ローマ支配時代のエジプト沿岸の街ベレニケと古代のペット事情/なぜ大量の猫がそこで飼われていたのか
少し前のニュースになるが、エジプトの紅海沿岸にある古代の港町ベレニケから、大量の猫(一部は犬)の骨が見つかった、というものが流れていた。
当初はゴミ捨て場に集められた動物の骨、という認識だったのだが、よく調べてみると首輪をつけていたり、ほとんどの動物が老齢だったりと、どうもペットとして飼われていたのではという説が出て来た。
このニュースがちょっと引っかかっていた。
古代にペットという概念は薄く、もしあったとしても、生活に余裕がないと娯楽で動物を飼うということは出来ない。しかしここは地中海とインドを結ぶ海上交易路の中継地点。ヘンピな港町で、町の周囲は砂漠と海しかないようなところである。道楽でペットを飼うような貴族はいないし、豪華な邸宅のようなものも見つかっていない。もし裕福な商人などがいたとしても、数があまりに多すぎるのだ。ほぼ猫で、しかも600匹。
今回のペットの墓は紀元後1~2世紀の、エジプトがローマ支配下にあった時代のもののようだが、この港町はその後、3世紀頃に一時衰退、4世紀頃から盛り返すものの、その後の数世紀のうちに放棄されてしまう。
つまり使われた時代はそう長くはないわけで、一体どれだけの数の猫を同時に飼育していたのか、と疑問にもなる。
Graves of nearly 600 cats and dogs in ancient Egypt may be world’s oldest pet cemetery
https://www.sciencemag.org/news/2021/02/graves-nearly-600-cats-and-dogs-ancient-egypt-may-be-world-s-oldest-pet-cemetery
585匹ものネコやイヌなどの動物が埋葬された2000年前の「ペットのお墓」が発見される
https://gigazine.net/news/20210310-oldest-pet-cemetery/
まず基本情報。
この町は、プトレマイオス朝初期の王、プトレマイオス2世によって紀元前3世紀半ばに築かれた。
町の名前は、王の母ベレニケに由来する。プトレマイオス朝時代には、ここから南進してエチオピアを通じてアフリカ内陸部との交易がおこなわれていた。ローマが支配する時代になると、今度はインドとの香辛料交易のほうがメインになっていく。
港の位置は↓の地図で黒い四角で囲ったところ。
もっと北にあるMios hormosがメイン港だった時代もあり、ベレニケがメインの貿易港となるのは、ローマ支配時代が始まってから少し経った頃とされる。
ローマ/ギリシャ/エジプト側からの輸出は地中海産のオリーブオイル、ワイン、織物、鉄、エジプト産のガラス製品やアラバスターなどの石材、紅海産のサンゴなど。ベレニケは、近くに緑色の宝石ペリドットの産地があり、サンゴとあわせて交易品の生産地も兼ねていた。
インドからは香辛料やラピスラズリ、宝石類、一部は東南アジアの香辛料や、中国から経由してきた東方の品などが輸入されていたようだが、この交易はインド側が有利(インド側の商品のほうが価値が高かった)と考えられている。
…というわけで、交易の中継地点ではあるが、人はほぼ通り過ぎていくだけの場所となる。末端消費地となる大都市ほどの人口はいない。食料など生活に必要なもののほとんどが、他からの輸入に頼っていたはずである。
そんな場所で大量のペットが飼われていた理由が分からない。
理由として考えられるのは、たとえば「大事な穀物を守るための番人としての猫」だ。
船にはネズミがつきもの。港町ともなれば、ネズミの害は日常茶飯事だったはずで、しかも穀物は他所から運んでくる貴重なものだった。
となればネズミを追う猫が大事にされるのも判らなくもないし、飼われ続けた理由は説明がつけられそうだ。ただ、数が多すぎる。そして、埋葬されているものの多くが年老いた猫だという点も気にかかる。世代交代をしていたのなら、若い猫も多くなりそうだが…。
このペット墓が作られた時点で、ベレニケ港はまだ数百年しか使われていなかった。しかもメインの貿易港になってからの期間もそう長くない。この間に600匹の老齢のペットが出るということは、常に百匹以上の猫を飼ってるような状態を維持しなければ無理ではないか。
そうすると、もう一つの理由として「実は猫も輸出品目の一つだった」という可能性はないだろうか。
飼い猫の起源地はエジプトか、その周辺の東地中海沿岸と考えられている。当時のインドにはまだほとんど居ない。となれば、商品価値はあったと思うのだ。
各船に猫を乗せて船上でのネズミの被害を防ぐついでに、行った先で売れそうなら商品としても売る。そのために人工的に繁殖させていたのだとすれば、ベレニケ港に大量に猫がいた理由も、年老いた猫の埋葬が多い理由も説明がつきそうに思う。ただし、これは今のところ思い付きの域を出ない。
ただ、全く根拠のない話でもない。
ローマ支配時代以前のベレニケ港には、既に、珍しい動物を飼育するという施設が備わっていたからだ。
まずこちらが、プトレマイオス朝時代にアフリカゾウを輸入していた施設の跡。
カルタゴがローマを攻める際に使ったゾウの少なくとも一部は、エジブトからの提供だった。
古代エジプトが輸入する戦象を警護していた? 紅海/ベレニケ港の近くで砦が発見される
https://55096962.seesaa.net/article/201901article_15.html
また、狒々の輸入の中継地点もベレニケだったようで、ここから見つかった狒々の骨を使って、具体的にアフリカのどのへんと交易していたのか探り出そうという研究もある。
ミイラから調べるプントの国/古代エジプトの狒々のミイラから輸入元が調査される
https://55096962.seesaa.net/article/202012article_15.html
ベレニケという港街は不思議な遺跡で、人間の暮らしぶりよりも、動物の墓や遺骸の発見のニュースがよく出て来る。今回の「ペットの墓」もそうだ。
海路で輸入された動物はまずこの港におろされ、ここからナイル渓谷へと陸路で運ばれていった。その逆もまた然りだ。もしかしたらこの猫たちは、港で人間を眺めて暮らすだけではなく、かつて船に載せられて旅をした"船員"たちだったのかもしれない。
当初はゴミ捨て場に集められた動物の骨、という認識だったのだが、よく調べてみると首輪をつけていたり、ほとんどの動物が老齢だったりと、どうもペットとして飼われていたのではという説が出て来た。
このニュースがちょっと引っかかっていた。
古代にペットという概念は薄く、もしあったとしても、生活に余裕がないと娯楽で動物を飼うということは出来ない。しかしここは地中海とインドを結ぶ海上交易路の中継地点。ヘンピな港町で、町の周囲は砂漠と海しかないようなところである。道楽でペットを飼うような貴族はいないし、豪華な邸宅のようなものも見つかっていない。もし裕福な商人などがいたとしても、数があまりに多すぎるのだ。ほぼ猫で、しかも600匹。
今回のペットの墓は紀元後1~2世紀の、エジプトがローマ支配下にあった時代のもののようだが、この港町はその後、3世紀頃に一時衰退、4世紀頃から盛り返すものの、その後の数世紀のうちに放棄されてしまう。
つまり使われた時代はそう長くはないわけで、一体どれだけの数の猫を同時に飼育していたのか、と疑問にもなる。
Graves of nearly 600 cats and dogs in ancient Egypt may be world’s oldest pet cemetery
https://www.sciencemag.org/news/2021/02/graves-nearly-600-cats-and-dogs-ancient-egypt-may-be-world-s-oldest-pet-cemetery
585匹ものネコやイヌなどの動物が埋葬された2000年前の「ペットのお墓」が発見される
https://gigazine.net/news/20210310-oldest-pet-cemetery/
まず基本情報。
この町は、プトレマイオス朝初期の王、プトレマイオス2世によって紀元前3世紀半ばに築かれた。
町の名前は、王の母ベレニケに由来する。プトレマイオス朝時代には、ここから南進してエチオピアを通じてアフリカ内陸部との交易がおこなわれていた。ローマが支配する時代になると、今度はインドとの香辛料交易のほうがメインになっていく。
港の位置は↓の地図で黒い四角で囲ったところ。
もっと北にあるMios hormosがメイン港だった時代もあり、ベレニケがメインの貿易港となるのは、ローマ支配時代が始まってから少し経った頃とされる。
ローマ/ギリシャ/エジプト側からの輸出は地中海産のオリーブオイル、ワイン、織物、鉄、エジプト産のガラス製品やアラバスターなどの石材、紅海産のサンゴなど。ベレニケは、近くに緑色の宝石ペリドットの産地があり、サンゴとあわせて交易品の生産地も兼ねていた。
インドからは香辛料やラピスラズリ、宝石類、一部は東南アジアの香辛料や、中国から経由してきた東方の品などが輸入されていたようだが、この交易はインド側が有利(インド側の商品のほうが価値が高かった)と考えられている。
…というわけで、交易の中継地点ではあるが、人はほぼ通り過ぎていくだけの場所となる。末端消費地となる大都市ほどの人口はいない。食料など生活に必要なもののほとんどが、他からの輸入に頼っていたはずである。
そんな場所で大量のペットが飼われていた理由が分からない。
理由として考えられるのは、たとえば「大事な穀物を守るための番人としての猫」だ。
船にはネズミがつきもの。港町ともなれば、ネズミの害は日常茶飯事だったはずで、しかも穀物は他所から運んでくる貴重なものだった。
となればネズミを追う猫が大事にされるのも判らなくもないし、飼われ続けた理由は説明がつけられそうだ。ただ、数が多すぎる。そして、埋葬されているものの多くが年老いた猫だという点も気にかかる。世代交代をしていたのなら、若い猫も多くなりそうだが…。
このペット墓が作られた時点で、ベレニケ港はまだ数百年しか使われていなかった。しかもメインの貿易港になってからの期間もそう長くない。この間に600匹の老齢のペットが出るということは、常に百匹以上の猫を飼ってるような状態を維持しなければ無理ではないか。
そうすると、もう一つの理由として「実は猫も輸出品目の一つだった」という可能性はないだろうか。
飼い猫の起源地はエジプトか、その周辺の東地中海沿岸と考えられている。当時のインドにはまだほとんど居ない。となれば、商品価値はあったと思うのだ。
各船に猫を乗せて船上でのネズミの被害を防ぐついでに、行った先で売れそうなら商品としても売る。そのために人工的に繁殖させていたのだとすれば、ベレニケ港に大量に猫がいた理由も、年老いた猫の埋葬が多い理由も説明がつきそうに思う。ただし、これは今のところ思い付きの域を出ない。
ただ、全く根拠のない話でもない。
ローマ支配時代以前のベレニケ港には、既に、珍しい動物を飼育するという施設が備わっていたからだ。
まずこちらが、プトレマイオス朝時代にアフリカゾウを輸入していた施設の跡。
カルタゴがローマを攻める際に使ったゾウの少なくとも一部は、エジブトからの提供だった。
古代エジプトが輸入する戦象を警護していた? 紅海/ベレニケ港の近くで砦が発見される
https://55096962.seesaa.net/article/201901article_15.html
また、狒々の輸入の中継地点もベレニケだったようで、ここから見つかった狒々の骨を使って、具体的にアフリカのどのへんと交易していたのか探り出そうという研究もある。
ミイラから調べるプントの国/古代エジプトの狒々のミイラから輸入元が調査される
https://55096962.seesaa.net/article/202012article_15.html
ベレニケという港街は不思議な遺跡で、人間の暮らしぶりよりも、動物の墓や遺骸の発見のニュースがよく出て来る。今回の「ペットの墓」もそうだ。
海路で輸入された動物はまずこの港におろされ、ここからナイル渓谷へと陸路で運ばれていった。その逆もまた然りだ。もしかしたらこの猫たちは、港で人間を眺めて暮らすだけではなく、かつて船に載せられて旅をした"船員"たちだったのかもしれない。