(悲報)人間、定義がわからなくなる
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という有名なタイトルの絵がある。
そのうち「我々はどこから」は、ホモ・サピエンスの歴史からいうとアフリカの大地のどこかということが大雑把にわかっており、「どこへ」は、地球の資源が有限であることを考えれば遠い将来はおそらく宇宙の彼方であり、それが出来なければ地球上で絶滅を待つことになるだろうとこれまた大雑把に判っている。
しかし、「我々は何者か」の部分が近年になって色んな意味で大きく揺らぎ始めている。
少なくとも、かつて教科書で学んだ内容は全然違う。
●人間がほかの動物に比べて"すぐれている"のはどこ?
かつては、「道具を作れる」とか「言葉を使える」とか、「火を使える」といった面から、高い知性が人間の人間たる所以だと考えられてきた。
しかし、それらは実際には、人間ほどの知性がなくても可能である。
道具はべつに人間でなくても使える。たとえば、キツツキが木の枝でイモムシを穴からほじりだして食べるのもりっきとした道具利用である。もっと複雑なものでなければ道具とはいわない、という反論もあるだろうが、サルなら簡単な石器を作ることが出来てしまうので、どのみちこれは人間のみの特徴ではない。
言葉は、鳥も使っていることが最近わかってきている。よく研究されているのはカラスやオウムなど身近な鳥たちだが、鳴き声を発するほかの動物たちも同じように声で種族間の意思疎通を図っている可能性がある。
火を使うのも人間に限らない。野火で温まる動物はいるし、ヒグマのように火を恐れない動物もいる。自然発火した火ではなく、自ら起こした火を利用すること、と限定すれば人間だけと言えるかもしれないが、肝心の人間が火を使い始めたのがそう古い時代ばてはない可能性があるので少し微妙である。
――と、いう感じで、かつて言われていた「人間の人間たるゆえん」なスキルが、今では知性の証として使えなくなってきているのである。
そのせいか、最近では「抽象的な思考が出来る」「将来を予測できる」といった面が知性の象徴として挙げられていることが多いように思われる。だが、これは出来ない人間もけっこう多いスキルなので、人間という種の話ではなくなってしてしまう。
人間が、ほかの生き物より高い知性を持つ、というのは確かにそうだろう。だが、「高い知性」とは何をもって高い知性なのかというのがよく判らなくなってきているのである。
ちなみに、人間が農耕を始めたのは1万年くらい前の話だが、それよりずっと以前からキノコ栽培をしているハキリアリというアリがいる。農業を営むアリの社会は高度に組織化されており、社会性の発達に必ずしも「高い知性」は必要ないことがわかる。
●ホモ・サピエンスが二足歩行を始めたのはいつ?
現生人類の直接祖先がどういう進化をたどってきたのかは、まだよく分かっていないが、ヒトとサルを区別する有力な指標が「二足歩行が常態として出来るかどうか」だというのはよく言われている。
しかしかつて想定されていたような、サルとヒトとの間をつなぐミッシング・リンクは存在しないことがわかってきた。というのも、進化は一方向のみに進むわけではないからだ。
ある類人猿は「脳容量は大きいけど二足歩行に向かない骨格をしている。
別の類人猿は「脳容量は小さいけど既に二足歩行をはじめていて、手先が自在に使えるよう骨格が進化している」。
こういう結果があった場合、どう考えるべきだろうか。
ヒトがサルに比べて脳が大きいこと、二足歩行ができること、その結果として前脚が自由になり、手先が器用に進化した、というあたりは誰も異論がないと思うが、それらは同時に起こった変化ではなく、一つの血族の時系列としてでもなく、バラバラに、別々の類人猿の中で起きた変化だということだ。それがどうやって最終的に、現生人類へと結びつくのかがまだ誰も見えていない。
●そもそも我々の種族とは…
そしてさらに微妙な話になってきているのが、「我々はどうやって今のホモ・サピエンスになったのか」という部分だ。たとえばネアンデルタールの話で、かつてはネアンデルタールとホモ・サピエンスは全く別の種類だと考えられていた。現生人類がネアンデルタールを滅ぼしたという説さえあった。しかし、最近の研究の結果、どうも現生人類はアフリカを出た直後くらいにネアンデルタールと混血していたようだとわかってきた。
さらにデニソワ人など別のヒトとも混血していたことも見えてきている。
要するに、現生人類とは他のホミニン(ヒト族)とミックスされた結果なのだ。ネアンデルタールとホモ・サピエンスの間に知性の差はあっただろうが、それは混血後にお互いに独自の進化を遂げた最終形態の話であって、元々持っていた基礎能力はあまり違わなかった可能性がある。ということは、種族の差というより「文化の差」である。
彼らと我々を分けるもの、決定的な要因とは何か? 「我々は何者か」。
この問いかけは、今後も研究成果が上がってくるとともに何度も繰り返されることになると思う。人間は、今までそうだと信じていた自らの立ち位置を改めて考え直さなければならないのかもしれない。
そのうち「我々はどこから」は、ホモ・サピエンスの歴史からいうとアフリカの大地のどこかということが大雑把にわかっており、「どこへ」は、地球の資源が有限であることを考えれば遠い将来はおそらく宇宙の彼方であり、それが出来なければ地球上で絶滅を待つことになるだろうとこれまた大雑把に判っている。
しかし、「我々は何者か」の部分が近年になって色んな意味で大きく揺らぎ始めている。
少なくとも、かつて教科書で学んだ内容は全然違う。
●人間がほかの動物に比べて"すぐれている"のはどこ?
かつては、「道具を作れる」とか「言葉を使える」とか、「火を使える」といった面から、高い知性が人間の人間たる所以だと考えられてきた。
しかし、それらは実際には、人間ほどの知性がなくても可能である。
道具はべつに人間でなくても使える。たとえば、キツツキが木の枝でイモムシを穴からほじりだして食べるのもりっきとした道具利用である。もっと複雑なものでなければ道具とはいわない、という反論もあるだろうが、サルなら簡単な石器を作ることが出来てしまうので、どのみちこれは人間のみの特徴ではない。
言葉は、鳥も使っていることが最近わかってきている。よく研究されているのはカラスやオウムなど身近な鳥たちだが、鳴き声を発するほかの動物たちも同じように声で種族間の意思疎通を図っている可能性がある。
火を使うのも人間に限らない。野火で温まる動物はいるし、ヒグマのように火を恐れない動物もいる。自然発火した火ではなく、自ら起こした火を利用すること、と限定すれば人間だけと言えるかもしれないが、肝心の人間が火を使い始めたのがそう古い時代ばてはない可能性があるので少し微妙である。
――と、いう感じで、かつて言われていた「人間の人間たるゆえん」なスキルが、今では知性の証として使えなくなってきているのである。
そのせいか、最近では「抽象的な思考が出来る」「将来を予測できる」といった面が知性の象徴として挙げられていることが多いように思われる。だが、これは出来ない人間もけっこう多いスキルなので、人間という種の話ではなくなってしてしまう。
人間が、ほかの生き物より高い知性を持つ、というのは確かにそうだろう。だが、「高い知性」とは何をもって高い知性なのかというのがよく判らなくなってきているのである。
ちなみに、人間が農耕を始めたのは1万年くらい前の話だが、それよりずっと以前からキノコ栽培をしているハキリアリというアリがいる。農業を営むアリの社会は高度に組織化されており、社会性の発達に必ずしも「高い知性」は必要ないことがわかる。
●ホモ・サピエンスが二足歩行を始めたのはいつ?
現生人類の直接祖先がどういう進化をたどってきたのかは、まだよく分かっていないが、ヒトとサルを区別する有力な指標が「二足歩行が常態として出来るかどうか」だというのはよく言われている。
しかしかつて想定されていたような、サルとヒトとの間をつなぐミッシング・リンクは存在しないことがわかってきた。というのも、進化は一方向のみに進むわけではないからだ。
ある類人猿は「脳容量は大きいけど二足歩行に向かない骨格をしている。
別の類人猿は「脳容量は小さいけど既に二足歩行をはじめていて、手先が自在に使えるよう骨格が進化している」。
こういう結果があった場合、どう考えるべきだろうか。
ヒトがサルに比べて脳が大きいこと、二足歩行ができること、その結果として前脚が自由になり、手先が器用に進化した、というあたりは誰も異論がないと思うが、それらは同時に起こった変化ではなく、一つの血族の時系列としてでもなく、バラバラに、別々の類人猿の中で起きた変化だということだ。それがどうやって最終的に、現生人類へと結びつくのかがまだ誰も見えていない。
●そもそも我々の種族とは…
そしてさらに微妙な話になってきているのが、「我々はどうやって今のホモ・サピエンスになったのか」という部分だ。たとえばネアンデルタールの話で、かつてはネアンデルタールとホモ・サピエンスは全く別の種類だと考えられていた。現生人類がネアンデルタールを滅ぼしたという説さえあった。しかし、最近の研究の結果、どうも現生人類はアフリカを出た直後くらいにネアンデルタールと混血していたようだとわかってきた。
さらにデニソワ人など別のヒトとも混血していたことも見えてきている。
要するに、現生人類とは他のホミニン(ヒト族)とミックスされた結果なのだ。ネアンデルタールとホモ・サピエンスの間に知性の差はあっただろうが、それは混血後にお互いに独自の進化を遂げた最終形態の話であって、元々持っていた基礎能力はあまり違わなかった可能性がある。ということは、種族の差というより「文化の差」である。
彼らと我々を分けるもの、決定的な要因とは何か? 「我々は何者か」。
この問いかけは、今後も研究成果が上がってくるとともに何度も繰り返されることになると思う。人間は、今までそうだと信じていた自らの立ち位置を改めて考え直さなければならないのかもしれない。