ファラオの娘はソロモンのもとに嫁いだか? 旧約聖書の記述を巡る信憑性と意味
旧約聖書には、「ファラオの娘がソロモンに嫁いだ」という記述が出てくる。時代的におよそ21-22王朝あたりのことだと考えられている。
ソロモンという王の実在は証明されておらず、ソロモン王の栄光の時代が果たして史実であったのかは謎である。(考古学的な証拠からすると該当の時代にイスラエル付近に強大な国があった証拠はなく、話を相当盛っていると考えられる)
にもかかわらず、外国には決して嫁ぐことのなかったファラオの娘が外国に嫁いだ例として、この記述はエジプトの王権の弱体化と結びつけて語られることが多い。イスラエルが、かつて強国であったエジプトに並び立った栄光の瞬間と見なされているのである。
…が、ソロモンの実在も怪しければ、そもそも、その「王女がイスラエルに嫁いだ」という話自体、史実であったのかどうかが分からない。
定説扱いされてるわりにエジプト側に全然証拠が見つからないんっスけどー。と思って探してみたらドンピシャな研究してる人がいたよ、しかも日本語で論文あったよヤッター! 調べる手間が省けたので、その論文をここに貼っておこうと思う。
ソロモンへ嫁した「ファラオの娘」をめぐる問題について-前1千年紀エジプトの衰退史観再考の視点から-
http://www.arskiu.net/book/pdf/1357871674.pdf
参考までに、第21-22王朝のファオラリストはこれ
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/index-middle3.htm
第21王朝は、王朝の中心地がナイル下流のタニスと上流のテーベに分離しており、並行して南北に王朝の中心地があったような形になっている。シアメンはタニス側のファラオ。それと、論文中で「シェションク」と呼ばれている王は現在ではショシェンクと微妙に発音の再建が変わっている。
ざっくりまとめると
・ソロモンが実在したかどうかは不明
・旧約聖書の記述と合致するエジプト側の史料はない
・エジプトの王女がイスラエルに嫁いだとすると第21王朝の後半~第22王朝あたりと考えられるが、エジプト側に裏付けがないので分からない
・エジプトから嫁いだ女性が実在したとしても本当に王女だったかどうかは不明
・もし王女だった場合、エジプトが衰退したからではなく、属国に対する支配の強化だった可能性がある
このうち最後の部分が結構重要である。
旧約聖書の記述を真実としてエジプトに対するイスラエルの優位性を主張する説だと「エジプトの王女の降嫁=イスラエルがエジプトと同等になった証拠」なのだが、実際は「王家の娘を与える=血族による支配体制の強化=属国扱いのまま」だと、意味が真逆だった可能性もある。ということだ。
第21王朝の頃のエジプトは、確かに最盛期のような勢いはなく、ゆっくりとした衰退期に入っている。それは王朝の中心地が分裂し、かつて傭兵であったリビア系の王が即位していることからも解る。しかし、エジプトの弱体化と同時にエルサレムがエジプトと同等の国となっていたかどうかは、また別問題である。
既に論文中にあるとおり、エジプトの王女の外国への輿入れは、史実であると証明することは出来ない。しかし、もし仮に事実として何かあったとしても、それはエジプトの弱体化やエルサレムの強国化を意味するとは限らないことに留意すべきだろう。
ソロモンという王の実在は証明されておらず、ソロモン王の栄光の時代が果たして史実であったのかは謎である。(考古学的な証拠からすると該当の時代にイスラエル付近に強大な国があった証拠はなく、話を相当盛っていると考えられる)
にもかかわらず、外国には決して嫁ぐことのなかったファラオの娘が外国に嫁いだ例として、この記述はエジプトの王権の弱体化と結びつけて語られることが多い。イスラエルが、かつて強国であったエジプトに並び立った栄光の瞬間と見なされているのである。
…が、ソロモンの実在も怪しければ、そもそも、その「王女がイスラエルに嫁いだ」という話自体、史実であったのかどうかが分からない。
定説扱いされてるわりにエジプト側に全然証拠が見つからないんっスけどー。と思って探してみたらドンピシャな研究してる人がいたよ、しかも日本語で論文あったよヤッター! 調べる手間が省けたので、その論文をここに貼っておこうと思う。
ソロモンへ嫁した「ファラオの娘」をめぐる問題について-前1千年紀エジプトの衰退史観再考の視点から-
http://www.arskiu.net/book/pdf/1357871674.pdf
参考までに、第21-22王朝のファオラリストはこれ
http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/index-middle3.htm
第21王朝は、王朝の中心地がナイル下流のタニスと上流のテーベに分離しており、並行して南北に王朝の中心地があったような形になっている。シアメンはタニス側のファラオ。それと、論文中で「シェションク」と呼ばれている王は現在ではショシェンクと微妙に発音の再建が変わっている。
ざっくりまとめると
・ソロモンが実在したかどうかは不明
・旧約聖書の記述と合致するエジプト側の史料はない
・エジプトの王女がイスラエルに嫁いだとすると第21王朝の後半~第22王朝あたりと考えられるが、エジプト側に裏付けがないので分からない
・エジプトから嫁いだ女性が実在したとしても本当に王女だったかどうかは不明
・もし王女だった場合、エジプトが衰退したからではなく、属国に対する支配の強化だった可能性がある
このうち最後の部分が結構重要である。
旧約聖書の記述を真実としてエジプトに対するイスラエルの優位性を主張する説だと「エジプトの王女の降嫁=イスラエルがエジプトと同等になった証拠」なのだが、実際は「王家の娘を与える=血族による支配体制の強化=属国扱いのまま」だと、意味が真逆だった可能性もある。ということだ。
第21王朝の頃のエジプトは、確かに最盛期のような勢いはなく、ゆっくりとした衰退期に入っている。それは王朝の中心地が分裂し、かつて傭兵であったリビア系の王が即位していることからも解る。しかし、エジプトの弱体化と同時にエルサレムがエジプトと同等の国となっていたかどうかは、また別問題である。
既に論文中にあるとおり、エジプトの王女の外国への輿入れは、史実であると証明することは出来ない。しかし、もし仮に事実として何かあったとしても、それはエジプトの弱体化やエルサレムの強国化を意味するとは限らないことに留意すべきだろう。