この世には、心などというものは無いのだよ関口君。~当たり前に使われている不確かな言葉

「心」は実は存在しない、と言ったら多くの人がそんなばかなと反発するに違いない。
でも一部の脳科学の人とか心理学の人とかは「あーうん、まぁそうなんだけどさ…」って苦い顔してくれるに違いない(笑)

そう、「心」なるものは実は、あることになってるけど正確には存在しない、もっと言うと「何を心と呼べばいいのか定義づけできない」という、かなりアバウトなシロモノなのだ。


まず物理から考えてみよう。
心は物理的に存在するか? 答えはNOである。心は脳から生まれると多くの人が思っているが、脳というハードはイコール心ではない。脳の中をどれだけ探しても、心という物体は存在しない。

では現象としてはどうなのか。
脳の中を流れる血流や微弱な電気信号(パルス)は、どうやら心とは呼べないようだ。なぜなら、それらは意識を失っていても存在しうるものであるし、もし脳内の電気信号が心であるならば、脳を持つあらゆる存在はすべて(虫でさえも)心を持つことになるし、人の手で心をつくったり、自在にいじくったりできることにもなってしまう。

楽しいとか嬉しいとかいう感情が心なのか。
ではそもそも感情とは何か。
本人が何かを感じていることが感情であり、心であるというならば、何も感じていない時間は心が死んでいることになる。心なるものは在ったり無かったりするもののことなのか。
では在ると無いを決めるものは何か。

こうして考えていくと、最終的に行き着くのは、「心」とは概念である、という答えである。
つまり魂なんかと一緒で、「ある」ということになっている「何か」だ。あると信じればあることになるが、別に無くてもどうにかなる。魂の存在が証明出来ないように、心もまた、証明出来ない。存在することになっていて、誰もが何となくイメージしているが、具体的にどんなものなのかを誰も明確に答えることが出来ない。

しかし世の中的には「心理学」や「心のケア」のように、心があることを前提とした学問や医療が存在する。どうやっているのかというと――

 客観的に認識できる基準で"心"を定義し、その定義に従う

という方法だ。

つまり、世間一般に言われている「なんとなく」の「心」と、研究対象として「定義された」「心」とは別の言葉なのだ。


たとえば、社会心理学や認知心理学などでは、「心」を「外に出てきた行動」として定義する。
心とは感情のことだという認識だが、感情は人の内側で起こるものなので観測できないし証明も出来ない。よって、感情があれば行動に反映されるはずだという前提のもと、誰でも分かる、外に出てきた行動のみを心として取り扱う。

臨床心理学などでは逆に、本人が認識している感情を「心」として扱う場合もある。

研究の仕方や学派によって、「心」の定義は違う。これは宗派によって扱いや解釈の違う「魂」や「あの世」と同じようなものだ。とどのつまり「心」と「魂」は同レベルの実在性しか持っていない。


そんな、あるんだか無いんだか分からないものを基準に、この世は判断されている。

まるで心があることが人間の特権で、それが人間を人間たらしめているように言われるけれど、果たして「心」なるものが存在すると、本当に思っているのかい、関口君?

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