ナショジオの「日本のエクスプローラー」で紹介されていた人の本を読んでみた

本編の冒険記には特に惹かれるところもなく、むしろドン引きしながら読んでいた。冒険記じゃなくて半分以上「遭難記」、しかもおこるべくして起こった遭難の話である。

この本を読んで冒険に憧れて、同じ事をするのは絶対にやめていただきたい。つーか自己責任論の強い今のご時勢、これ遭難でもしたら仲間も含めてむちゃくちゃバッシングされた挙句未来永劫吊るし上げ間違いなし。著者が死ななかったのは単なる運である。





普段読まないジャンルの本を、そもそもなんで手に取ったかというと、ナショジオ別冊の「日本のエクスプローラー」で紹介されていたからだ。「探検家 角幡 唯介」。紹介記事の写真の写真だけだといい顔してるので手にとってみた次第。本を書いたときはただの無謀な若者で、それからちょっとマシになったということかもしれない…。


元々、私は探検家という職業はあまり好きでは無い。というのもテレビや雑誌で持ち上げられるそのテの人々は、某プロ下山家も含め、ユーチューバーやニコ生主をこじらせたような鬱陶しい人が多いからだ。

が、数はとても少なくても、本物の冒険家、探検家は存在する。そういう人たちは、やっぱり顔つきが違うんである。
この人はどうだか写真だけだとちょっと分からなかった。


…読んでみた結論として、本編の探検部分はそこまで面白くはなく、残念ながらその段階ではただの無謀な人だったようだが、著者が正直者なので、ばか正直に書いてある付随部分については面白かった。



まず一つ、
早稲田の探検部員がなんでよく死ぬのかが分かった。

早稲田の探検部といえば、在学者も卒業者も含めて、やたら死人が出ているイメージだったが、間違ってなかった。
この著者もそうだけど、無謀な旅行でも誰も止めないんだな…と。ほんと「自己責任」なんだね…。

そして探検部に付随する話で、「大学七年生八年生がゴロゴロいた」とかいう話、著者自身が「大学を六年かけて卒業した」という話も、ああやっぱそうなんだー と。

早稲田を四年で卒業するのは三流、留年二流、中退一流などと今でも言われているが、伝説は本当だったようだ。何をするでもなく部室でゴロゴロしながらタバコ吸ってる、なんてのは、あまり想像が付かない。それでも「大学名」と「何かやりきった感」だけで就職していけるというから、そういう世界もあるみたいなんだな…。

大学卒業後、著者が就職した先は、朝日新聞。
「大した仕事もしてなくてもいい給料がもらえた」と、著者はものすごく正直に書いている。ああ…やっぱお給料高いんスね… と思いながら読んでいくと、給料がいいからと夜な夜な遊び歩く生活に飽きて、これでいいのかと思い始め再び冒険の旅へと戻っていった、と続く。「お金より生きがい」という主張であるが、生活費を稼ぐことに精一杯だろう多くの人から見れば石を投げつけられそうな人生だ(笑)

そして大学時代に踏破しそこねたツァンポー峡谷へと向かうのであるが、ツァンポーはチベットにある。初回の冒険が2002年、二回目は2009年。二回目は、ラサ暴動の影響で「以前より外国人の規制が厳しくなっていた」という。ラサまでは簡単にいけるが、そこから先は賄賂を使っても入り込めず、非合法な方法でしか進めない。住民が携帯を持っていて通報される危険もあるなどと書かれている。

自分が正規ルート以外でツァンポーに入り込んだこと、中国政府のチベット監視までバラしているわけだから、それ書いちゃっていいのか(笑) と思わずツッコみたくなる。

まあこんな感じでとても正直に書いてあって、自分の失敗や経験値不足の点を誤魔化すこともしない。
なぜ探検家になってしまったのだ。むしろジャーナリストとしてその特性を生かすべきだったんじゃないのかと思ってしまうが、後の祭りである。



この本も、探検記ではなく「チベット潜入記」として書いたほうが良かったなと思う。何しろ、一番面白かったのがチベットでのホームステイ体験部分なのだ。
探検している本編は、前述したようにただの「遭難記録」で、しかも食料の計算はガバガバ、おそらく装備も不十分で片っ端からツッコみたくなる。若さによる体力と運だけで生き残っている一番あかんタイプの行動をしている。プロ下山家の人と大差ない。

あとツッコみたかったのは、「危険」を求めて探検に出かけるのは間違いだろうということ。未知なる世界を求めて、誰も見たことのない風景を見てみたくて好奇心から冒険するのなら分かる。単にスリルを求めて冒険して、それを他人に見せ付けるならそれは例えば暴走族や、爆弾を製造してユーチューブに上げるような人たちの行動原理と大して違わない。

危険なことがやりたい、凄いことをやったと言いたい、自分が生きていると実感したいという気持ちも分からなくはないが…それは概して独りよがりなもので、他人には理解出来ない。生きがいは自分にとって必要なものだが、他人には無価値なものだ。


"冒険"が世界を広げた時代は、前の世紀に、もう終わってしまった。
"探検家"は、今や小説上の登場人物と大した違いはない。
探険家をしています、と言ったら、「で、それって何の役に立つの?」と、お決まりの問いかけをされるだろう。社会的意義はほとんどない。この著者の目指したもの、目指している世界は、私には評価できないし、誰かが同じ事をしようとしていたら「やめとけ。」と言うだろう。

ただ、危険な行為に魅せられて、命を晒しながら生きることにしか価値を見出せない人がいることは知っている。過去においては、そうした人々がフロンティアを切り開いてきたのだということも。

探検家の大半はニセモノかもしれないが、ごくたまに本物がいる。もし本物になれたなら、その強烈な生き様は、時に人に強い印象を与えることが出来る。この人がそうなれるのかどうか、今はまだ分からない。




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なお山登りの場合は鉄則として「死ぬかもしれない」と思ったら登ってはいけない。
万全の準備をして登っても運が悪いと命を落とすことがあるから「仕方ない」ってなるのが山。プロはちょっとでもヤバいなと思ったら引き返す。万全じゃないのに突っ込んでやっぱダメでしたーってなる人はただのバカ。

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