宗教とSonyを考える。五木 寛之「仏教のこころ」
タイトルから何か不穏な空気を嗅ぎ取った人には残念なお知らせですが、ただの読書感想文です。
長時間電車に乗らなきゃならん用事があり、暇つぶし用に適当に手に取ったらこの本だった。五木先生は相変わらず良いツッコミ筆をお持ちです。この方の本は淡々と端的にモノを述べるのでわかりやすく、何か一つは「へえ」と思わされるところがあるので、脳をアイドル状態のまま保ちたい時はオヌヌメ。
で、この本で一番読むべきところは個人的に「うさんくささは宗教の生命」というあたりだと思うんです。
本来宗教とは反社会的な存在であり、尊敬されるお坊さんなんていないほうがいい。
「お釈迦様だって、女房と子供を捨ててお城を出奔して、あれで一旗揚げて帰ってきたからいいようなものの。」とバッサリ言ってくれちゃうのは笑った。ですよね、しかも子供の名前「ラーフラ」だもんね。俗世の人間だったらこんなひどい世帯主はいねーわ。だいたいどこの宗教も、名前の残ってる熱心な宗教人は、一人の人として見たとき「コイツには絶対近寄りたくない」ってレベルで何処かおかしい。
もうね、「宗教人はうさんくさいのが本質だ」ってね、政治に口出ししてくる瀬戸内ナントカさんに是非にも言ってやってほしいですよ。四国の面汚しだし。なにが脱原発ですか。そんな活動いらんよ。あなたの仕事はそれじゃない。そっち方面でうさんくささ強調されても困る。
あと、日本人は家庭に仏壇や神棚を持っている人が多くて、ご利益のあるなしに関わらず神様や仏様、お地蔵様なんかに敬意を払っている。日々の暮らしの中で祈りと信仰を体現しているわけで、その点、日曜だけ着飾って教会に行けばそれでいい「パートタイム・レリジョン」なクリスチャンよりマジメに宗教やってるんじゃないの? っていう指摘もなるほどと思った。押入れ整理中に出てきた古いお守りをゴミに出しづらいっていう感覚は、分かる(笑) 無宗教っていいながら信仰心バリバリやろ日本人。ただ信仰する相手が目に見えないっていうだけかと。
で、ここからが本題。
本の中で、弘法大師が中国に密教を学びにいった時の話が書かれていた。中国に数年しか滞在していなかったのに密教の秘儀をマスターし帰国する。うちは真言宗なので、宗教上これは「お大師さんは超天才の選ばれた人だったので直ぐに認めてもらえた」ことになっているのだが、現実として単に天才だっただけじゃなく、既にある程度密教の基本情報を「知っていた」のではないかという話がある。
つまり正式なルートで密教が入ってきたのは空海が帰国した時なのだが、それまでも非正規ルートで密教の概念が日本に広まっていて、ある程度定着していたのではないか、ということ。空海は密教を学びに中国に言ったのではなく、密教の講師として布教する資格だけ取りにいったのではないか。
そう言われると、あーなるほどと思うところがあったりする。
四国のド田舎では弘法大師はキリストに匹敵する神扱いなので何でもかんでも「お大師さんは天才やったから」で済ませてるけど、中国でポンと学んでドンと持って帰って布教したって、民衆に受け入れる気持ちがなきゃ広まらないよね。空海だけじゃなく、民衆も既にある程度は密教の教義を受け入れて生活していたから、わりと簡単に布教できたんじゃないのかな。
「受け皿となる先行文化がなければ新しいものは根付かない。」
文化はトップダウンでは決して民衆の血肉とはならない。押し付けられた習慣や伝統には深みがない。もし仏教が、お上の号令でトップダウン式に日本に入ってきたんだったら、今、これほど日本という国に仏教が馴染んでいるはずがない。納得である。もちろん元から日本にあった神道との相性が良かったのもあるだろうが、民衆に受け入れる素地があった説には同意しておきたい。
さて、というわけでここからSonyの話である。
もう何年も前になるが、IT関連の仕事でSonyの子会社的なところに話を伺いに行ったことがある。その時に聞いて唖然とした言葉が、「われわれはかつてウォークマンによって人々に習慣を植え付けた。これからも新しい習慣を作る必要がある」というような内容だった。意図としては人々の暮らしを変革させるような大ヒット商品を作りたい、ということだったのだろうが、結果生まれてきたものは、奇抜だが使い勝手が悪く、開発者でさえ「自宅で使いたいとは思わない」というような売れない代物ばかりだった。
これは奢れるSonyは久しからずの道だよなあ… と当時から思っていたが、案の定である。
習慣は、トップダウン式にゼロから生み出されるものではない。
民衆が既に潜在的に持っている要求を汲み取って、それを習慣という形に変えさせることが必要なのだ。
ウォークマンが生み出された当時、人々はポータブルなラジカセを持ってピクニックに出かけていなかっただろうか。ドライブに出るときカーラジオをかけていなかっただろうか。「音楽を聴きながら移動する」という習慣が既にあり、「もっと手軽に好きな音楽を持ち歩きたい」という欲求があったからこそ、ウォークマンは爆発的に売れたのではなかったか。
Sonyだけではない、最近失敗している日本のメーカーは、だいたいこのへんをカン違いして、売れない商品ばかり開発しているように思う。
出先からウェブカメラで自宅の様子を見る習慣なんてない。
冷蔵庫についてるテレビを見るくらいなら早く料理を片付けて暖かい居間で見るに決まってる。
料理のレシピは手軽に共有出来ることが重要なのであって、台所用品についてる液晶画面で見られることなんて誰も求めていない。台所で見たければクックパッドから印刷して持っていく。
厳密には「失敗」までいかないかもしれないが、ニーズを読み違えているのは間違いない。僕らがほしいのはそんなものじゃない。モノを売るのに客の欲しいものが分からないのはモノづくり屋としてはだいぶ終わってると思う。技術力とかじゃない。技術は「つくりたいモノ」が決まってからでいい。どうしても作りたいものがあれば、技術はそれを目指して自然に高まっていく。
というわけで私は、 仏教の布教とヒット商品の開発は同じである ということが言いたかったのです。東に世を儚んでいる人あれば行って末法思想を説き、不況不作とあればええじゃないか踊りを広め、女犯の欲望から逃れられぬ男たちには弥勒菩薩と観音様を色気むんむんのフィギュアに仕立てて二次元の救済を与える。人々のニーズを汲むとはそういうことだ。
さぁニッポンのモノ作り職人たちよ、今こそ世界の開祖を目指せ。開祖を目指すんだ。
長時間電車に乗らなきゃならん用事があり、暇つぶし用に適当に手に取ったらこの本だった。五木先生は相変わらず良いツッコミ筆をお持ちです。この方の本は淡々と端的にモノを述べるのでわかりやすく、何か一つは「へえ」と思わされるところがあるので、脳をアイドル状態のまま保ちたい時はオヌヌメ。
で、この本で一番読むべきところは個人的に「うさんくささは宗教の生命」というあたりだと思うんです。
本来宗教とは反社会的な存在であり、尊敬されるお坊さんなんていないほうがいい。
「お釈迦様だって、女房と子供を捨ててお城を出奔して、あれで一旗揚げて帰ってきたからいいようなものの。」とバッサリ言ってくれちゃうのは笑った。ですよね、しかも子供の名前「ラーフラ」だもんね。俗世の人間だったらこんなひどい世帯主はいねーわ。だいたいどこの宗教も、名前の残ってる熱心な宗教人は、一人の人として見たとき「コイツには絶対近寄りたくない」ってレベルで何処かおかしい。
もうね、「宗教人はうさんくさいのが本質だ」ってね、政治に口出ししてくる瀬戸内ナントカさんに是非にも言ってやってほしいですよ。四国の面汚しだし。なにが脱原発ですか。そんな活動いらんよ。あなたの仕事はそれじゃない。そっち方面でうさんくささ強調されても困る。
あと、日本人は家庭に仏壇や神棚を持っている人が多くて、ご利益のあるなしに関わらず神様や仏様、お地蔵様なんかに敬意を払っている。日々の暮らしの中で祈りと信仰を体現しているわけで、その点、日曜だけ着飾って教会に行けばそれでいい「パートタイム・レリジョン」なクリスチャンよりマジメに宗教やってるんじゃないの? っていう指摘もなるほどと思った。押入れ整理中に出てきた古いお守りをゴミに出しづらいっていう感覚は、分かる(笑) 無宗教っていいながら信仰心バリバリやろ日本人。ただ信仰する相手が目に見えないっていうだけかと。
で、ここからが本題。
本の中で、弘法大師が中国に密教を学びにいった時の話が書かれていた。中国に数年しか滞在していなかったのに密教の秘儀をマスターし帰国する。うちは真言宗なので、宗教上これは「お大師さんは超天才の選ばれた人だったので直ぐに認めてもらえた」ことになっているのだが、現実として単に天才だっただけじゃなく、既にある程度密教の基本情報を「知っていた」のではないかという話がある。
つまり正式なルートで密教が入ってきたのは空海が帰国した時なのだが、それまでも非正規ルートで密教の概念が日本に広まっていて、ある程度定着していたのではないか、ということ。空海は密教を学びに中国に言ったのではなく、密教の講師として布教する資格だけ取りにいったのではないか。
そう言われると、あーなるほどと思うところがあったりする。
四国のド田舎では弘法大師はキリストに匹敵する神扱いなので何でもかんでも「お大師さんは天才やったから」で済ませてるけど、中国でポンと学んでドンと持って帰って布教したって、民衆に受け入れる気持ちがなきゃ広まらないよね。空海だけじゃなく、民衆も既にある程度は密教の教義を受け入れて生活していたから、わりと簡単に布教できたんじゃないのかな。
「受け皿となる先行文化がなければ新しいものは根付かない。」
文化はトップダウンでは決して民衆の血肉とはならない。押し付けられた習慣や伝統には深みがない。もし仏教が、お上の号令でトップダウン式に日本に入ってきたんだったら、今、これほど日本という国に仏教が馴染んでいるはずがない。納得である。もちろん元から日本にあった神道との相性が良かったのもあるだろうが、民衆に受け入れる素地があった説には同意しておきたい。
さて、というわけでここからSonyの話である。
もう何年も前になるが、IT関連の仕事でSonyの子会社的なところに話を伺いに行ったことがある。その時に聞いて唖然とした言葉が、「われわれはかつてウォークマンによって人々に習慣を植え付けた。これからも新しい習慣を作る必要がある」というような内容だった。意図としては人々の暮らしを変革させるような大ヒット商品を作りたい、ということだったのだろうが、結果生まれてきたものは、奇抜だが使い勝手が悪く、開発者でさえ「自宅で使いたいとは思わない」というような売れない代物ばかりだった。
これは奢れるSonyは久しからずの道だよなあ… と当時から思っていたが、案の定である。
習慣は、トップダウン式にゼロから生み出されるものではない。
民衆が既に潜在的に持っている要求を汲み取って、それを習慣という形に変えさせることが必要なのだ。
ウォークマンが生み出された当時、人々はポータブルなラジカセを持ってピクニックに出かけていなかっただろうか。ドライブに出るときカーラジオをかけていなかっただろうか。「音楽を聴きながら移動する」という習慣が既にあり、「もっと手軽に好きな音楽を持ち歩きたい」という欲求があったからこそ、ウォークマンは爆発的に売れたのではなかったか。
Sonyだけではない、最近失敗している日本のメーカーは、だいたいこのへんをカン違いして、売れない商品ばかり開発しているように思う。
出先からウェブカメラで自宅の様子を見る習慣なんてない。
冷蔵庫についてるテレビを見るくらいなら早く料理を片付けて暖かい居間で見るに決まってる。
料理のレシピは手軽に共有出来ることが重要なのであって、台所用品についてる液晶画面で見られることなんて誰も求めていない。台所で見たければクックパッドから印刷して持っていく。
厳密には「失敗」までいかないかもしれないが、ニーズを読み違えているのは間違いない。僕らがほしいのはそんなものじゃない。モノを売るのに客の欲しいものが分からないのはモノづくり屋としてはだいぶ終わってると思う。技術力とかじゃない。技術は「つくりたいモノ」が決まってからでいい。どうしても作りたいものがあれば、技術はそれを目指して自然に高まっていく。
というわけで私は、 仏教の布教とヒット商品の開発は同じである ということが言いたかったのです。東に世を儚んでいる人あれば行って末法思想を説き、不況不作とあればええじゃないか踊りを広め、女犯の欲望から逃れられぬ男たちには弥勒菩薩と観音様を色気むんむんのフィギュアに仕立てて二次元の救済を与える。人々のニーズを汲むとはそういうことだ。
さぁニッポンのモノ作り職人たちよ、今こそ世界の開祖を目指せ。開祖を目指すんだ。