近代文学者に学ぶ、知的に見える煽りとは。ジョナン・スウィフト「書物合戦」
かつてSNSのようにダイレクトに言論を発信するツールがなく、しかも出版などという行為が限られた人のものであった時代、文筆家はいかにして自分のあふれ出る思いをより多くの人々に届けるかに頭を悩ませていた。今も駅前で怪文書を配っている人がたまにいるが、それは明治時代あたりからタイムスリップしてきた人かもしれない。
そして敵対する誰かを煽りたい、口撃したいと思っても、手段と機会が限られるため、少ない回数でいかに念入りに煽り倒すかに先鋭化され、結果として、作家が自分の作品の中で嫌いな批評家をいじり倒す、というような現象が起きていた。
これはそんな作品のうちの一つ、かつ最も酷いものの一例だろうと思う。

書物合戦・ドレイピア書簡―ほか3編 (1968年)
*自分が読んだのはこちらだが…

桶物語・書物戦争 他一篇 (岩波文庫) - ジョナサン スウィフト, Swift,Jonathan, 弘三, 深町
*最近のだとこう。
「書物合戦」で翻訳されているものと、「書物戦争」で翻訳されているものがあるが、どちらも同一。
これは、「ガリバー旅行記」で知られ、政治的な論客でもあったジョナサン・スウィフトによる、あらゆる知識と言語スキルを煽りのために投入したプロの犯行的なクソ文学である。これはひどい。心の底から言える。いや、ていうか知的な言葉の装飾をここまであおりに使う人あんま見たことねーわ…。
この書きっぷり。
純文学と見せかけて言ってることは「知識のうっすい奴は慎重に振る舞わんとすぐ化けの皮剥がされるで(鼻ホジ)」なんである。煽りの意味が分かると「ああ…うん…なるほど。馬鹿にされてる方は直ぐには気づかなさそうだなこれ…」みたいなもにょる気分にさせられる。
そんな彼が「書物合戦」の中でやり玉に挙げているのは、リチャード・ベントリという人物だ。作品の舞台はセント・ジェイムズ王立図書館。当時は「古代派」と「近代派」という派閥の争いがあり、前者は古代ギリシャなどはるか古代から脈々と受け継がれてきた古典的な書物に価値を置き、後者は近代に書かれた新しい価値観や科学の書物を重視する。
これは現代の愛書家の中でも、古典文学を絶賛し近代の小説は全部紙屑だと思っている人と、ラノベや近代文学を好むが古典文学は退屈だと思っている人がいるのと同じ構図だ。
そしてベントリ氏は近代派、スウィフトは古典派だったようなのだ。
かくて図書館内では、図書館内で最良の場所である「パルナソス山の高峰」を明け渡せと迫る近代文学や哲学の本たちと、そうはいかぬと迎え撃つ古典的な書物たちが、バトルを繰り広げることになるのである…。
著者同士が本から出て来てバトルしているので、文豪ストレイドッグス感がある。(笑)
もうちょっと文章軽くしたらなろうとかにありそうな二次創作ジャンルの小説かな…。
そして著者は近代派を、特にその筆頭であるベントリをけちょんけちょんにすることしか考えていないので、文学作品という体裁はとりつくろいつつ、全体が酷い煽りに満ちている。
この作品には欠落部分があり、結末部分も途切れてはいるのだが、現代の図書館を見るに、この"合戦"の結末はまだついていないのだろう。そう、おそらくは休戦状態のまま、どちらの本も同じ箱の中に納まっている。ただし本屋については…言わずもがな、古典文学なんておいてる町の本屋さんはない。まあそういうことだ。名前は知ってるけど読んだことがない名著名作の数は尽きない。
現代は、一生のうちに読み切れないほどの本が次々と出版される時代なのだ。どの本を図書館に入れるか、は重要な問題だが、「どの本を読むか」もまた、読者にとっては悩ましく…、限られた人生の時間では、足りない場合もあるのである。
そして敵対する誰かを煽りたい、口撃したいと思っても、手段と機会が限られるため、少ない回数でいかに念入りに煽り倒すかに先鋭化され、結果として、作家が自分の作品の中で嫌いな批評家をいじり倒す、というような現象が起きていた。
これはそんな作品のうちの一つ、かつ最も酷いものの一例だろうと思う。

書物合戦・ドレイピア書簡―ほか3編 (1968年)
*自分が読んだのはこちらだが…

桶物語・書物戦争 他一篇 (岩波文庫) - ジョナサン スウィフト, Swift,Jonathan, 弘三, 深町
*最近のだとこう。
「書物合戦」で翻訳されているものと、「書物戦争」で翻訳されているものがあるが、どちらも同一。
これは、「ガリバー旅行記」で知られ、政治的な論客でもあったジョナサン・スウィフトによる、あらゆる知識と言語スキルを煽りのために投入したプロの犯行的なクソ文学である。これはひどい。心の底から言える。いや、ていうか知的な言葉の装飾をここまであおりに使う人あんま見たことねーわ…。
"薄皮を一枚しか取れない頭脳がある。こういう頭脳の持ち主は、これを慎重に収集し、この僅かな蓄えを大切に扱うことだ。(中略) 知識を持たぬ機智は一種のクリームで、一晩で上部に凝集し、巧者の手に掛かって忽ち笞(むち)をくらい、泡となる。しかし一度薄皮を取り去れば、その下にあるとみえるものも、豚に呉れてやる以外何の役にもたちそうもない。"
この書きっぷり。
純文学と見せかけて言ってることは「知識のうっすい奴は慎重に振る舞わんとすぐ化けの皮剥がされるで(鼻ホジ)」なんである。煽りの意味が分かると「ああ…うん…なるほど。馬鹿にされてる方は直ぐには気づかなさそうだなこれ…」みたいなもにょる気分にさせられる。
そんな彼が「書物合戦」の中でやり玉に挙げているのは、リチャード・ベントリという人物だ。作品の舞台はセント・ジェイムズ王立図書館。当時は「古代派」と「近代派」という派閥の争いがあり、前者は古代ギリシャなどはるか古代から脈々と受け継がれてきた古典的な書物に価値を置き、後者は近代に書かれた新しい価値観や科学の書物を重視する。
これは現代の愛書家の中でも、古典文学を絶賛し近代の小説は全部紙屑だと思っている人と、ラノベや近代文学を好むが古典文学は退屈だと思っている人がいるのと同じ構図だ。
そしてベントリ氏は近代派、スウィフトは古典派だったようなのだ。
かくて図書館内では、図書館内で最良の場所である「パルナソス山の高峰」を明け渡せと迫る近代文学や哲学の本たちと、そうはいかぬと迎え撃つ古典的な書物たちが、バトルを繰り広げることになるのである…。
著者同士が本から出て来てバトルしているので、文豪ストレイドッグス感がある。(笑)
もうちょっと文章軽くしたらなろうとかにありそうな二次創作ジャンルの小説かな…。
"次にアリストテレス、雄雄しき様に進み来るベーコンを見るや、頭めがけて弓を引き絞り、ひょうと放つ。と、この雄雄しき近代人を逸れて、頭上唸りを上げて飛び去ったが、デカルトに当たった。鋼の鏃(やじり)は忽ち兜の欠陥を見抜き、革と厚紙を貫いて右眼に突き刺さる。"
そして著者は近代派を、特にその筆頭であるベントリをけちょんけちょんにすることしか考えていないので、文学作品という体裁はとりつくろいつつ、全体が酷い煽りに満ちている。
"というのも、彼らは頭が軽いから、空想に置いては驚くほど俊敏、どんな高い山でも登れると考えるが、いざ実行の段になると、尻と踵あたりにひどい重みを発見する次第。かくて計画が失敗に終わると、この失意の選手は古代派をひどく恨み、…"
この作品には欠落部分があり、結末部分も途切れてはいるのだが、現代の図書館を見るに、この"合戦"の結末はまだついていないのだろう。そう、おそらくは休戦状態のまま、どちらの本も同じ箱の中に納まっている。ただし本屋については…言わずもがな、古典文学なんておいてる町の本屋さんはない。まあそういうことだ。名前は知ってるけど読んだことがない名著名作の数は尽きない。
現代は、一生のうちに読み切れないほどの本が次々と出版される時代なのだ。どの本を図書館に入れるか、は重要な問題だが、「どの本を読むか」もまた、読者にとっては悩ましく…、限られた人生の時間では、足りない場合もあるのである。