「天空の大地の人類学」チベット 聖地の路地裏
表紙の青色が綺麗だったのでなんとなく読み始めた。ぬるい感じの日常話だが、チベットはそれほど詳しいわけではないのでこのくらいで調度よかった。
この本は著者が足掛け八年ほどラサに滞在した経験を元に記したエッセイ集で、日常的な話がほとんどなので学術的に何かを分析しているわけではない。そのかわり堅苦しくなく、そこに生きる人たちの生き生きとした息遣いを感じることができる。また、思想的に中立をたもとうとしている部分が多いのも読みやすい。たとえば、チベットの人たちは信心深いのに意外と自分たちが拝んでいる寺の来歴を知らない、とか。中国の支配に反抗的な部分もありつつ、中国の中心部での高度な教育を受けることは望んでいる、とか。経済的に発展してきているラサの住人が、ラサ以外の地方民を田舎者として見下すことがある、とか。
それはまさしく、表からでは見えない「路地裏」の視点だろう。
チベットで反中国・独立の気運が高まったのは、2008年のペキンオリンピックの頃である。
著者の滞在が2000年から始まっていて、その前後の激動の時代を含むはずなのだが、そのあたりはあまり触れられていない。ぽそっと書かれていたとおり、あまり赤裸々に書くと現地の人に「迷惑がかかる」から、という政治的配慮は確かにあるのだろう。中国の監視網の不気味さは前提してありつつ、しかし、全編を通してイメージされるのは表紙にもなっている「青い空」である。
チベットは全体的に高地にある。当然ながらそのぶん空に近い。山の上に行くと、町で見るより空は濃い青になる。自分が登山を好きな理由のひとつであるが、標高の高さは空気の薄さや気温の低さなど、生きていくのが大変な原因でもある。
高山では、儚い幽霊は生き残れない。
極度に乾燥し、木々の木陰もなく強烈な太陽が照りつけるチベットでは、幽霊にとっても過酷で、生き残れるのは強烈な悪霊だけなのだという。なるほどと思った。そりゃあそうである、チベットの写真を見ると、揺れる柳どころか草もろくに生えていない。日本の山岳信仰以上に、チベットで生きることは日々が山岳修行のようなものだなぁと思ったりもした。その視点も、現地で暮らしてみなければきっと出てこない。
知っていることも沢山出てきたが、行間にそれだけではない部分が垣間見える。知識だけでは分からない部分も沢山あるなと思う本だった。
この本は著者が足掛け八年ほどラサに滞在した経験を元に記したエッセイ集で、日常的な話がほとんどなので学術的に何かを分析しているわけではない。そのかわり堅苦しくなく、そこに生きる人たちの生き生きとした息遣いを感じることができる。また、思想的に中立をたもとうとしている部分が多いのも読みやすい。たとえば、チベットの人たちは信心深いのに意外と自分たちが拝んでいる寺の来歴を知らない、とか。中国の支配に反抗的な部分もありつつ、中国の中心部での高度な教育を受けることは望んでいる、とか。経済的に発展してきているラサの住人が、ラサ以外の地方民を田舎者として見下すことがある、とか。
それはまさしく、表からでは見えない「路地裏」の視点だろう。
チベットで反中国・独立の気運が高まったのは、2008年のペキンオリンピックの頃である。
著者の滞在が2000年から始まっていて、その前後の激動の時代を含むはずなのだが、そのあたりはあまり触れられていない。ぽそっと書かれていたとおり、あまり赤裸々に書くと現地の人に「迷惑がかかる」から、という政治的配慮は確かにあるのだろう。中国の監視網の不気味さは前提してありつつ、しかし、全編を通してイメージされるのは表紙にもなっている「青い空」である。
チベットは全体的に高地にある。当然ながらそのぶん空に近い。山の上に行くと、町で見るより空は濃い青になる。自分が登山を好きな理由のひとつであるが、標高の高さは空気の薄さや気温の低さなど、生きていくのが大変な原因でもある。
高山では、儚い幽霊は生き残れない。
極度に乾燥し、木々の木陰もなく強烈な太陽が照りつけるチベットでは、幽霊にとっても過酷で、生き残れるのは強烈な悪霊だけなのだという。なるほどと思った。そりゃあそうである、チベットの写真を見ると、揺れる柳どころか草もろくに生えていない。日本の山岳信仰以上に、チベットで生きることは日々が山岳修行のようなものだなぁと思ったりもした。その視点も、現地で暮らしてみなければきっと出てこない。
知っていることも沢山出てきたが、行間にそれだけではない部分が垣間見える。知識だけでは分からない部分も沢山あるなと思う本だった。