そもそもイスラーム圏とはどこなのか。「サウジアラビア 『イスラーム世界の盟主』の正体」
何も考えずに手にとって読み始めると、意外に面白いことがある。これもそういう本だった。
サウジアラビアといえば「よく分からんイスラームに厳しい国」、そして「最近ようやく外国人観光客を入れ始めたばかり」、「自称イスラム世界の盟主」。そういった一般的なイメージに対して、実際はそれらが何を指しているのか、どういう意味なのか、というのをとてもわかり易く噛砕いて説明してくれている。

サウジアラビア―「イスラーム世界の盟主」の正体 (中公新書, 2670) - 高尾 賢一郎
まず一番、目からウロコだったのが、「イスラーム世界の盟主とはいうが、そもそもイスラーム世界ってどこからどこまでだよ」という話。
現代において、イスラム教徒が過半数を占める国は、アフリカからアジアまで広がっている。サウジアラビアが中国を批判していた理由が「中国国内のイスラム教徒を弾圧している」だったことからも判るように、彼らにとってはウイグルのような地域も「イスラーム世界」の一部と認識されている。
そしてそもそも、イスラームの教義における神は絶対の存在であり、世界の創造主である。この世界は全てアッラーのたなごころの中にあることになっている。
だとすれば、実はサウジアラビアが目指すイスラーム世界、とは、「現実世界のすべて」ではないのか、という。
これは、言われてみると、あーなるほどなーと思うところも多々あった。
サウジアラビアが目指す「正しいイスラム教」=こう生きるべき、という正しい生き方=全ての人が従うべき善の規範、みたいな広い概念だと考えると、たまにサウジの人が言う「日本人は宗教は違うがイスラームの目指す生き方に近い」というような評価も判るんである。宗教という概念よりは道徳の概念に近い。最も道徳的な国でありたい、とも言えるかもしれない。
また、イスラーム世界の中でサウジアラビアが特殊に観られるゆえんは、ヨーロッパ発祥の「近代国家」のガワを持っていないからだ、というのも納得した。オスマントルコはヨーロッパ各国に解体され、トルコやシリア、エジプトなどサウジ近辺の国々は、すべて一度ヨーロッパ列強の属国として、ヨーロッパ式に国家を樹立させられるという段階を踏んできた。しかしサウジはそうではなかった。
なので、ある意味で「ガラパゴス国家」のまま、現代まで続いてきたのだという。
確かに、近代以前の国家であれば、宗教的な権威と結託した絶対権力である「国王」が国を取り仕切るのも、宗教によって国民を一つにまとめるのも、別に珍しくは無かった。21世紀の現代までその仕組みのまま来ているから奇妙に映るだけなのだ。
そんなサウジアラビアは、最近では女性の科学者や政治家が出てきたり、オリンピックにも女性選手を出してきたりと、少しずつ変わろうと、あるいは「変わったことをアピールしようと」務めている。観光客を受け入れるようになったのも、イスラームと無縁のナバテア文明の遺跡をアピールしはじめたのもその流れの上に位置する。彼らなりに、今までの伝統の枠組みは変えたくはないけど近代国家として周囲に溶け込みたい、というような考えがあるのだ。
なんとなく、明治に入った頃の日本の背伸びに似ていると思えば、ちょっと微笑ましい。
ただ、サウジアラビアは石油産出国である。
ために製造業など産業が育ちにくい。女性の社会進出も進まず、税金などは石油でもうけた分を回しているからお金の流動性も少ない。経済面では、なかなか他国のような市場が育ちにくい構造になっているらしい。ある意味で「持てる者の憂鬱」とでも言うべきか。
国民全体が裕福で、ブルーカラー的な仕事は外国人の出稼ぎ労働者にやらせている世界というのも独特だし、いつか石油の価値が下がったり枯渇したりすると大変だろうな…とは思う。
また、かつて自国から過激派テロリストを出してしまったこともあり、「正しい」イスラームとは何か、の舵取りに苦心しているというのも興味深い話だと思った。イスラーム世界の盟主を名乗り、正しいイスラームを掲げるからには、「正しい」とは何なのか、ウサーマ・ビン・ラーディンやイスラム国のような望ましくないイスラームを排除するにあたり、何を根拠に自分たちは違うのだと証明するのかを示さなければならない。
これは、最近でいえばフェミニストやヴィーガンなどが、基本的には同じ方向を目指していながら過激な言動をする同胞の扱いに苦心しているのにも通じるかもしれない。やろうとしていることは同じだし、突き詰めていけば結局は同じ穴の狢なのだが、望ましくないとみなした人物に徹底的な攻撃を仕掛けたり、農場に放火するなどの犯罪行為に走る相手を仲間とは認められない。
「寛容」を標語として掲げたサウジアラビアの選択は理にかなっているし、望ましくない集団と自分たちを分けるためにラインを引くのに苦心した裏事情も、うっすら透けて見える。
変革を望むサウジアラビアは、果たして今後、どうなっていくのか。
かつて当たり前だったサンダルがスニーカーに置き換えられていってるという話を読んで、文明開化後の日本のことをちょっと思い浮かべてみたりもしながら、読み終えた本を手に東海道線を降りたのであった。
サウジアラビアといえば「よく分からんイスラームに厳しい国」、そして「最近ようやく外国人観光客を入れ始めたばかり」、「自称イスラム世界の盟主」。そういった一般的なイメージに対して、実際はそれらが何を指しているのか、どういう意味なのか、というのをとてもわかり易く噛砕いて説明してくれている。

サウジアラビア―「イスラーム世界の盟主」の正体 (中公新書, 2670) - 高尾 賢一郎
まず一番、目からウロコだったのが、「イスラーム世界の盟主とはいうが、そもそもイスラーム世界ってどこからどこまでだよ」という話。
現代において、イスラム教徒が過半数を占める国は、アフリカからアジアまで広がっている。サウジアラビアが中国を批判していた理由が「中国国内のイスラム教徒を弾圧している」だったことからも判るように、彼らにとってはウイグルのような地域も「イスラーム世界」の一部と認識されている。
そしてそもそも、イスラームの教義における神は絶対の存在であり、世界の創造主である。この世界は全てアッラーのたなごころの中にあることになっている。
だとすれば、実はサウジアラビアが目指すイスラーム世界、とは、「現実世界のすべて」ではないのか、という。
これは、言われてみると、あーなるほどなーと思うところも多々あった。
サウジアラビアが目指す「正しいイスラム教」=こう生きるべき、という正しい生き方=全ての人が従うべき善の規範、みたいな広い概念だと考えると、たまにサウジの人が言う「日本人は宗教は違うがイスラームの目指す生き方に近い」というような評価も判るんである。宗教という概念よりは道徳の概念に近い。最も道徳的な国でありたい、とも言えるかもしれない。
また、イスラーム世界の中でサウジアラビアが特殊に観られるゆえんは、ヨーロッパ発祥の「近代国家」のガワを持っていないからだ、というのも納得した。オスマントルコはヨーロッパ各国に解体され、トルコやシリア、エジプトなどサウジ近辺の国々は、すべて一度ヨーロッパ列強の属国として、ヨーロッパ式に国家を樹立させられるという段階を踏んできた。しかしサウジはそうではなかった。
なので、ある意味で「ガラパゴス国家」のまま、現代まで続いてきたのだという。
確かに、近代以前の国家であれば、宗教的な権威と結託した絶対権力である「国王」が国を取り仕切るのも、宗教によって国民を一つにまとめるのも、別に珍しくは無かった。21世紀の現代までその仕組みのまま来ているから奇妙に映るだけなのだ。
そんなサウジアラビアは、最近では女性の科学者や政治家が出てきたり、オリンピックにも女性選手を出してきたりと、少しずつ変わろうと、あるいは「変わったことをアピールしようと」務めている。観光客を受け入れるようになったのも、イスラームと無縁のナバテア文明の遺跡をアピールしはじめたのもその流れの上に位置する。彼らなりに、今までの伝統の枠組みは変えたくはないけど近代国家として周囲に溶け込みたい、というような考えがあるのだ。
なんとなく、明治に入った頃の日本の背伸びに似ていると思えば、ちょっと微笑ましい。
ただ、サウジアラビアは石油産出国である。
ために製造業など産業が育ちにくい。女性の社会進出も進まず、税金などは石油でもうけた分を回しているからお金の流動性も少ない。経済面では、なかなか他国のような市場が育ちにくい構造になっているらしい。ある意味で「持てる者の憂鬱」とでも言うべきか。
国民全体が裕福で、ブルーカラー的な仕事は外国人の出稼ぎ労働者にやらせている世界というのも独特だし、いつか石油の価値が下がったり枯渇したりすると大変だろうな…とは思う。
また、かつて自国から過激派テロリストを出してしまったこともあり、「正しい」イスラームとは何か、の舵取りに苦心しているというのも興味深い話だと思った。イスラーム世界の盟主を名乗り、正しいイスラームを掲げるからには、「正しい」とは何なのか、ウサーマ・ビン・ラーディンやイスラム国のような望ましくないイスラームを排除するにあたり、何を根拠に自分たちは違うのだと証明するのかを示さなければならない。
これは、最近でいえばフェミニストやヴィーガンなどが、基本的には同じ方向を目指していながら過激な言動をする同胞の扱いに苦心しているのにも通じるかもしれない。やろうとしていることは同じだし、突き詰めていけば結局は同じ穴の狢なのだが、望ましくないとみなした人物に徹底的な攻撃を仕掛けたり、農場に放火するなどの犯罪行為に走る相手を仲間とは認められない。
「寛容」を標語として掲げたサウジアラビアの選択は理にかなっているし、望ましくない集団と自分たちを分けるためにラインを引くのに苦心した裏事情も、うっすら透けて見える。
変革を望むサウジアラビアは、果たして今後、どうなっていくのか。
かつて当たり前だったサンダルがスニーカーに置き換えられていってるという話を読んで、文明開化後の日本のことをちょっと思い浮かべてみたりもしながら、読み終えた本を手に東海道線を降りたのであった。