古代エジプトへと続く「騎馬民族の絹の道」を考察してみる
以前、「クレオパトラは絹のドレスを着たか」という検証をしたことがある。
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クレオパトラは絹の衣装を着たか。→これはソースがあるのでアリです
https://55096962.seesaa.net/article/201701article_6.html
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この時は、絹の輸入経路はインド周りなのかなと思っていたが、改めて調べてみると中央アジアの真ん中つっきって最短距離で輸入できるルートもあるということが判ってきた。しかも時代的にプトレマイオス朝時代ジャストだ。
まず「アルタイ共和国」というものを紹介したい。現在はロシア内の自治区。ここはロシアが建国される以前から騎馬民族の住む地域で、中国の唐代初期には「金山」という名前で記録されている。スキタイやサカ族と関係のある遺跡が多く、中でも織物が腐らずに発見されたパジリクの古墳群などが有名だ。実は、その古墳から中国製の絹も出てきているのである。ということは中国と繋がっていたことになる。また同時にヘレニズム様式(ギリシャ風)の副葬品も見つかっている。
時代は紀元前4-3世紀。この時代、まだ中国まで繋がる"シルクロード"は存在していない。時代も秦より前。だが、中国が西方を知らない時代、中央アジアの平原に住む人々は西方を知っていたことになる。東西の道は草原を通じて繋がっていたのだ。なお、地図で見ると、アルタイ付近はちょうど東西の中間であることが判る。
しかし、中国から絹を手に入れる方法は問題だ。アルタイの古墳に入っていたものは数が少なそうである。
もう一つ可能性があるのが、劉邦の時代に匈奴の冒頓単于との間で結ばれた和平条約以降、中国側から貢物(みかじめ料)として匈奴に送られていた品目の中にある絹である。朝貢の始まった約100年後である前89年の記録によれば、毎年贈られていた絹の量は「100万匹」であるという。絹1匹は幅50cm、長さ約9mという単位だそうだから、100万匹=900m分。
ちなみに現代の反物の場合、普通の袖丈のきもの1枚を作るには12mが必要とされる。和服のように袖を長く取らない服の場合は
9mでも一着作れそうだから、100万匹あれば100万着作れたということになるのだろうか。それが毎年となればけっこうな量である。匈奴はその絹の多くを西方に転売していたようである。匈奴の主な勢力圏は現在のモンゴル付近だから、アルタイとほぼ同じ中央アジアの真ん中だ。
もし、匈奴の転売した絹が他の騎馬民族の手を通じて地中海に齎されていたとしたら、カスピ海の南側ルートを通れば最短距離に一直線でエジプトまで運べる。北を通れば黒海を抜けてローマだ。意外と近い。紀元前1世紀のカスピ海の南にはパルティアがあるから、絹はパルティアにも転売されていたかもしれない。
なお、このルート上には烏孫や月氏など騎馬民族の国が連なっており、空白地帯ではない。同種の民族同士で交渉して物々交換で商売する場合、軽くて高級で、しかもどこに持って行っても売れる「絹」は、良い交換商材になったのではないかと思われる。
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というわけで、騎馬民族たちが作る「草原の道」、草原のシルクロードを通ればプトレマイオス朝時代のエジプトでも絹が輸入出来るよ! という裏が取れた。ただし転売されるにつれて値段は上がるので、届く頃にはすさまじいお値段になっていたはずなのだが…。
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クレオパトラは絹の衣装を着たか。→これはソースがあるのでアリです
https://55096962.seesaa.net/article/201701article_6.html
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この時は、絹の輸入経路はインド周りなのかなと思っていたが、改めて調べてみると中央アジアの真ん中つっきって最短距離で輸入できるルートもあるということが判ってきた。しかも時代的にプトレマイオス朝時代ジャストだ。
まず「アルタイ共和国」というものを紹介したい。現在はロシア内の自治区。ここはロシアが建国される以前から騎馬民族の住む地域で、中国の唐代初期には「金山」という名前で記録されている。スキタイやサカ族と関係のある遺跡が多く、中でも織物が腐らずに発見されたパジリクの古墳群などが有名だ。実は、その古墳から中国製の絹も出てきているのである。ということは中国と繋がっていたことになる。また同時にヘレニズム様式(ギリシャ風)の副葬品も見つかっている。
時代は紀元前4-3世紀。この時代、まだ中国まで繋がる"シルクロード"は存在していない。時代も秦より前。だが、中国が西方を知らない時代、中央アジアの平原に住む人々は西方を知っていたことになる。東西の道は草原を通じて繋がっていたのだ。なお、地図で見ると、アルタイ付近はちょうど東西の中間であることが判る。
しかし、中国から絹を手に入れる方法は問題だ。アルタイの古墳に入っていたものは数が少なそうである。
もう一つ可能性があるのが、劉邦の時代に匈奴の冒頓単于との間で結ばれた和平条約以降、中国側から貢物(みかじめ料)として匈奴に送られていた品目の中にある絹である。朝貢の始まった約100年後である前89年の記録によれば、毎年贈られていた絹の量は「100万匹」であるという。絹1匹は幅50cm、長さ約9mという単位だそうだから、100万匹=900m分。
ちなみに現代の反物の場合、普通の袖丈のきもの1枚を作るには12mが必要とされる。和服のように袖を長く取らない服の場合は
9mでも一着作れそうだから、100万匹あれば100万着作れたということになるのだろうか。それが毎年となればけっこうな量である。匈奴はその絹の多くを西方に転売していたようである。匈奴の主な勢力圏は現在のモンゴル付近だから、アルタイとほぼ同じ中央アジアの真ん中だ。
もし、匈奴の転売した絹が他の騎馬民族の手を通じて地中海に齎されていたとしたら、カスピ海の南側ルートを通れば最短距離に一直線でエジプトまで運べる。北を通れば黒海を抜けてローマだ。意外と近い。紀元前1世紀のカスピ海の南にはパルティアがあるから、絹はパルティアにも転売されていたかもしれない。
なお、このルート上には烏孫や月氏など騎馬民族の国が連なっており、空白地帯ではない。同種の民族同士で交渉して物々交換で商売する場合、軽くて高級で、しかもどこに持って行っても売れる「絹」は、良い交換商材になったのではないかと思われる。
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というわけで、騎馬民族たちが作る「草原の道」、草原のシルクロードを通ればプトレマイオス朝時代のエジプトでも絹が輸入出来るよ! という裏が取れた。ただし転売されるにつれて値段は上がるので、届く頃にはすさまじいお値段になっていたはずなのだが…。
"シルクロードというと、一般にはすぐオアシスルートを連想されるようだ。映像では、ラクダを率いた商隊が砂漠を越えてゆくと、かなたに緑のオアシスが見えてくるというようなシーンが、かならず挿入される。しかし張騫が開いたというオアシスルートよりも二〇〇~三〇〇年前に、アルタイを結節点として、草原を通る交流の道、いわゆるシルクロードの草原ルートが開かれていたのである。
「興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明」より"