ミタンニ-ヒッタイト間の条約に出て来るインドの神様と、当時の人の流れを考える

ミタンニとは、フリ人が作った国で、シリアからメソポタミア北部のあたりまでを領域としていた。紀元前15世紀前半のエジプトの石碑が初出。一時は強国であり、短い期間ではあるがエジプト-ミタンニ-ヒッタイトの三国時代が存在した。紀元前1300年の半ばごろには次に台頭する大国アッシリアに呑まれてしまうのだが、その前の時代にヒッタイトとの間で結ばれた停戦協定が残っている。

で、その協定の中には実は、 リグ・ヴェーダの神々 が登場する。

綴りの参考用↓
https://en.wikipedia.org/wiki/Mitanni-Aryan

登場するのは

 ・ヴァルナ
 ・ミトラ
 ・インドラ
 ・ナーサティア
 ・アグニ

であり、これは条約の内容を神々に誓うという文脈の中で登場する。つまり、当時ミタンニに暮らしていた人の中でこの神々が信仰されていて、国の条約の中で呼ばれるほど権威ある位置づけだったと考えていいのかなと思う。
(ちなみにエジプトとヒッタイトの協定で呼ばれるのは、セト神やアリンナ女神)

このへんの神々はリグ・ヴェーダで上位の扱いを受けている神々。
リグ・ヴェーダが成立したと考えられている時代より前から、同じ神話体系を持つ人々がミタンニあたりに一定数住んでいたとすると… インドと地中海世界というはるかな距離の間に、決して細くは無い人の流れが存在したことを意味する。
それを地図で確認してみた。

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陸路だと、イラン高原をはさんで、かなりの距離がある。
海路の場合も一度メソポタミアに入ってから北上することになるので、距離の長さ的には決して短くない。もちろん、インド・ヨーロッパ語族、いわゆるアーリア人の祖先が最初どこにいて、いつ移住したのかという問題もあるだろう。インド・ヨーロッパ語族の祖先は元々、黒海沿岸あたりに住んでいて、そこから四散していったという説もあるので、インドまでたどり着く前に切り離された集団がミタンニあたりにとどまっていたのかもしれない。が、いずれにしても文化圏の広がりを考える上では興味深い。インドの神様はインドだけで信仰されてたわけじゃなかった。シリアも活動範囲内だった。


ここから判ることは、アレクサンドロスの遠征やヘレニズム時代を待つまでもなく、紀元前1500年時点で既にインドと東地中海世界の文化が交じり合う土壌は出来ていた、ということだ。たぶん、ギリシャ彫刻のような目立つブツが移動したわけじゃないので影響が見えづらいだけ。そもそもインダス文明の時代からメソポタミアと交易やってたわけだし、考えてみれば当たり前のことだった…。当たり前のことも意識しないと見えてこないのだ。



*ちなみにミタンニは慣習的に呼ばれる名前。

自称では「フリ」、アッシリアなどでは「ハニガル」、バビロニアでは「ハビガルバト」、エジプトでは「ナハリナ」「ナフリマ」などと呼ばれており名称がバラバラなので、とりあえず統一してミタンニという名前で本に出てくる。ただしこれも正確な発音では「ミッタ二」とか「ミッタンネ」になるらしい。

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