「人はなぜ花を愛でるのか」 同じテーマに取り組む各研究者の切り口の上手さに見る違いが面白い
「人はなぜ花を愛でるのか」という同じテーマに、複数の専門も経歴も違う研究者が挑む本。
元々第四章のエジプト/メソポタミアの部分が読みたくて買ってきたのだが、各研究者ごとの個性が出ていたのが面白かった。
結論から言うと、「上手い」人と「上手くない」人、テーマに対して「正面から取り込んで自分なりの結論に達している」人と「逃げを打って日記帳かよwwみたいな書き方をして何が何だか分からないうちに終わる」人、「脳内でこぢんまりと解決した」人と「資料を紐解いて新たに考えた」人がいる。
もうちょっとザックリ言ってしまうと、2chとかによくいる、知識だけはあるけど全然まとまってなくて何いってんのかワカンネーヨみたいなのがあるってこと。
ひとまとまりの文章としての体を成してなくて、これ論文も書けないんじゃない? って心配になる人もいて、残酷なことに各学者さんのストーリーテーリングの上手い下手が顕著に現われているのが非常に面白かった。ものすごく歪んだ見方ですけども(笑)
で、面白いので比べて欲しいのが第2章と第3章。
2章- 感情的で空想を多用する/根拠が薄いので反論に対して土台からひっくり返るタイプ
引用文献に海部陽介があって「あ、これあかんやつや」ってなる。
3章-データを多用し、より科学的な根拠を重視するタイプ
古参の先生からは理屈っぽいと怒られそうだがこっちが正解だと思う。
2章の先生の本は以前読んだことがあって、すごく知識は持ってるなぁ…と思ってたんだけど、でも、根本にある考え方が「ん?」って感じの方。その「ん?」と思ったのが、縄文文化について、想像と感情をもって理解しようとしていたところなのだ。
縄文人と現代人のメンタルが同じなわけがない。見ていた世界も異なるだろう。
なのに現代人の「心」をもって縄文人の生活を理解しようとするのは、ある意味「驕り」であり、根本的なすれ違いを生み出す原因になる。考古学に感情は必要ない、と言うと語弊があるが、自分の感情というフィルターだけを通して理解しようとしてはならない。それは、マヤの遺跡を初めて見たヨーロッパ人が「ローマのものだ」と解釈したのと同じ、根本的な勘違いに繋がる危険性を孕む。
その悪いクセを全面に押し出してしまったのが2章部分で、「古代人も現代人と同じメンタリティだったはずだ」という誤った前提から出発しているので、後に続く言論はすべて砂上の楼閣となる。「夢をふくらませながら」も、オカルティストの見る「夢」と同じく、全くの無意味である。
そこに鋭い突っ込みを入れているのが続く3章で、この新旧対決的な構成を評価したい。
お題となっているのはシャニダール洞窟の埋葬の花、ネアンデルタール人は死者に花を手向けたか? と言う話なのだが、「仮にネアンデルタール人が遺体の側に花を置いたことが事実であったとしても、その行動がなぜ死者を悼んだものだと言えるのか」と、ザックリ正面から切り込んでいる。
花の周りを飛ぶミチバチは花を愛でているわけじゃない。
ペットが花を見つめてたとしても花を美しいと思ってるわけじゃない。
花を愛でてるか愛でてないかとか決めてんの自分の思い込みだよね? 勝手に物語つけてるだけだよね? って、正論なんだけど言われたほうは絶対イラっとして反論するんだろうなーって内容を書いてあって、ニヨニヨしてしまった。もちろん私の見方は3章の先生のほうなのだが。
そもそも現生人類ですら、花に対する特別な感情を持ち始めたと確実な証拠が出てくるのは5000年くらい、頑張って遡っても精々が数万年。6万年前だと、ネアンデルタールどころか現生人類の祖先ですら花に特別な感情は抱かなかったんじゃないのか、というのがデータから見えてくる。まぁせやろな… としか言いようがない。
そももそ数万年以上前に遡る人類の祖先が、現代の我々と同じメンタリティであったなどとは信じられない。
ていうか全く異なる精神を持っていて、意思の疎通すら難しかったと考えるほうが自然だろう。その当たり前の前提を忘れてしまうと、出てきたものを現代人の感覚で判断してしまって、とんでもない方向に間違うことが起きうる。
尚、シャニダール洞窟の「死者に供えられた花」だが、現在では、これは後世に紛れ込んだ花粉で、古代から存在したものではなかったという結果になっている。最近の技術だと花粉が何の花のものなのかまで特定できる。
死者に供えられた花という幻想: 「花を手向けられし旧人の墓」イラク・シャニダール遺跡の現在
https://55096962.seesaa.net/article/201602article_25.html
ただ、この本は古代人の話ばっかり書いてる本ではない。
「現代イギリス人は花見しない、ほんとに花が好きなんのかよくわからん」
「西洋美術に出てくる花の種類とは」
「日本の平安あたりに愛でられた花はこんな種類だった」
みたいな話とかもあって、色んな切り口があるのが面白い。
最初に書いたように、あまり構成が上手くなくて何いいたいのかサッパリわからん先生もいるけど、そこは脳内で文章を再構成すれば何とか…。自分の得意分野以外に見聞を広げるには、いい入り口となる本である。
******
それから、この本の元になったシンポジウムの模様は、以下で読むことが出来る。
人間文化研究機構 Vol.4 「人はなぜ花を愛でるのか?」
http://www.nihu.jp/ja/publication/ningen/4
↑からPDFをダウンロード。
これを見ていると、小山先生のスタンスは、旧石器捏造事件を見抜けなかった学者たちの見方そのものなんだな、ということが見えてくる。小川先生とか大西先生の考え方にはストッパーが効いてるが、そうじゃないと最初から想像で「こうだ」と決め付けて突っ走ってしまうから…。
このpdfの中では、個人的に面白かったのは「昆虫はシンボルでしか物事を見ていない」という話でした。
元々第四章のエジプト/メソポタミアの部分が読みたくて買ってきたのだが、各研究者ごとの個性が出ていたのが面白かった。
結論から言うと、「上手い」人と「上手くない」人、テーマに対して「正面から取り込んで自分なりの結論に達している」人と「逃げを打って日記帳かよwwみたいな書き方をして何が何だか分からないうちに終わる」人、「脳内でこぢんまりと解決した」人と「資料を紐解いて新たに考えた」人がいる。
もうちょっとザックリ言ってしまうと、2chとかによくいる、知識だけはあるけど全然まとまってなくて何いってんのかワカンネーヨみたいなのがあるってこと。
ひとまとまりの文章としての体を成してなくて、これ論文も書けないんじゃない? って心配になる人もいて、残酷なことに各学者さんのストーリーテーリングの上手い下手が顕著に現われているのが非常に面白かった。ものすごく歪んだ見方ですけども(笑)
で、面白いので比べて欲しいのが第2章と第3章。
2章- 感情的で空想を多用する/根拠が薄いので反論に対して土台からひっくり返るタイプ
引用文献に海部陽介があって「あ、これあかんやつや」ってなる。
3章-データを多用し、より科学的な根拠を重視するタイプ
古参の先生からは理屈っぽいと怒られそうだがこっちが正解だと思う。
2章の先生の本は以前読んだことがあって、すごく知識は持ってるなぁ…と思ってたんだけど、でも、根本にある考え方が「ん?」って感じの方。その「ん?」と思ったのが、縄文文化について、想像と感情をもって理解しようとしていたところなのだ。
縄文人と現代人のメンタルが同じなわけがない。見ていた世界も異なるだろう。
なのに現代人の「心」をもって縄文人の生活を理解しようとするのは、ある意味「驕り」であり、根本的なすれ違いを生み出す原因になる。考古学に感情は必要ない、と言うと語弊があるが、自分の感情というフィルターだけを通して理解しようとしてはならない。それは、マヤの遺跡を初めて見たヨーロッパ人が「ローマのものだ」と解釈したのと同じ、根本的な勘違いに繋がる危険性を孕む。
その悪いクセを全面に押し出してしまったのが2章部分で、「古代人も現代人と同じメンタリティだったはずだ」という誤った前提から出発しているので、後に続く言論はすべて砂上の楼閣となる。「夢をふくらませながら」も、オカルティストの見る「夢」と同じく、全くの無意味である。
そこに鋭い突っ込みを入れているのが続く3章で、この新旧対決的な構成を評価したい。
お題となっているのはシャニダール洞窟の埋葬の花、ネアンデルタール人は死者に花を手向けたか? と言う話なのだが、「仮にネアンデルタール人が遺体の側に花を置いたことが事実であったとしても、その行動がなぜ死者を悼んだものだと言えるのか」と、ザックリ正面から切り込んでいる。
花の周りを飛ぶミチバチは花を愛でているわけじゃない。
ペットが花を見つめてたとしても花を美しいと思ってるわけじゃない。
花を愛でてるか愛でてないかとか決めてんの自分の思い込みだよね? 勝手に物語つけてるだけだよね? って、正論なんだけど言われたほうは絶対イラっとして反論するんだろうなーって内容を書いてあって、ニヨニヨしてしまった。もちろん私の見方は3章の先生のほうなのだが。
そもそも現生人類ですら、花に対する特別な感情を持ち始めたと確実な証拠が出てくるのは5000年くらい、頑張って遡っても精々が数万年。6万年前だと、ネアンデルタールどころか現生人類の祖先ですら花に特別な感情は抱かなかったんじゃないのか、というのがデータから見えてくる。まぁせやろな… としか言いようがない。
そももそ数万年以上前に遡る人類の祖先が、現代の我々と同じメンタリティであったなどとは信じられない。
ていうか全く異なる精神を持っていて、意思の疎通すら難しかったと考えるほうが自然だろう。その当たり前の前提を忘れてしまうと、出てきたものを現代人の感覚で判断してしまって、とんでもない方向に間違うことが起きうる。
尚、シャニダール洞窟の「死者に供えられた花」だが、現在では、これは後世に紛れ込んだ花粉で、古代から存在したものではなかったという結果になっている。最近の技術だと花粉が何の花のものなのかまで特定できる。
死者に供えられた花という幻想: 「花を手向けられし旧人の墓」イラク・シャニダール遺跡の現在
https://55096962.seesaa.net/article/201602article_25.html
ただ、この本は古代人の話ばっかり書いてる本ではない。
「現代イギリス人は花見しない、ほんとに花が好きなんのかよくわからん」
「西洋美術に出てくる花の種類とは」
「日本の平安あたりに愛でられた花はこんな種類だった」
みたいな話とかもあって、色んな切り口があるのが面白い。
最初に書いたように、あまり構成が上手くなくて何いいたいのかサッパリわからん先生もいるけど、そこは脳内で文章を再構成すれば何とか…。自分の得意分野以外に見聞を広げるには、いい入り口となる本である。
******
それから、この本の元になったシンポジウムの模様は、以下で読むことが出来る。
人間文化研究機構 Vol.4 「人はなぜ花を愛でるのか?」
http://www.nihu.jp/ja/publication/ningen/4
↑からPDFをダウンロード。
これを見ていると、小山先生のスタンスは、旧石器捏造事件を見抜けなかった学者たちの見方そのものなんだな、ということが見えてくる。小川先生とか大西先生の考え方にはストッパーが効いてるが、そうじゃないと最初から想像で「こうだ」と決め付けて突っ走ってしまうから…。
このpdfの中では、個人的に面白かったのは「昆虫はシンボルでしか物事を見ていない」という話でした。