ユーゴスラビア内戦時期の貴重な証言集「解体ユーゴスラビア」
やっと読みたかった本が見つかったんだぜ。
こういうのが読みたかったんだ…。
著者はセルビアのベオグラードに住み、子育てをしながら大学に勤めていた作家。もちろん現地の言葉は喋れるし、インタビューする相手はご近所さんや親しい友人たち、町のスタンドの店主など。1991年初頭から開始される聞き取りは、ありふれた一般人の、ありふれた日常の中に"戦争"が入り込んでいくさまが生生しく描き出されている。
これが誰かにやって欲しかったこと。戦争中に記者が「やるべきだったのに、やらなかった」ことだ。
前のエントリで「ダメダメ」だと評価した「戦火のサラエボ100年史」と読み比ると違いがよく分かる。
こちらの本は、まず冒頭のユーゴスラヴィアの成り立ち部分からして要領を得ないし(典型的な、ほんとは理解できてないのに分かってるふりをして書く人の書き方…)、本人は英語しか喋れないのでインタビューはすべて通訳つき。おまけにインタビュー相手との信頼関係を築く手順も踏んでないから表面上の当たり障りの無い話だけ聞いて帰ってきている。だから、聞き取れてる内容が凄まじく薄くて、前者の本に比べるべくもない。
ボスニア紛争にはユダヤ人だって戦争に巻き込まれているし虐殺対象になってたし、アルバニア人やマケドニア人も無関係ではなかったのに、「「戦火のサラエボ100年史」のほうはそれを聞き手が分かってなくて、三民族の話ししかしてなかったしな…。
その状態で、なぜか最後には日本人のさきの大戦の戦争責任とか語り出すのだから、そりゃ半笑いにもなります。
二冊を並べると、なぜメディア関係者が一般人から乖離した感覚を持つ妙な"意識高い系"に流れちゃうのかとか何となく分かってきて面白いのだが、それは、また別の機会のネタに取っておくことにしよう。(笑)
本題の「解体ユーゴスラビア」は、ユーゴスラビア連邦が崩壊していくその瞬間、「ひとつの国」というまとまりの中に押し込められていた民族意識がじわじわと目覚め、幾つもの戦いが生み出されていく。ボスニア紛争も、コソボ紛争のその中の一つ。
実際には、「民族意識」は、人々に意識されないところで、戦争以前から既にあった。
ただ、「一つの国だから」「社会主義の国だから」という枠組みの中に抑圧されていた。抑圧されすぎていた。その反動としての暴発が、最初の衝突を生み出したのだ。抑圧された状態からとつぜん自由を与えられると、人は自由の意味を履き違える。自由には責任を伴うことを忘れて、無責任に何でもいい散らかし、書き散らかすようになってしまう。
そもそもの「民族自決」 (= 国と民族を一致させ、民族で政治を行うこと) という考え方に問題があったのは確かである。長年ひとつの国の中で暮らしてきた多数の民族。住んでいる場所と民族は一致しない。民族間の結婚で生まれた子供たちも多い。
セルビア人が民族ごとの独立に反対して連邦制の維持を支持したのは、セルビア人の住む地域がバラバラで、人数も多かったからだという。最初に独立を決めたクロアチアとスロベニアですら、それぞれの民族が多数を占めている地域が中心になっていたとはいえ、民族と国境線は一致していなかった。長年まじりあって暮らしてきた人々が、ある日からとつぜん別々の国としてやっていくのは無理があった。
ユーゴ連邦が二国の独立を認めないうちから、先走ってドイツが二国を承認したことも火に油を注ぐ結果となった。ドイツのあとからヨーロッパ連合(当時まだEC)もこれを承認するが、連邦側からすると「ヨーロッパとアメリカの思惑で国が分断された」と見えるのは当然だと思う。
ヨーロッパは、特にドイツは、ユーゴを解体したかったのだ。(ヨーロッパなんて、自分たちの利権のために戦争を始める筆頭みたいな国々の集まりですから。。先進国(笑))
1990年の選挙以降にユーゴスラヴィアで起こったことを、やや無理がある比喩ではあるが、日本でたとえてみる。
日本の沖縄が、知事選挙の結果をもって民意とし、突然独立を宣言したとする。それを即座に中国が承認する。他国が公的に認めてしまったら、沖縄は強気になって話し合いは頓挫するだろう。さらに(現実には在り得ないことだが)中国に続きEUも独立を承認したとしよう。沖縄の独立を思いとどまらせるにはどうするか。経済封鎖か、武力による実力行使か。
緊張が始まれば、沖縄に住んでいた本土人はみな引き上げざるを得なくなるだろう。戦時中だからと沖縄のテレビ局は本土の情報をシャットアウトする。本土と沖縄では別々の報道が成されるようになり、メディアによって憎しみが駆り立てられる。つい昨日まで同じ「日本人」だったものが、「沖縄人」と「本土人」とに別れていく…
現実に起こりうることかどうかはともかく、イメージは何となくつかめると思う。
民族ごとに国をわけて別々に暮らして行きたいが、独立した地域には別の民族も住んでいる。クロアチアとして独立してはみたけれど、地域によってはセルビア人が多い場所もある。どうするか。"追い出すか殺すか"である。クロアチア側ではセルビア人の残虐性に関する報道が繰り返され、隣人のセルビア人に対してまで不信感が芽生えているとなれば、「やられる前にやるしかない」と隣人同士で殺しあうことになるのもあり得るというわけだ。
「解体ユーゴスラビア」は戦争の始まった最初の年の話でしかないし、著者の住んでいる大都市ベオグラード
の住人から聞いた話が多いが、それでも隣人同士が敵対した例は幾つも語られている。家族の中でさえ対立が生まれたという話も出てくる。
結局、人間というのはたやすく争いに靡く生き物なのだ。
長年一緒に暮らしていた民族同士ですら、いとも簡単に憎悪をかきたてられて争いあうようになることがある。しかしそこには、「殺されたくないから戦うしかない」という悲痛な本能の声も見出すことが出来る。戦争なんて話し合いで解決できるだろ、とかナメたことを言ってる人たちには、ぜひ実際の「戦争前夜」の声を読んで考えていただきたい。
とりあえずあれだ。
ユーゴスラヴィアの内戦を調べていて、自分の中でひとつだけハッキリしたことがある。
Q. 世の中から戦争をなくすにはどうしたらいいですか
A. 大国様が戦争をけしかけるのを止めさせましょう
イギリスとかフランスとかドイツとかアメリカとかロシアとか中国とかな!
マジでこれじゃね?
最近起きた戦争、原因辿ってくとだいたいどっかの力持ってる国が勝手に「xxは悪だ」とか「独裁よくない」とか「民主化しろ」とか押し付けて、その結果gdgdになってるから。自分が正義だと信じてる勢力ほどクソだってことを再認識した。しかもそんな一方的な押し付け助長する欧米メディア様に追従しているのがわが国のメディア様です。うかうか流されてったらロクなことにならないのは、今さら言うまでもない。
最後に蛇足をひとつ。
この本に出てくる女性たちの何人かは、徴兵で息子や孫を取られようとしているか、既にとられている。「すべての母親は子供を戦場に送るべきではない、そうすれば戦争は終わる」と言う女性たちも出てくる。同じセリフを、町中の街頭演説で聞くこともある。
だが、それはあまりにも能天気なセリフだし、根本的に間違えていると私は思うのだ。
その言葉は、裏返せば「母親のしない子供は戦場に行っても仕方が無い」「誰も止めてくれない」ということを意味する。
既に戦場で親をなくした子供たちはどうすればいい?
子を守るために武器をとる親は?
ユーゴスラヴィアの内戦は、戦いを望んだ欧米によって開戦に導かれたともいえる。
そして実際に戦争を終わらせたのは、一方的にセルビアを悪と設定した"国際世論"に伴う動きだ。
戦争を早く終わらせたければ、相手を遥かに凌駕する力を持つか、絶対悪を設定して皆でその悪を叩くのが現実的かつ確実である。実は欧米メディアがしばしば使用しているのはそのテなのだが、たぶん、自称平和主義の人はそれは認められないだろうな。
(べつに"遥かに凌駕する力"は武器や戦力などでなくてもいいのだが。国民を束ねるカリスマのようなものであってもいいのだが、そういう人は今の世の中では大抵、独裁者扱いされて断罪される。)
こういうのが読みたかったんだ…。
著者はセルビアのベオグラードに住み、子育てをしながら大学に勤めていた作家。もちろん現地の言葉は喋れるし、インタビューする相手はご近所さんや親しい友人たち、町のスタンドの店主など。1991年初頭から開始される聞き取りは、ありふれた一般人の、ありふれた日常の中に"戦争"が入り込んでいくさまが生生しく描き出されている。
これが誰かにやって欲しかったこと。戦争中に記者が「やるべきだったのに、やらなかった」ことだ。
前のエントリで「ダメダメ」だと評価した「戦火のサラエボ100年史」と読み比ると違いがよく分かる。
こちらの本は、まず冒頭のユーゴスラヴィアの成り立ち部分からして要領を得ないし(典型的な、ほんとは理解できてないのに分かってるふりをして書く人の書き方…)、本人は英語しか喋れないのでインタビューはすべて通訳つき。おまけにインタビュー相手との信頼関係を築く手順も踏んでないから表面上の当たり障りの無い話だけ聞いて帰ってきている。だから、聞き取れてる内容が凄まじく薄くて、前者の本に比べるべくもない。
ボスニア紛争にはユダヤ人だって戦争に巻き込まれているし虐殺対象になってたし、アルバニア人やマケドニア人も無関係ではなかったのに、「「戦火のサラエボ100年史」のほうはそれを聞き手が分かってなくて、三民族の話ししかしてなかったしな…。
その状態で、なぜか最後には日本人のさきの大戦の戦争責任とか語り出すのだから、そりゃ半笑いにもなります。
二冊を並べると、なぜメディア関係者が一般人から乖離した感覚を持つ妙な"意識高い系"に流れちゃうのかとか何となく分かってきて面白いのだが、それは、また別の機会のネタに取っておくことにしよう。(笑)
本題の「解体ユーゴスラビア」は、ユーゴスラビア連邦が崩壊していくその瞬間、「ひとつの国」というまとまりの中に押し込められていた民族意識がじわじわと目覚め、幾つもの戦いが生み出されていく。ボスニア紛争も、コソボ紛争のその中の一つ。
実際には、「民族意識」は、人々に意識されないところで、戦争以前から既にあった。
ただ、「一つの国だから」「社会主義の国だから」という枠組みの中に抑圧されていた。抑圧されすぎていた。その反動としての暴発が、最初の衝突を生み出したのだ。抑圧された状態からとつぜん自由を与えられると、人は自由の意味を履き違える。自由には責任を伴うことを忘れて、無責任に何でもいい散らかし、書き散らかすようになってしまう。
そもそもの「民族自決」 (= 国と民族を一致させ、民族で政治を行うこと) という考え方に問題があったのは確かである。長年ひとつの国の中で暮らしてきた多数の民族。住んでいる場所と民族は一致しない。民族間の結婚で生まれた子供たちも多い。
セルビア人が民族ごとの独立に反対して連邦制の維持を支持したのは、セルビア人の住む地域がバラバラで、人数も多かったからだという。最初に独立を決めたクロアチアとスロベニアですら、それぞれの民族が多数を占めている地域が中心になっていたとはいえ、民族と国境線は一致していなかった。長年まじりあって暮らしてきた人々が、ある日からとつぜん別々の国としてやっていくのは無理があった。
ユーゴ連邦が二国の独立を認めないうちから、先走ってドイツが二国を承認したことも火に油を注ぐ結果となった。ドイツのあとからヨーロッパ連合(当時まだEC)もこれを承認するが、連邦側からすると「ヨーロッパとアメリカの思惑で国が分断された」と見えるのは当然だと思う。
ヨーロッパは、特にドイツは、ユーゴを解体したかったのだ。(ヨーロッパなんて、自分たちの利権のために戦争を始める筆頭みたいな国々の集まりですから。。先進国(笑))
1990年の選挙以降にユーゴスラヴィアで起こったことを、やや無理がある比喩ではあるが、日本でたとえてみる。
日本の沖縄が、知事選挙の結果をもって民意とし、突然独立を宣言したとする。それを即座に中国が承認する。他国が公的に認めてしまったら、沖縄は強気になって話し合いは頓挫するだろう。さらに(現実には在り得ないことだが)中国に続きEUも独立を承認したとしよう。沖縄の独立を思いとどまらせるにはどうするか。経済封鎖か、武力による実力行使か。
緊張が始まれば、沖縄に住んでいた本土人はみな引き上げざるを得なくなるだろう。戦時中だからと沖縄のテレビ局は本土の情報をシャットアウトする。本土と沖縄では別々の報道が成されるようになり、メディアによって憎しみが駆り立てられる。つい昨日まで同じ「日本人」だったものが、「沖縄人」と「本土人」とに別れていく…
現実に起こりうることかどうかはともかく、イメージは何となくつかめると思う。
民族ごとに国をわけて別々に暮らして行きたいが、独立した地域には別の民族も住んでいる。クロアチアとして独立してはみたけれど、地域によってはセルビア人が多い場所もある。どうするか。"追い出すか殺すか"である。クロアチア側ではセルビア人の残虐性に関する報道が繰り返され、隣人のセルビア人に対してまで不信感が芽生えているとなれば、「やられる前にやるしかない」と隣人同士で殺しあうことになるのもあり得るというわけだ。
「解体ユーゴスラビア」は戦争の始まった最初の年の話でしかないし、著者の住んでいる大都市ベオグラード
の住人から聞いた話が多いが、それでも隣人同士が敵対した例は幾つも語られている。家族の中でさえ対立が生まれたという話も出てくる。
結局、人間というのはたやすく争いに靡く生き物なのだ。
長年一緒に暮らしていた民族同士ですら、いとも簡単に憎悪をかきたてられて争いあうようになることがある。しかしそこには、「殺されたくないから戦うしかない」という悲痛な本能の声も見出すことが出来る。戦争なんて話し合いで解決できるだろ、とかナメたことを言ってる人たちには、ぜひ実際の「戦争前夜」の声を読んで考えていただきたい。
とりあえずあれだ。
ユーゴスラヴィアの内戦を調べていて、自分の中でひとつだけハッキリしたことがある。
Q. 世の中から戦争をなくすにはどうしたらいいですか
A. 大国様が戦争をけしかけるのを止めさせましょう
イギリスとかフランスとかドイツとかアメリカとかロシアとか中国とかな!
マジでこれじゃね?
最近起きた戦争、原因辿ってくとだいたいどっかの力持ってる国が勝手に「xxは悪だ」とか「独裁よくない」とか「民主化しろ」とか押し付けて、その結果gdgdになってるから。自分が正義だと信じてる勢力ほどクソだってことを再認識した。しかもそんな一方的な押し付け助長する欧米メディア様に追従しているのがわが国のメディア様です。うかうか流されてったらロクなことにならないのは、今さら言うまでもない。
最後に蛇足をひとつ。
この本に出てくる女性たちの何人かは、徴兵で息子や孫を取られようとしているか、既にとられている。「すべての母親は子供を戦場に送るべきではない、そうすれば戦争は終わる」と言う女性たちも出てくる。同じセリフを、町中の街頭演説で聞くこともある。
だが、それはあまりにも能天気なセリフだし、根本的に間違えていると私は思うのだ。
その言葉は、裏返せば「母親のしない子供は戦場に行っても仕方が無い」「誰も止めてくれない」ということを意味する。
既に戦場で親をなくした子供たちはどうすればいい?
子を守るために武器をとる親は?
ユーゴスラヴィアの内戦は、戦いを望んだ欧米によって開戦に導かれたともいえる。
そして実際に戦争を終わらせたのは、一方的にセルビアを悪と設定した"国際世論"に伴う動きだ。
戦争を早く終わらせたければ、相手を遥かに凌駕する力を持つか、絶対悪を設定して皆でその悪を叩くのが現実的かつ確実である。実は欧米メディアがしばしば使用しているのはそのテなのだが、たぶん、自称平和主義の人はそれは認められないだろうな。
(べつに"遥かに凌駕する力"は武器や戦力などでなくてもいいのだが。国民を束ねるカリスマのようなものであってもいいのだが、そういう人は今の世の中では大抵、独裁者扱いされて断罪される。)