない。トトメス4世はスフィンクスを掘り出す夢を見たが、ムバラクは砂漠を緑にする夢を見た。その違いだけである。
今もトシュカには、若干の農園がある、という。
しかし当初政府が想定したように、そこに街ができることはなく、定住者はいない。出稼ぎの労働者が一定期間やってきて、畑を耕し、また去ってゆくだけだ。
砂漠の神セトの領域は頑として人を拒み、ナイルの神ハピの手など意にも介さないのだ。
ずっとむかし、この計画の話を読んで、いつかサハラを緑に出来るが来るのだろうかと夢を見たことがある。浅はかな子供の頃のことだ。実現性など考えずに、想像力だけで世界を考えた。そして小説を書いた。
それを当時の担任がいたく気に入ってしまったので、卒業した学校の文集には、今見ると思わず笑ってしまうような夢物語の小説が載っている。
もっとも、砂漠の緑化に成功した事例も世界には存在する。
あるいは何時の日か、別の方法で、エジプトの民はセトの領域に踏み込むかもしれない。何時か、ずっと未来に。
しかしそんな中、私が思い出すのはナイル上流のアスワンのことだった。
ごみごみしたカイロの町並みより、アスワンの水辺のほうが好きだ。
そこはアレキサンドリアほど開けておらず、国際色も豊かではない。昔ながらの保守的な田舎くささと人の良さ、窓を開ければ暑くからりとした砂漠の風がいつも砂を運んでくる。そんな町。
三角帆のファルーカがゆったりと浮かぶ水辺には、ほんのちょっぴりの緑がそよぐ。ホテルの窓から見れば果てしない赤い砂漠と、ナイルの水がわだかまる谷間にへばりつく人間と町並み。人は水がなくては暮らしてはいけない。はるか何千年も昔から、人々はナイルの川縁に暮らしてきた。
しかしその河は、もう古代のように水位を上下させない。
下流の町を黒々と浸すことも、季節によって畑を潤すこともしない。
アスワン・ダムが作られ、さらにアスワン・ハイ・ダムが出来て河の流れは上流でせき止められた。そして、その流れは、人工的に向きを変えられて、一部が砂漠へと注ぎこむようになったのである。
トシュカの話をしよう。
「トシュカ計画」とは、エジプトで1997年に始まった砂漠緑化のための国家事業である。
現代のファラオたるムバラク前首相が政府の威信をかけて始めたもので、アスワン・ハイ・ダムによって多くの土地が水没するかわりに、ダムの水を使って新たに砂漠を緑化させ、開墾しようという野心に満ちた計画だった。日本も多くのODAを提供している。
参考:外務省ページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/seisaku/enjyo/egypt._h.html
画像は八千代エンジニヤリングのレポートより
http://www.ecfa.or.jp/japanese/act-pf_jka/H18/renkei/yachiyo_egypt.pdf
「トシュカ」はもともと地名として存在したわけではない。
水没したヌビア人の土地の代わりを作るという意図から、ヌビアの言葉を使い、香る花ガビーラを意味する「トュシュ」に、場所を意味する「カー」を繋ぎあわせ、何もなかった砂漠の一画に「香る花の地」=トシュカ、と名付けたのである。
せき止めたナイルの水を使い、サハラの一画を緑化して、ダムに故郷を沈められた人々を救済する。あるいは、雇用を創出し、人口過密な都市部からの移住を促する――。
まるで夢物語だ。実現出来ていればエジプトは農業大国として繁栄を築けたかもしれない。
だが夢は夢のまま終わってしまおうとしている。
そもそもの原因は何だったのか。
まず一つは、国際的な援助を受けていながらも、エジプト自身が当初の計画通りに設備を整えられなかったことにある。ダムから水を引き込む設備はエジプトが作り、土地は分譲して外資系企業を含む様々な企業に売却する。一時期はアラブの石油王が広大な土地を所有していたこともあった。
しかし、ダムから水を引き込む作業の遅れから、土地の分譲が思うように進まず、今も大半が荒地のまま手付かずで残されている。
そしてもう一つ、これが最大の原因と思われるが、そもそもの計画が無茶だった。
開梱する土地の気候条件や土壌を考慮しておらず、農地に変えるためにかかるコストが見積もり以上にかかってしまった。また、水の蒸発しやすい熱い気候で農業をするには大量の水が必要で、トシュカを潤すためにはアスワン・ハイ・ダムの圧倒的な貯水量をしても足りなかったというのがある。
要するに、計画が始まる前から批判されていた意見が、だいたいアタリだったわけだ。
ファラオの無茶な思いつきで農民がコキ使われるのは、何も今に始まったことではない。トトメス4世はスフィンクスを掘り出す夢を見たが、ムバラクは砂漠を緑にする夢を見た。その違いだけである。
今もトシュカには、若干の農園がある、という。
しかし当初政府が想定したように、そこに街ができることはなく、定住者はいない。出稼ぎの労働者が一定期間やってきて、畑を耕し、また去ってゆくだけだ。
砂漠の神セトの領域は頑として人を拒み、ナイルの神ハピの手など意にも介さないのだ。
ずっとむかし、この計画の話を読んで、いつかサハラを緑に出来るが来るのだろうかと夢を見たことがある。浅はかな子供の頃のことだ。実現性など考えずに、想像力だけで世界を考えた。そして小説を書いた。
それを当時の担任がいたく気に入ってしまったので、卒業した学校の文集には、今見ると思わず笑ってしまうような夢物語の小説が載っている。
もっとも、砂漠の緑化に成功した事例も世界には存在する。
あるいは何時の日か、別の方法で、エジプトの民はセトの領域に踏み込むかもしれない。何時か、ずっと未来に。