古代エジプト人の通った道・西方砂漠と「ジェドエフラーの水の山」

ジェドエフラーの"水の山"  Djedefre´s water-mountain は、ググると取り合えずなんか画像は出てくる。
詳細記事とかは、とりあえずこのへん。

DISCOVERIES IN THE WESTERN DESERT of EGYPT
http://www.carlo-bergmann.de/Discoveries/discovery.htm


エジプトの西方砂漠、といっても「砂」漠でなく沙漠と言ったほうが正しそうな岩だらけの、いわゆる"礫沙漠"の部分なのだが、そこにある高さ30mほどの小さな小山のことを指す。

水もない砂漠の真ん中にあるのに何故「水の山」なのかというと、そこの岩にクフ王、ジェドエフラー王の名前とともに古代エジプトのヒエログリフで水という文字でもある波打つ形のシンボルが描かれていたから。そしてその後の調査で、かつてそのへんには小さなオアシスや井戸があり、定住していた人々もいたらしいことが分かっているらしい。


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水のシンボルこんなん。



場所はダクラ・オアシスの南西180kmくらい。

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うんまぁGoogleさんの衛星写真で見てても同じような小山が一杯あってどれだかイマイチ分かりませんが…。
つーかむしろよく探したなこんな山、って感じの。

んで、この「水の山」がなぜ重要かというと、古代の西方交易路上にあったことが分かっているからなんだ。
交易といっても、当時は貨幣はないし、物々交換というわけでもない。遠征と交易はほぼ等しく、シナイ半島にベドウィン蹴散らしながら銅を採掘にいったのと同じようなノリで、西方砂漠に顔料を求めて遠征隊が送られていた。クフ王の息子、ジェドエフラーがこのへんに遠征隊を送っていたのは、ピラミッド複合体を装飾するためだったんじゃないかと言われている。第四王朝の時代にはまだピラミッド内部に「ピラミッド・テキスト」は書かれていないので、おそらく河岸神殿の彩色とかに使ったんだと思う。

ダクラ・オアシスから、この「水の山」を越えて続く遠征隊ルートのライン上に、実はギルフ・ケビールの遺跡や、以前紹介した砂漠の中の岩絵なんかもある。

ただ、これは、王朝時代に新しく砂漠との関係が構築されたわけではない。

そもそも古代エジプトの初期王朝は、気候変動でサハラが緑地から砂漠へと乾燥していった時代に、川沿いへと移住してきた人々が開いたものだとされている。とくにナイル上流に住んでいた人たち、ナルメル王もそうだけど、彼らは元々はナイル西方の今は砂漠になってるあたりから川沿いに流入してきてるはずなので、むしろ西方砂漠は「祖先の地」「故郷」みたいなものだったんじゃないかと。

「水の山」付近の小さなオアシスに定住していた人たちは、砂漠化しても一部残ったオアシスに居残った、かつての同胞で、ナイル川沿いに移住した人々との繋がりは緩く残されたままだったのだろう。

#なんかツアー会社のサイトだけど、ここの地図が分かりやすかった。
http://www.zarzora.com/Gilf%20Kebir%20&%20Djedefre%20Water%20Mountain.htm

この「水の山」の岩絵の中には、水のシンボルのように王朝時代のものもあるけれど、よく見ると王朝時代以前の、ギルフ・ケビールと同じくらい古い時代の狩猟をしているような絵や、アフリカ奥地の岩絵に登場するようなシンボルも混じっているという。ただし、まだ見つかっていない岩絵も沢山ある(何しろ砂漠は広い)と思われることや、研究報告も十分まとめられているとは言えないことから、周辺との繋がりは今のところハッキリとはしていない。「多分王朝が出来る以前からずっとあったルートなんだろうなー」くらいしか分からないという。



ちなみに、古王国時代にはまだラクダはエジプトに入ってきていないのでロバで砂漠を旅していたことになる。ロバの背中に水がめを積んで。なかなか大変な旅だ。砂漠の遠征ルート上からは、その遠征隊の水がめが沢山見つかっている。

あと、ツタンカーメンの胸飾りで有名になったリビアングラスのとれる場所は、この遠征ルート上からは外れているが、もしかしたら同じように遠征隊が組まれてロバでオアシスを辿りながら採りにいってたのかもしれない。




エジプトは、ナイル川沿いはけっこう発掘されているんだけど、西方砂漠はほとんど手つかずで、シーワ・オアシスやダクラ・オアシスのような大きめのオアシス周辺しか発掘されてない。案外、こういう砂漠の中に大発見が隠されているのかもしれない。

砂漠の中、そこは最後のフロンティア。

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