復活祭と東地中海世界の神話学 「マグダラのマリア」の中にイシス女神の面影を見る
日本ではキリスト教由来のお祭りといえばクリスマスだが、キリスト教的には復活祭(イースター)も重要なお祭りに位置づけられている。というか教義でいえば復活のほうが重要で、地域によってはクリスマスは質素に、イースターは盛大に、というところもある。クリスマスの原型は冬至だが、イースターは春の訪れを告げる農民のお祭りから来ているから、というのも関係するかもしれない。
復活祭はもちろん「神の子」イエスが十字架にかけられたのち三日後に復活した、という信仰にちなむものだが、その部分の神話には少し不思議な点がある。復活したイエスに最初に出会うのはマグダラのマリアを含む女性たちということになっている。弟子たちではなく、である。原典をちょいちょいと捲ってみると、復活して最初に声をかけているのもマリアのようだ。
どうしてなのか、考察は色々あるだろう。
だが、これは東地中海世界のほかの神話から見ると至極「当然」の選択になっている。つまり、元になっていると思われる他の神話では、死せる神を復活させるのは伴侶たる女神の役目なのだ。
と、この話を進める前に、前提として以下の2点を挙げておきたい。
・キリスト教の聖典である「聖書」は一種の神話群である
・キリスト教神話群はオリエント世界の東地中海地方の神話群の伝統を継承するものである
旧約はもちろんだが、新約の内容だって、まさか史実と信じるわけにはいくまい。なにしろ人が湖の上を歩いたり、目が見えない人が見えなくなったり、病が勝手に癒えたりするんである。それに現実に死んだ人間が生き返るわけがない。聖書はいくばくかの事実を元に作られた「神話」の集まりだ。
そして、その神話の生成過程には、語り手たちの属していた、紀元後間もない時代の東地中海世界の神話が大いに紛れ込んでいる。
イエスの復活に類推できる神話は幾つかある。
・ウガリット神話でいうバアル
・エジプト神話でいうオシリス
・シュメール神話でいうドゥムジ(アッシリア語ではタンムーズ)
・ギリシャ神話のペルセポネー
いずれも豊穣の神であり、オシリスを除けば定期的に地下世界と地上世界を行き来する、つまり死と再生を繰り返す神である。
エジプト神話のオシリスは復活はしないが、「死者は冥界でオシリスと一体化し、夜明けに太陽神ラーとともに蘇る」といった他の神を絡めた神話で死と再生を表現している。
東地中海世界に広く存在するこうした「神の死からの復活」の神話は、イエスの復活と無関係であるとは思われない。復活を記録し「物語」として書いた筆記者はインテリだったはずである。実際にイエスが復活したかどうかは置いとくとして、その人物は近隣に存在する神話群を教養として知っていたと思う。
そもそもイエスが春先に復活せねばならないのは、元々の豊穣の神々の復活祭がその時期だったからと考えるのが自然だ。現在のイースターの祭りの機能はまさに、豊穣神たちが地上に再び現れ、豊穣の力が地に満ちることを祝ったかつての儀式である。
そして、イエスと弟子たちの暮らしていたガリラヤのすぐ北にあるウガリットの神話では、神を蘇らせるのは伴侶である女神の役割なのだ。
ウガリット神話でバアルを蘇らせるのは、妹であり妻であるアナト女神。
そしてウガリットと逆側の南にあるエジプトの神話では、オシリスの妻であり妹であるイシスがその役割を持つ。
もしイエスの復活神話がこれらの神話を原型として、あるいはオマージュとして、この言い方で満足出来なければ"物語として記録する上での語り口の原典として"利用されたのだとすれば、最初に墓を訪れるのは、死者に最も近い女たちだというのは自然な流れとなる。
安息日明けに嘆きの声をあげながら墓を訪れるマグダラのマリアや他の女たちの群れは、古代エジプトで葬列を先導した「泣き女」たちの群れになんとなく似ている。彼女たちの嘆きは、バアルを探してさすらうアナトの悲しみや、オシリスの遺体を前に泣くイシスとその妹ネフティスから来ているかもしれない。
これはイエスが実際に復活したかどうかと同じく、記録としての技法的な問題でもある。
イエスの復活を最初に目撃したのが実際に誰だったかは関係ない。信仰を広める上で、元からある土着の信仰によく似た形式、似たような神話を最初に広めたほうが、抵抗なくスムーズに受け入れられるというものだ。
今やっている豊穣の祭りを今すぐやめろといわれても人は嫌がるだけだ。その祭りで復活する神をイエスに置き換えるほうがはるかに労力が少ない。
だから、最初にキリスト教神話を作った人々は、意図してもとの神話に似せていったのではないか、と思うのである。歴史が連続するように、神話も連続して変化しながら語り継がれる。イエスがバアルでありオシリスであるように、マグダラのマリアと女の中には、きっとアナトやイシスの一部が溶け込んでいる。
…と、なんとなく考えてみる。
復活祭はもちろん「神の子」イエスが十字架にかけられたのち三日後に復活した、という信仰にちなむものだが、その部分の神話には少し不思議な点がある。復活したイエスに最初に出会うのはマグダラのマリアを含む女性たちということになっている。弟子たちではなく、である。原典をちょいちょいと捲ってみると、復活して最初に声をかけているのもマリアのようだ。
どうしてなのか、考察は色々あるだろう。
だが、これは東地中海世界のほかの神話から見ると至極「当然」の選択になっている。つまり、元になっていると思われる他の神話では、死せる神を復活させるのは伴侶たる女神の役目なのだ。
と、この話を進める前に、前提として以下の2点を挙げておきたい。
・キリスト教の聖典である「聖書」は一種の神話群である
・キリスト教神話群はオリエント世界の東地中海地方の神話群の伝統を継承するものである
旧約はもちろんだが、新約の内容だって、まさか史実と信じるわけにはいくまい。なにしろ人が湖の上を歩いたり、目が見えない人が見えなくなったり、病が勝手に癒えたりするんである。それに現実に死んだ人間が生き返るわけがない。聖書はいくばくかの事実を元に作られた「神話」の集まりだ。
そして、その神話の生成過程には、語り手たちの属していた、紀元後間もない時代の東地中海世界の神話が大いに紛れ込んでいる。
イエスの復活に類推できる神話は幾つかある。
・ウガリット神話でいうバアル
・エジプト神話でいうオシリス
・シュメール神話でいうドゥムジ(アッシリア語ではタンムーズ)
・ギリシャ神話のペルセポネー
いずれも豊穣の神であり、オシリスを除けば定期的に地下世界と地上世界を行き来する、つまり死と再生を繰り返す神である。
エジプト神話のオシリスは復活はしないが、「死者は冥界でオシリスと一体化し、夜明けに太陽神ラーとともに蘇る」といった他の神を絡めた神話で死と再生を表現している。
東地中海世界に広く存在するこうした「神の死からの復活」の神話は、イエスの復活と無関係であるとは思われない。復活を記録し「物語」として書いた筆記者はインテリだったはずである。実際にイエスが復活したかどうかは置いとくとして、その人物は近隣に存在する神話群を教養として知っていたと思う。
そもそもイエスが春先に復活せねばならないのは、元々の豊穣の神々の復活祭がその時期だったからと考えるのが自然だ。現在のイースターの祭りの機能はまさに、豊穣神たちが地上に再び現れ、豊穣の力が地に満ちることを祝ったかつての儀式である。
そして、イエスと弟子たちの暮らしていたガリラヤのすぐ北にあるウガリットの神話では、神を蘇らせるのは伴侶である女神の役割なのだ。
ウガリット神話でバアルを蘇らせるのは、妹であり妻であるアナト女神。
そしてウガリットと逆側の南にあるエジプトの神話では、オシリスの妻であり妹であるイシスがその役割を持つ。
もしイエスの復活神話がこれらの神話を原型として、あるいはオマージュとして、この言い方で満足出来なければ"物語として記録する上での語り口の原典として"利用されたのだとすれば、最初に墓を訪れるのは、死者に最も近い女たちだというのは自然な流れとなる。
安息日明けに嘆きの声をあげながら墓を訪れるマグダラのマリアや他の女たちの群れは、古代エジプトで葬列を先導した「泣き女」たちの群れになんとなく似ている。彼女たちの嘆きは、バアルを探してさすらうアナトの悲しみや、オシリスの遺体を前に泣くイシスとその妹ネフティスから来ているかもしれない。
これはイエスが実際に復活したかどうかと同じく、記録としての技法的な問題でもある。
イエスの復活を最初に目撃したのが実際に誰だったかは関係ない。信仰を広める上で、元からある土着の信仰によく似た形式、似たような神話を最初に広めたほうが、抵抗なくスムーズに受け入れられるというものだ。
今やっている豊穣の祭りを今すぐやめろといわれても人は嫌がるだけだ。その祭りで復活する神をイエスに置き換えるほうがはるかに労力が少ない。
だから、最初にキリスト教神話を作った人々は、意図してもとの神話に似せていったのではないか、と思うのである。歴史が連続するように、神話も連続して変化しながら語り継がれる。イエスがバアルでありオシリスであるように、マグダラのマリアと女の中には、きっとアナトやイシスの一部が溶け込んでいる。
…と、なんとなく考えてみる。