アクスム石柱群とエジプト風遺物の関係

>前回からの続き

というわけでアクスム石柱群とエジプトの関係、というか正確に言うと東地中海世界との繋がりについて書いておこうと思う。
まず、アクスム王国は紅海を挟んだ交易によって栄えた王国である。アクスム王国が成立した紀元前後の時代、紅海は東地中海~東アフリカ~メソポタミア~インドへと繋がる、海のハイウェイの一部だった。

これは紀元後1世紀ごろに実際にこのルートを辿っていた航海者が記した「エリュトゥラー海案内記」に、アクスム王国と同定される地名が出てくることからも判っている。
以下の地図で緑色で記されている都市がアクスム王国の地名。なのでアクスム王国は、影響の大小の差はともかく、この航路上にある全ての文化と繋がっていたと言っていい。

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だが何故か現地ガイドさんは「これはエジプトの影響じゃなくわが国独自の~」って言う(笑

ここに限らずエチオピア正教の寺院でも、ばりばりビザンツ風の壁画を前に「我が国独自の~」と言い出したりするので、なんかたぶん公認ガイドはそう言わないといけないルールとかあるんだと思う。ガイドの説明を頭から丸ごと信じるくらいなら最初から現地凸なんてやってない。説明されないことを探してこその旅というもの。


まずアクスムにエジプトの影響が入ってたと分かりやすいのが、首都アジスアベバの国立博物館にあるコレ。
1Fの一番奥に説明もなんもなくポソっと置かれているのだが、アクスム出土のもので、時代は「たぶん」アクスム王国の成立より少し前では? という話だった。
まあ見慣れたエジプト様式のナオスなんですよね。少なくとも美術様式や知識が、何らかアクスムに入っていたことは証明できる。

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そしてこのナオス(祠堂)の上部に刻まれたアイベックス(山羊)の意匠。
アイベックスは、実はアクスムの、倒れたオベリスクの四角い窓のような部分の中にも刻まれている。何か神聖な動物という扱いだったのだろう。

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アクスム石柱群のあるすぐ隣にひっそりと佇む「偽扉の墓」と呼ばれている王墓。
墓の上部に偽物の扉がついてるのだが、「偽扉」というとエジプトの墓にあるものを連想させると思う。これも、もしかしたら墓の作り方のアイデアとして何か関係はあるかもしれない。

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アクスムは考古学的な調査が十分とはいいがたい地域なのではっきりとは分からないが、私はここのオベリスクはエジプトにあるオベリスクの話を伝聞した結果、似せようとしたのではないかと思っている。
実物のオベリスクは見たことが無くて、単に「王様が建てたでかい石の柱がたっててスゲーんだよ」とだけ聞いてたから、見た目的には別のものになっちゃったんじゃないかと。じゃないと、わざわざこんな柱立てようと思わないんじゃないか。
立ててたのもこの時代だけで、紅海の交易ルートが廃れてからは建てられなくなっていく。それはキリスト教に改宗したからとかではなく、外から来た人に「うちの国もすごいんやで」と巨大建造物を見せてアピールする必要が無くなったからなのでは。


あともう一つ面白いなと思ったのが、同じアクスムの端っこにある「エザナ王の碑文」だ。

古代には海から続く交易路上だったという坂道の途中にあり、訪れた時はちょうど保護のための建物をつくる工事中で見えなかったのだが、当時このあたりで使われていたゲエズ語とともに、サバ語、ギリシャ語と三言語で内容が併記されている。そのため「エチオピアのロゼッタ・ストーン」と呼ばれることもあるとか、ないとか。

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これを作ろうと思う発想自体がとても「対外アピール」を重視しているし、ことによったらエジプト語とギリシャ語を併記して布告していたエジプト・プトレマイオス朝のアイデアを借りたのかな、とも思う。エジプトのロゼッタ・ストーンも、本来は神殿や大通りなど目立つ場所に建てられていたものだから。



というわけで、アクスムにはそこかしこにエジプトの、というか東地中海ら吹く古代の風の微かな残り香が感じられる場面があった。イスラム勢力が勃興して交易路が途切れ、王国が衰退していくまで、ここは遥かな北の海とも、そして東のインドの地とも繋がる国際都市だった。

そんな歴史を感じてみるのもいいかと思います。







あとおまけ

アクスム石柱の2番目にでっかいやつの上部のへこんでるとこ、鳥が巣作ってました。
次行く人だれか、ここのひな鳥が巣立ったかどうか確かめてきてください・・・

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