通称「シバの女王の宮殿跡」ことドゥングル(dungur)宮殿に行ってきた

アクスムには、「シバの女王の宮殿跡」という通称で呼ばれる遺跡がある。

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地元民がそう呼んでるだけで、もちろんシバの女王のものではないうえに、そもそも宮殿なのかどうかすら確定していないのだが、なぜかエチオピア公式や日本の観光ガイドでもそう書かれていて面倒くさい。また、地元のガイドさんを雇うとわりと本気で「これはシバの女王のもので間違いない」などと言ってくるので、信じてしまう人はいるかもしれない。
なので、もう少し詳しく解説しておこうと思う。

まず、現在目に見えている宮殿の年代は、実は入り口の看板に書いてあるとおり7世紀くらいのものだ。
シバの女王がいたとされるのは、ソロモン王の時代だから、紀元前10世紀。石積みや残り具合を見れば、そんな昔のものじゃねーなというのはすぐに判ると思う。

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また、再現図も色々あってどれが正しいか分かりづらいのだが、この壁の厚さからして3階建てはムリである。重量をかけると、下の石が潰れてしまう。いいとこ2階建てくらいだろう。


首都アジスアベバの国立博物館に行くと、この遺跡の模型が置かれている。

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こっちは6世紀の宮殿、と書いてあって、ちょっと時代がズレてるが、まぁだいたい一緒くらい。



さて、この遺跡について、見えてる部分は6-7世紀くらいで確定なのだが、それでもどうしてもシバの女王のものにしたいガイドさんは、「この下に本当のシバの女王の宮殿が埋まっているのだ」と主張する。もっともらしく、ドイツの調査隊によって調査された証拠もあるのだと語るかもしれない。

その調査というのが、入り口の看板の下の方に、「建物自体は7世紀だけど、その下にドイツの考古学者が発見した紀元前10世紀の遺跡が埋まってるから。それが本物のシバの女王の宮殿だから!!」と付け足しのように書かれている部分である。
しかし実はこの「発見」はほかの考古学者たちから懐疑的に扱われ、ほぼガン無視の状態になっている、眉唾ものの説なのだ。

当時(2008年)の記事が残っていたので張り付けておくが、まぁうん…その…ね…。

German archaeologists find Queen of Sheba’s palace
https://www.expatica.com/de/german-archaeologists-find-queen-of-shebas-palace/

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これ考古学じゃなくてオカルトですね…。

何をもって紀元前10世紀と判断したのかの根拠が無いし、そもそも、その時代にここに王朝的なものがあったという証拠もない。トレンチ入れただけなのになぜシリウス星に沿って建物を配置したとか判るのかっていうのもあるし、失われたアークがエチオピアにあるはずだとかいうくだりはグラハム・ハンコックのファンタジー本にでもハマってたのかなという感じ。そもそも聖櫃の真贋なんて誰も判定出来ないよね。信じるのは自由だけど学問として証明するのは話が別。
これを既成事実として採用しちゃうのはちょっとどうかと。

あと常識的に、紀元前10世紀に宮殿のあった全く場所に、1500年も経過した7世紀になってからもう一回宮殿を建てるなんてことは出来ない。たとえこの場所が宮殿を建てるのに適していたとしても、時間が空いたのなら痕跡が不明瞭になって場所はズレる。全く同じように重ねて建物が作られている以上、建てられた時期も重なっている。もっと言えば、下に埋もれている建造物との間の層が薄すぎる。なので実際のところは、上の建造物に近い時代、5-6世紀とかそんなもんじゃないのかな。

尚、発見者のHelmut Ziegertが2013年に他界しているようで、この話の続きは無いようだ。



シバの女王は伝説上の人物で、実在したかどうかはわからない。
またシバの女王の伝説はもともとイエメンのほうにあったシェバ王国のものなのだが、かつてアクスム王国がイエメンまで支配していたこと、イエメンから人が渡ってきたり、逆にエチオピア側の人が渡っていったり、交流があったことからいつの間にかエチオピアの土着の伝説と癒合してエチオピア=シバの女王の国、とされたのが現在の姿である。

なので、もしシバの女王が実在したとしても、彼女の宮殿はイエメンのほうにあるのだろう。エチオピアに存在する可能性は限りなく低い。そして、神から授かった十戒の石板や、それを収めた聖櫃が現存する可能性は、もっと低い。神話や伝説と歴史的事実を混同してはいけない。近代においては、それは多くの場合、生まなくていい悲劇を生んできたものなのだから。




さて、そのへんは置いておくとして、私はここに宮殿らしきものが繰り返し作られた理由がちょっとよく分からんなぁと思っていた。

実はこの場所、近くに水場が見えない。展望台からも探したけど見つからなかった。
すぐ後ろに丘があったので、見晴らしだけなら丘の上に建物作るんじゃないかって気がする。昔はどこかに湧水でもあったのか。それとも埋もれて見えない井戸があるのか。

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遺跡の中には雨どいもあり、雨水を貯水槽に貯めていただろうことは予想できたけれど、それだけだと足りない気がするんだよな。

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どうしてここじゃないとダメだったのか、昔はここが町の中心だったりしたのか? と、何もない原野を眺めながら色々考えていた。現代は…マジでなんもないので…。町からも離れてるし。

それと、この建物の本当の目的が分からないというのもある。
中央に一段高くなった部屋があるのは確かに宮殿っぽいのだが、館の周囲に壁がぐるりと囲んでるのはたぶん防衛を考えてのものだと思うので、政局が不安定な時代にはむしろ相応しい建物だという印象を受ける。

ただ、場所から考えると宮殿じゃなくて神殿の可能性もありそうだった。
この遺跡の真向かいには、もう一つの、「グディト女王の碑文」があるフィールドが存在する。もしそこが聖なる地みたいな扱いだったとしたら、真向かいに神殿を建てるのは全然不思議じゃないし、神殿というのは何度も同じ場所に繰り返し建てられることがよくある。

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神殿なら町から離れていようが水場が近くに無かろうが、聖なる地がそこである限りそこに建てられ続けなければならないので、色々解決する。ただ、その場合、「この神殿に祀った神様って何?」という話になるのだが…。アクスム王朝だともうキリスト教が入ってきているので、初期キリスト教の神殿(教会)になってしまう。だとすると、建造の仕方が全然違うので、この可能性は低そうだ。



遺跡はそれほど大きくはなく、見ごたえがあるかと言われるとそこまででもなく、なんとなく歩き回って終了する感じの場所。来歴も持ち主も不明のままで、説明があまりにも味気ないので、ガイドさん的に「シバの女王の宮殿跡だ」のようなストーリーでも作らないと盛り上がらないスポットなのかもしれない。まあでも面白いと思うんだけど。




というわけで、最後にもう一つ、シバの女王ゆかりの遺跡とされている「シバの女王の浴槽」とか「沐浴場」とか呼ばれる遺跡を出しておきたい。
こちらはアクスムの石柱から東側、町から見るとドゥングル宮殿とは逆側に位置している。

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見ての通り、浴場じゃなくて水汲み場である。
沐浴はまぁ出来なくもない…ないと思うけど。見ているとご近所の人がひっきりなしに水汲みにきている、現役のも貴重な水場である。

奥の方の綺麗に舗装されている部分や坂みたいになってるところは近代の修復で、昔から残っている部分は岩をくりぬいたようになってる部分。シバの女王の名前は後からつけられただけで、特に何も関係はないのだが、この貯水槽自体はかなり昔から使われていそうだ。

宮殿とか城とか作るなら、普通、水場の近くだと思うので、もし王様の宮殿があったとするならこの近くだったんじゃないかと思う。近くに川はないし、雨も雨季にしか降らないようなエチオピアの乾いた大地で、わざわざ町の反対側に宮殿作るのは理由が謎だ。


シバの女王の宮殿跡は、シバの女王伝説とは関係なくても沢山の謎を抱えた、まだこれから研究されるべき遺跡なのだった。



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