講演会「カッパドキアの先史時代」に行ってみた
行ったのはコレ↓
カッパドキアの先史時代 ― アシュックル・ホユックと中央アナトリアの新石器文化―
http://aom-tokyo.com/event/150328.html
ちょうど黒曜石がマイブームだったので行ってみたっ。
黒曜石がとれるところは火山帯のあるところ。奇岩の風景で知られるカッパドキアはかつて火山活動の活発だったところなので、黒曜石のとれるところもいっぱいあるのです。
では今回の講演のサマリーをどうぞ。
**************
トルコは七つくらいの地域に分かれるが、その中でもカッパドキアは中央アナトリアに位置する。平均標高が1000くらいの高地だ。この地域には1万4千年くらい前から人間(ホモ・エレクトゥス)が住んでいたが、あまり発掘は進んでいない。
というのも、トルコの発掘調査はダムを作るので水没するなどの緊急的な発掘が多く、ダム建設地となる南東部に集中しているから。ウルス・ダムによって水没しようとしているハッサンケイフ・ホユック遺跡などもその一つ。(日本人が発掘しているところ)
そのせいもあって、中央アナトリアの遺跡はあまり知られておらず、南に位置する「肥沃な三日月地帯」やシリア、メソポタミア方面からの影響ばかりが取りざたされてきた。しかし一方的に文化を享受するばかりではなく、元々独自に発達していた文化も存在した。
今回の発掘ではその独自の文化に注目する。
**************
内容は、・・・うんまぁ、一方的に影響を受けたわけではない、という主張には納得できる、でも中心文化を生み出せなかったのだから、やっぱり「周辺文化」には違いないよねという感じ。農耕や牧畜の前段的な文化が元々あって、そこに中心地域から農耕や牧畜の技術が伝わったのですんなり吸収できたということのようで、独自にカッパドキアで開発された技術というのは今のところなさそうだ。
そのへんは日本の新石器時代の状況とよく似ている。縄文時代に既にイモなどの簡単な農耕は元々あって、そこに大陸から稲作が伝わったから適応が早かった・・・という話と一緒。縄文時代の日本人が既に農耕に着手していたからといって、文化の親子関係が変わるわけじゃないからね。(ただし黒曜石の利用技術については、原石の豊富だった日本のほうが先で、大陸方向へ逆に伝わっていったという仮説があったりする。)
ちなみに、今回の主題だったアッシュルホユックの位置はココ。南のほうにタウロス山脈とかあって、そのへんに黒曜石の産地がある。でもっと南に下っていくとシリアやレバントにたどり着くかんじ。
(今回の講演会はレジュメとかはなかったので、地図は全然別の資料からの抜粋)
アッシュル・ホユックは中央アナトリアでもかなり古い部類の遺跡になるようで、紀元前9000年ごろから定住のあとがあるという。幅300m、高さ16mくらいのかなりガッツリとした「テル」。川沿いのため、川の流れによって既にけずられてしまった場所もある。
※テルとは遺丘のこと。同じところに延々と人が住み続けることによって家の残骸や排泄物などが積み重なって丘を形成する。「テル」とか「ホユック」とかついてるところは、遺跡が丘状になってるんだと思いねぇ。ちなみに例外もあり、エジプトの「テル・エル・アマルナ」はテルになっていないのにテルをつけて呼ばれてしまった例。
講演会では年表が一瞬しか出てこなくて、遺跡の編年がよく分からなかったのだけど・・・
メモれた範囲だと
Level2 BC7750年以降
Level3,4 BC8350年~7750年あたり
かな? Level2が新石器時代だと思う、・・・たぶん・・・。
住居の復元図は、近くのコンヤにあるチャタル・ホユック遺跡のものとよく似ている。最初は丸型で地面を少し掘りこんだ竪穴式住居、そこから壁に日干し煉瓦を使い始め、住居が次第に四角く密集した形態になっていく。
入り口は地上になく、天井にはしごをかけて中に入るという形式の住居だったようだ。
で、ここで一つ疑問がある。
この家の中、台所部分に人の死体埋めてるんですよ。床下から骨が出てる。
60cm程度の穴で、むしろみたいなものに包んで埋めたらしいらしいのだが、密閉されたハコみたいな建物の床下に、たった60cmの穴でチョクに人間の死体埋めたら、まず間違いなく凄まじく匂います・・・・。
いや人間埋めたことはまだないですけども(笑) 大型の哺乳動物ためしに夏場に埋めてみるといいと思うっす。地面に染みできるっす。
アンデスでも同じように床下埋葬してるとこがあるんだけど、その場合は遺体をミイラ処理して布にギッチギチに包むか、泥で塗り固めて泥人形みたいにしている。なので、おそらくそれほど匂わなかったと思う。たいして標高も高くなくて、しかもカッパドキアのあの夏場のやたら暑い気候では、遺体の腐敗臭はそう簡単に抜けなかったと思うんだ。
オズバシャラン先生曰く、火で処理したような跡のある骨もあるとのことだったが、なんか天日干し的な処理でもしないと、あの住宅構造で床下埋葬はムリじゃないかと思う。そこだけもにゅっとしたので、今後の研究で誰か調査してくれないかな・・・。
あと利用していた資源について。
食物で食べていたものはエノキの実、野生のピスタチオやアーモンドが多く、小麦の利用は少ない。畑作が伝わってくる前は野生の木の実を多く利用していたという日本の縄文時代あたりと一緒の構図だ。
面白かったのがコンヤの遺跡ではオオカミの骨がたくさん出ているという話で、オオカミって食えるんだ?! みたいな気分になった。ウサギとかタカを食うのはまだしも・・・オオカミ・・・。
黒曜石の産地はすぐ近くにあり、簡単に利用できたようだ。他の地域との交易に利用していたかどうかは今のところ不明。
ただし時代が進むと(ここの年代がよく分からなかったのだが)、他地域からの石器が入ってきたり、レバントで見られる遺体をプラスター加工するといった埋葬方式が使われるようになったりするらしい。編年がよくわからんかったのでここらへん不明瞭だが、おそらくこのタイミングで農耕や牧畜が「肥沃な三日月地帯」から伝わってきて、元からあった文化に上書きされていくんだろうと思う。
まとめると、「中央アナトリアとメソポタミア方面の間接的な結びつきは、新石器時代末期にはもう始まっていた」ってところかな。ヒッタイト帝国に至る長い道のりの最初の一歩は意外と早かった。アッシリア商人だって、いきなり何もないとこにやってきたわけじゃない。
そういや人種的な話は全く出なかったなーと思ったけど、新石器時代だとまだ民族とかいう概念もないからいいのか。ハッティ人はいつからハッティ人になったんだろうなあ。。
*****
おまけ 中の人のカッパドキア記録
カッパドキアの先史時代 ― アシュックル・ホユックと中央アナトリアの新石器文化―
http://aom-tokyo.com/event/150328.html
ちょうど黒曜石がマイブームだったので行ってみたっ。
黒曜石がとれるところは火山帯のあるところ。奇岩の風景で知られるカッパドキアはかつて火山活動の活発だったところなので、黒曜石のとれるところもいっぱいあるのです。
では今回の講演のサマリーをどうぞ。
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トルコは七つくらいの地域に分かれるが、その中でもカッパドキアは中央アナトリアに位置する。平均標高が1000くらいの高地だ。この地域には1万4千年くらい前から人間(ホモ・エレクトゥス)が住んでいたが、あまり発掘は進んでいない。
というのも、トルコの発掘調査はダムを作るので水没するなどの緊急的な発掘が多く、ダム建設地となる南東部に集中しているから。ウルス・ダムによって水没しようとしているハッサンケイフ・ホユック遺跡などもその一つ。(日本人が発掘しているところ)
そのせいもあって、中央アナトリアの遺跡はあまり知られておらず、南に位置する「肥沃な三日月地帯」やシリア、メソポタミア方面からの影響ばかりが取りざたされてきた。しかし一方的に文化を享受するばかりではなく、元々独自に発達していた文化も存在した。
今回の発掘ではその独自の文化に注目する。
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内容は、・・・うんまぁ、一方的に影響を受けたわけではない、という主張には納得できる、でも中心文化を生み出せなかったのだから、やっぱり「周辺文化」には違いないよねという感じ。農耕や牧畜の前段的な文化が元々あって、そこに中心地域から農耕や牧畜の技術が伝わったのですんなり吸収できたということのようで、独自にカッパドキアで開発された技術というのは今のところなさそうだ。
そのへんは日本の新石器時代の状況とよく似ている。縄文時代に既にイモなどの簡単な農耕は元々あって、そこに大陸から稲作が伝わったから適応が早かった・・・という話と一緒。縄文時代の日本人が既に農耕に着手していたからといって、文化の親子関係が変わるわけじゃないからね。(ただし黒曜石の利用技術については、原石の豊富だった日本のほうが先で、大陸方向へ逆に伝わっていったという仮説があったりする。)
ちなみに、今回の主題だったアッシュルホユックの位置はココ。南のほうにタウロス山脈とかあって、そのへんに黒曜石の産地がある。でもっと南に下っていくとシリアやレバントにたどり着くかんじ。
(今回の講演会はレジュメとかはなかったので、地図は全然別の資料からの抜粋)
アッシュル・ホユックは中央アナトリアでもかなり古い部類の遺跡になるようで、紀元前9000年ごろから定住のあとがあるという。幅300m、高さ16mくらいのかなりガッツリとした「テル」。川沿いのため、川の流れによって既にけずられてしまった場所もある。
※テルとは遺丘のこと。同じところに延々と人が住み続けることによって家の残骸や排泄物などが積み重なって丘を形成する。「テル」とか「ホユック」とかついてるところは、遺跡が丘状になってるんだと思いねぇ。ちなみに例外もあり、エジプトの「テル・エル・アマルナ」はテルになっていないのにテルをつけて呼ばれてしまった例。
講演会では年表が一瞬しか出てこなくて、遺跡の編年がよく分からなかったのだけど・・・
メモれた範囲だと
Level2 BC7750年以降
Level3,4 BC8350年~7750年あたり
かな? Level2が新石器時代だと思う、・・・たぶん・・・。
住居の復元図は、近くのコンヤにあるチャタル・ホユック遺跡のものとよく似ている。最初は丸型で地面を少し掘りこんだ竪穴式住居、そこから壁に日干し煉瓦を使い始め、住居が次第に四角く密集した形態になっていく。
入り口は地上になく、天井にはしごをかけて中に入るという形式の住居だったようだ。
で、ここで一つ疑問がある。
この家の中、台所部分に人の死体埋めてるんですよ。床下から骨が出てる。
60cm程度の穴で、むしろみたいなものに包んで埋めたらしいらしいのだが、密閉されたハコみたいな建物の床下に、たった60cmの穴でチョクに人間の死体埋めたら、まず間違いなく凄まじく匂います・・・・。
いや人間埋めたことはまだないですけども(笑) 大型の哺乳動物ためしに夏場に埋めてみるといいと思うっす。地面に染みできるっす。
アンデスでも同じように床下埋葬してるとこがあるんだけど、その場合は遺体をミイラ処理して布にギッチギチに包むか、泥で塗り固めて泥人形みたいにしている。なので、おそらくそれほど匂わなかったと思う。たいして標高も高くなくて、しかもカッパドキアのあの夏場のやたら暑い気候では、遺体の腐敗臭はそう簡単に抜けなかったと思うんだ。
オズバシャラン先生曰く、火で処理したような跡のある骨もあるとのことだったが、なんか天日干し的な処理でもしないと、あの住宅構造で床下埋葬はムリじゃないかと思う。そこだけもにゅっとしたので、今後の研究で誰か調査してくれないかな・・・。
あと利用していた資源について。
食物で食べていたものはエノキの実、野生のピスタチオやアーモンドが多く、小麦の利用は少ない。畑作が伝わってくる前は野生の木の実を多く利用していたという日本の縄文時代あたりと一緒の構図だ。
面白かったのがコンヤの遺跡ではオオカミの骨がたくさん出ているという話で、オオカミって食えるんだ?! みたいな気分になった。ウサギとかタカを食うのはまだしも・・・オオカミ・・・。
黒曜石の産地はすぐ近くにあり、簡単に利用できたようだ。他の地域との交易に利用していたかどうかは今のところ不明。
ただし時代が進むと(ここの年代がよく分からなかったのだが)、他地域からの石器が入ってきたり、レバントで見られる遺体をプラスター加工するといった埋葬方式が使われるようになったりするらしい。編年がよくわからんかったのでここらへん不明瞭だが、おそらくこのタイミングで農耕や牧畜が「肥沃な三日月地帯」から伝わってきて、元からあった文化に上書きされていくんだろうと思う。
まとめると、「中央アナトリアとメソポタミア方面の間接的な結びつきは、新石器時代末期にはもう始まっていた」ってところかな。ヒッタイト帝国に至る長い道のりの最初の一歩は意外と早かった。アッシリア商人だって、いきなり何もないとこにやってきたわけじゃない。
そういや人種的な話は全く出なかったなーと思ったけど、新石器時代だとまだ民族とかいう概念もないからいいのか。ハッティ人はいつからハッティ人になったんだろうなあ。。
*****
おまけ 中の人のカッパドキア記録

