ジャルモ(チャルモ)遺跡と、農耕の起源 ~初期の農耕はすでに水路を利用していたかもしれない
業務終了後にダッシュで講演会に行き、その後なぜかまた職場に戻る、という体力の限界に挑戦するみたいなスケジュールで聞いてきたやつを適当にまとめておく。
年度末…そう、年度末には 魔物が 住んでいるの
まずは、イラク・クルディスタンにある「ジャルモ遺跡(チャルモ遺跡)」について紹介する。
クルディスタンというのはイラク北東部の、クルド人の住む地域。遺跡の名前「チャルモ」はクルド語で「白い」という意味であり、遺跡全体が土壌の色から白く見えることが由来なのだという。これがアラビア語になると濁って「ジャルモ」と発音されてしまう。そのため、原語に近いカナ表記では「チャルモ」となる。
世界史でも習う「肥沃な三日月地帯」の東に市し、麦の原種が自制していた地域である。そのため、人類が小麦・大麦を栽培しはじめた場所と考えられている。チャルモ遺跡は、初期の農耕事情を知ることの出来る遺跡なのだ。
検索すると発掘隊に参加した人の記事がいくつか出てくるが、このあたりとか分かりやすいだろうか。
記事内で「人類史上最古といわれる農耕牧畜社会」と書かれているが、約9,000年前の農耕社会の痕跡が残されているので、最古級なのは間違いない。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v21n1/v21n1_odaka.html
しかしこの遺跡、60年ほど前に発掘されたのち、つい最近まで忘れられていたという。
理由は内戦など治安の悪化。イラン・イラク戦争で砲台置かれてた跡も残っているとか。ただ、そもそもこの遺跡自体、ちょうどいいカンジの丘の上にあるので、古代にはアッシリアvsメディアの戦争でも砦として使われていたとか、地層は必ずしもいい状態で残っているわけではないらしい。
ISが台頭して以降は、ニュースで流されていたとおり、シリアもイラクも治安が悪化。クルド人は自分たちで戦って自治領クルディスタンを防衛していたのでむしろクレディスタンのほうの治安が良くなり、考古学者が訪れるようになった。その中に、シリアやイラクで調査出来なくなった日本の学者さんたちもいた、というわけ。
で、約60年ぶりに調査を続けていくうちに、「初期の農耕って単純な天水農耕じゃなくね? もうすでに灌漑水路作った跡があるんだけど??」ということが分かってきたようなのだ。
講演会のスライドは写真撮影禁止だったので配られた資料から…
ちょっとわかりにくいけど、遺跡の周辺は異なる種類の岩が重なって斜めになっており、そのスキマから多数の湧水がある、ということ。
★Kani と書かれているのが、湧水のある地点。
そしてドローンを飛ばして上空から見ると、その湧水地点から水路が引かれたあとがはっきりと残っており、畑は、水路に沿って広がっていることが確認できるという。
つまり、ここに住んでいた人々は、単純な天水農業(降雨に頼る農法)ではなく、湧水を利用した、一種の灌漑農法を行っていた可能性がある。(講演者は"帯水農法"と呼んでいた)
「肥沃な三日月地帯」は、もともと麦が自生できる環境にある。つまり雨に任せていれば麦は勝手に育つ。なのに手間暇かけて水路を作るからには、農作物の生育に必要な条件をある程度理解していた可能性もあるかもしれない。
この地域で始まった農耕技術は、やがてメソポタミアの、天水では麦を育てられない地域まで広がっていく。そのどこかの時点で、メソポタミアの環境においては必須というべき灌漑農法も編み出される。今はまだザックリとした概要しか判っていないこのへんの歴史が具体化されるとしたらとても面白い。
気温が50度近くなるというこの遺跡での調査はだいぶ過酷なものらしいのだが…
発掘隊のみなさん、頑張って…くだ…さ…
年度末…そう、年度末には 魔物が 住んでいるの
まずは、イラク・クルディスタンにある「ジャルモ遺跡(チャルモ遺跡)」について紹介する。
クルディスタンというのはイラク北東部の、クルド人の住む地域。遺跡の名前「チャルモ」はクルド語で「白い」という意味であり、遺跡全体が土壌の色から白く見えることが由来なのだという。これがアラビア語になると濁って「ジャルモ」と発音されてしまう。そのため、原語に近いカナ表記では「チャルモ」となる。
世界史でも習う「肥沃な三日月地帯」の東に市し、麦の原種が自制していた地域である。そのため、人類が小麦・大麦を栽培しはじめた場所と考えられている。チャルモ遺跡は、初期の農耕事情を知ることの出来る遺跡なのだ。
検索すると発掘隊に参加した人の記事がいくつか出てくるが、このあたりとか分かりやすいだろうか。
記事内で「人類史上最古といわれる農耕牧畜社会」と書かれているが、約9,000年前の農耕社会の痕跡が残されているので、最古級なのは間違いない。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v21n1/v21n1_odaka.html
しかしこの遺跡、60年ほど前に発掘されたのち、つい最近まで忘れられていたという。
理由は内戦など治安の悪化。イラン・イラク戦争で砲台置かれてた跡も残っているとか。ただ、そもそもこの遺跡自体、ちょうどいいカンジの丘の上にあるので、古代にはアッシリアvsメディアの戦争でも砦として使われていたとか、地層は必ずしもいい状態で残っているわけではないらしい。
ISが台頭して以降は、ニュースで流されていたとおり、シリアもイラクも治安が悪化。クルド人は自分たちで戦って自治領クルディスタンを防衛していたのでむしろクレディスタンのほうの治安が良くなり、考古学者が訪れるようになった。その中に、シリアやイラクで調査出来なくなった日本の学者さんたちもいた、というわけ。
で、約60年ぶりに調査を続けていくうちに、「初期の農耕って単純な天水農耕じゃなくね? もうすでに灌漑水路作った跡があるんだけど??」ということが分かってきたようなのだ。
講演会のスライドは写真撮影禁止だったので配られた資料から…
ちょっとわかりにくいけど、遺跡の周辺は異なる種類の岩が重なって斜めになっており、そのスキマから多数の湧水がある、ということ。
★Kani と書かれているのが、湧水のある地点。
そしてドローンを飛ばして上空から見ると、その湧水地点から水路が引かれたあとがはっきりと残っており、畑は、水路に沿って広がっていることが確認できるという。
つまり、ここに住んでいた人々は、単純な天水農業(降雨に頼る農法)ではなく、湧水を利用した、一種の灌漑農法を行っていた可能性がある。(講演者は"帯水農法"と呼んでいた)
「肥沃な三日月地帯」は、もともと麦が自生できる環境にある。つまり雨に任せていれば麦は勝手に育つ。なのに手間暇かけて水路を作るからには、農作物の生育に必要な条件をある程度理解していた可能性もあるかもしれない。
この地域で始まった農耕技術は、やがてメソポタミアの、天水では麦を育てられない地域まで広がっていく。そのどこかの時点で、メソポタミアの環境においては必須というべき灌漑農法も編み出される。今はまだザックリとした概要しか判っていないこのへんの歴史が具体化されるとしたらとても面白い。
気温が50度近くなるというこの遺跡での調査はだいぶ過酷なものらしいのだが…
発掘隊のみなさん、頑張って…くだ…さ…