チリ(4) 島の内部へ
夜明けが見たくて、朝早く起きだす。
島に街灯はほとんどなく、あっても停電してたり電球切れてたり。日の出前の宿の前の道はこんなかんじで真っ暗だ。今の日本ではほとんど見ることのできない「漆黒の夜」が、この島には存在する。ヘッドランプ片手に、道の真中でつったって寝てる馬や牛にガン見されながら、海岸へ向かう。
ガチでなんもみえません
空港近く夜の間に少し雨が降ったらしく濡れた未舗装道路。
島の道は、村の中いがいは未舗装で、かなりガタガタ。アスファルト舗装されてる道も少しはあるが、アスファルトがチリ本土からの輸入で高いため舗装が薄く、すぐに雨で流れてしまうんだとか。
夜明けの空に流れる雲を見ながら、だーれもいない道を歩いていると楽しくなってくるのが冒険者心。イースター島といえば夕焼けの写真が多いけど、私は夜明けのほうが好きだ。
動いているのは早起きな一部の島民とわんこだけ。

西の海に沈もうとしている満月。
西の空アナ・カイ・タンガタという洞窟に続く海沿いの崖の上で、風に吹かれながら沈んでいく満月を眺める。背後からは夜明けの色が迫ってくる。
このへんはほんとなんもなくて、海に突き出す崖の上はただの草っぱらで伝燈も柵もなし。空と、海と、遠くに村があるだけ。誰も見てない、誰も来ないので、大声で歌おうが服を脱ごうが寝っ転がろうがフリーダム。その気になれば、大自然を思う存分に味わうことのできる島でもある。
…ただし、崖から転落したり海で溺れたりしても、人いないんで助けはこない。村を離れると人間は全く存在しないので道に迷っても誰も助けてくれないし、島にいちおう病院はあるけど大怪我をしたら本土から救援くるのに往復十時間以上。
完全に自己責任です。

島で調子ぶっこいてはっちゃけて、そのまま行方不明になったまま現在も見つかってない人がたまーにいるらしいんで。。。
まぁな、こんだけ大自然フリーダムだと、そりゃ見つかんないよね。
夜が開けたので観光に向かう。
まず向かったのはモアイ像の頭に載っている赤い石「プカオ」を切り出す場所、プナ・パウ。

ごろごろ転がっている巨大なプカオがすり鉢状の穴の中に転がっているが、最初から凹んでいたわけではなく、プカオ切り出しすぎて凹んだんじゃないかとの説がある。まぁ穴の中で石を切り出して、穴の外まで運ぶの大変だからね…。
そこらじゅうに未完成のプカオが転がっているが、ぱっと見はただの「赤い丸い石」にしか見えない。
ちなみに島ではほかにも赤い石が取れる場所はあるのに、プカオの切り出しは必ずここと決まっていたようだ。理由については諸説あるが、私は、単にプカオを切り出す専門の職人が集住していたのがこのへんだったからなんだと思っている。
モアイもプカオも、それを作る専門の職人集団がいて、各村から発注を受けて仕事をしていた。モアイをきりだすラノ・ララク山には職人の住んだ家があり、文章記録はないものの、職人に食料などを提供して像を作ってもらっていた口伝があるそうだ。作ってる途中で放棄されたモアイが山ほど残っているのは、モアイ倒し戦争が始まって発注が全キャンセルされてしまったからということのようだ。
アフ・アキビこちらは有名なアフ・アキビのモアイ。
海を見て立っているモアイと紹介されることが多いが、ぶっちゃけ島は360度が海に囲まれているので、どっち向いても海だったりする。

だからまぁ、海を見ていることにはたぶんあんまり意味はない。
内陸に建てられたモアイは全て海を向いているというのが正解。
建てられた時期もモアイづくりの後期なので、島の開祖ホツ・マツア王の七人の使者を表しているとか、最初の入植者がここに埋葬されたという説も後付なんじゃないかと思う。今に辿り着いた人間が最初に集落を作るなら、海沿いで上陸しやすい海岸の近くだと思うんだよ。この場所は内陸過ぎるし海岸からも遠い…。

間近で見上げるアフ・アキビのモアイたち。
島のモアイは一体を除きすべてモアイ倒し戦争で一度は倒されており、破損しているものが少なくない。これらのモアイのいくちかも、倒されたときに首が折れていて、コンクリか何かで固めてある。
ちなみに、モアイは目をはめこんではじめて「完成」となる。
目を入れるのは台座となっている石組み「アフ」に設置したあとで、目を入れるときに目の部分を深く掘り下げる。なのでアフの周囲に転がっているモアイで、目の部分があまり深く掘られていないものは、運んでいる最中に放棄されて完成しなかったものと判斷することができる。

ここの七体はいずれも目の部分が深く繰り抜かれているため、目が入れられて一度は完成していたことが分かる。
モアイの目の部分は「マナ」と呼ばれていて、実物はほとんど残っていないが、島にあるイースター島博物館で実物を見ることができる。
目の部分も石で出来ているが、島にはコンクリやアスファルトのような接着剤になる資源がないため、「はめこみ式」で装着させていたという。
だから、モアイが若干上向きで立っているのは、エライ人をかたどったから見下しているわけではなくて、はめ込んだ目が落ちないようにという実利的な意味もあった。当然、モアイ倒し戦争でモアイを倒せば目はころーんと落ちちゃう。それで残ってないということだ…。
ちなみに、ここのアフの裏は、発掘すると火葬された大量の人骨が出てきたのだそうだ。
モアイ像は基本、お墓として作られた石組の上に建てられるものなので、それ自体は珍しくはない。ただ、それらの人骨が火葬されていたことには重要な意味がある。居住者たちが火葬の文化を持っていたとううことは、つまり彼らの故郷は、湿気が高く、遺体が腐敗しやすい/かつ木材が豊富だった可能性が高いということだ。(これはポリネシアから来たという遺伝子解析の結果と一致する)
また、遺体の火葬のためには大量の燃料を必要とするため、島にあった唯一の燃料である木材が大量に消費し続けられただろうということもポイント。通常イースター島の木はモアイ像を作りすぎて使い果たさせれたと言われているが、火葬の文化があったなら、埋葬のためにも大量に使われ、それも大きな原因になった可能性がある。そして島は非常に風が強い。火葬の火が飛んで山火事が発生したりしたら、島の大半の木が一日で全滅するようなことも起き得ると思う。表土の流出が激しいこの島では、昔の火事のあとなんかは何も出てこないとは思うけど、島の歴史を考えるうえで「火葬」はキーワードとして覚えておかなくてはいけないことだと思う。
アフ・アキビの近くには、かつて住居に使われていたという洞窟「アナ・テ・パフ」がある。

ここは、まったく人の手をくわえていない天然の洞窟だ。
島の人が住居にこだわらないのは、この当時からの伝統らしい。中は至ってシンプル。入口近くに竈と。岩を積んでつくったベッドらしきものがある意外はなーんもない。
これと同じようなものは島中に何百とあり、そのうちのいくつかは今でも発見されていないだろうとのこと。火山から流れだした溶岩が固まったものが島の地面なので、内部は空洞が多い。ただし、島自体が若いこと、おそらく溶岩の成分にあんまりカルシウムなどが入っていないことから、洞窟の中に鍾乳石は一切ない。(部分的に3mmくらいの突起もあったが、それが鍾乳石なのか石自体がそんな感じなのかはよくわからなかった)
崩れた窪地のような場所は畑として使われており、今もかつての作物がそのまま育っている。

穴の深さは2mくらい。ばっなーな。
島中に自生している。
この穴の中の住居 兼 畑は、強い風と日光を防ぐ意味があったという。さいしょ、風が強いので畑が作りにくいという話を聞いてどんだけ風が強いんだろうと不思議に思っていたが、島に行ってみたら理解できた。なんていうか…、常に西部劇の草がコロコロしてるような状態の風なんだ…。
島は大きな木がなく、雨のたびに表土が流されて土地が痩せているので、穴の中でもないと栄養価のある土が保たれていないというのもあるかもしれない。

これはタロイモ? ヤムイモ?
とりあえずなんかイモなのは確か。雑草の中でたくましく自生している。
洞窟の奥には地下水が流れる場所があり、生活用水はそれでまかなっていたようだ。島に河川はないが、地下水脈が地表近くに出てくる場所があり、人はそこを基準に生活していたと思われる。

穴の中は、奥のほうまで行くと真っ暗。
ここでも登山用ヘッドライトが大活躍。
出入口が複数あるのは、モアイ倒し戦争や西洋人が奴隷を求めて来た時に逃走経路を残しておくためだったという説もあるらしい。たどっていって地上に出てみると、意外な場所に出てくる。出口がチョクで海につながっている洞窟もあった。
人の暮らした遺跡ではあるのだが、なんとも生活感のない洞窟だった。
ていうか普通、長年くらしてたら壁画描いてみるとか壁をなめらかにしてみるとか、装飾したくなると思うんだよねえ。そういうのが一切なし、もうほんとに洞窟+石積み だけ。島民は衣食住にあまり興味がなかったようだ。

これらの観光地では、おみやげ屋さんが店を開いている。
村の土産物屋で買うより少し安いらしい。手前の小さめの石のモアイは20ドル前後とそう高いものではない。モアイ像と同じ石材で作られているが、とても軽い火山岩で、長旅を持って帰るにはちょっと脆いかもしれない…。
西洋人な観光客の人たちはめっちゃ買い込んでいたが、私はなんとなくスルーしてしまった。ロンゴロンゴの板はちょっと欲しいかなーと思ったんだが…。
結局、小さな木彫りモアイ(7ドル)を2つ買って満足。
おみやげ屋さんは村にあるほか、空港にも少しある。
物価はそう高くはないし、ボッタくられることもないのでまぁお買い物したい人はそうこだわらずに見つけたところで買えばいいと思う。
島に街灯はほとんどなく、あっても停電してたり電球切れてたり。日の出前の宿の前の道はこんなかんじで真っ暗だ。今の日本ではほとんど見ることのできない「漆黒の夜」が、この島には存在する。ヘッドランプ片手に、道の真中でつったって寝てる馬や牛にガン見されながら、海岸へ向かう。
ガチでなんもみえません
空港近く夜の間に少し雨が降ったらしく濡れた未舗装道路。
島の道は、村の中いがいは未舗装で、かなりガタガタ。アスファルト舗装されてる道も少しはあるが、アスファルトがチリ本土からの輸入で高いため舗装が薄く、すぐに雨で流れてしまうんだとか。
夜明けの空に流れる雲を見ながら、だーれもいない道を歩いていると楽しくなってくるのが冒険者心。イースター島といえば夕焼けの写真が多いけど、私は夜明けのほうが好きだ。
動いているのは早起きな一部の島民とわんこだけ。

西の海に沈もうとしている満月。
西の空アナ・カイ・タンガタという洞窟に続く海沿いの崖の上で、風に吹かれながら沈んでいく満月を眺める。背後からは夜明けの色が迫ってくる。
このへんはほんとなんもなくて、海に突き出す崖の上はただの草っぱらで伝燈も柵もなし。空と、海と、遠くに村があるだけ。誰も見てない、誰も来ないので、大声で歌おうが服を脱ごうが寝っ転がろうがフリーダム。その気になれば、大自然を思う存分に味わうことのできる島でもある。
…ただし、崖から転落したり海で溺れたりしても、人いないんで助けはこない。村を離れると人間は全く存在しないので道に迷っても誰も助けてくれないし、島にいちおう病院はあるけど大怪我をしたら本土から救援くるのに往復十時間以上。
完全に自己責任です。

島で調子ぶっこいてはっちゃけて、そのまま行方不明になったまま現在も見つかってない人がたまーにいるらしいんで。。。
まぁな、こんだけ大自然フリーダムだと、そりゃ見つかんないよね。
夜が開けたので観光に向かう。
まず向かったのはモアイ像の頭に載っている赤い石「プカオ」を切り出す場所、プナ・パウ。

ごろごろ転がっている巨大なプカオがすり鉢状の穴の中に転がっているが、最初から凹んでいたわけではなく、プカオ切り出しすぎて凹んだんじゃないかとの説がある。まぁ穴の中で石を切り出して、穴の外まで運ぶの大変だからね…。
そこらじゅうに未完成のプカオが転がっているが、ぱっと見はただの「赤い丸い石」にしか見えない。
ちなみに島ではほかにも赤い石が取れる場所はあるのに、プカオの切り出しは必ずここと決まっていたようだ。理由については諸説あるが、私は、単にプカオを切り出す専門の職人が集住していたのがこのへんだったからなんだと思っている。
モアイもプカオも、それを作る専門の職人集団がいて、各村から発注を受けて仕事をしていた。モアイをきりだすラノ・ララク山には職人の住んだ家があり、文章記録はないものの、職人に食料などを提供して像を作ってもらっていた口伝があるそうだ。作ってる途中で放棄されたモアイが山ほど残っているのは、モアイ倒し戦争が始まって発注が全キャンセルされてしまったからということのようだ。
アフ・アキビこちらは有名なアフ・アキビのモアイ。
海を見て立っているモアイと紹介されることが多いが、ぶっちゃけ島は360度が海に囲まれているので、どっち向いても海だったりする。

だからまぁ、海を見ていることにはたぶんあんまり意味はない。
内陸に建てられたモアイは全て海を向いているというのが正解。
建てられた時期もモアイづくりの後期なので、島の開祖ホツ・マツア王の七人の使者を表しているとか、最初の入植者がここに埋葬されたという説も後付なんじゃないかと思う。今に辿り着いた人間が最初に集落を作るなら、海沿いで上陸しやすい海岸の近くだと思うんだよ。この場所は内陸過ぎるし海岸からも遠い…。

間近で見上げるアフ・アキビのモアイたち。
島のモアイは一体を除きすべてモアイ倒し戦争で一度は倒されており、破損しているものが少なくない。これらのモアイのいくちかも、倒されたときに首が折れていて、コンクリか何かで固めてある。
ちなみに、モアイは目をはめこんではじめて「完成」となる。
目を入れるのは台座となっている石組み「アフ」に設置したあとで、目を入れるときに目の部分を深く掘り下げる。なのでアフの周囲に転がっているモアイで、目の部分があまり深く掘られていないものは、運んでいる最中に放棄されて完成しなかったものと判斷することができる。

ここの七体はいずれも目の部分が深く繰り抜かれているため、目が入れられて一度は完成していたことが分かる。
モアイの目の部分は「マナ」と呼ばれていて、実物はほとんど残っていないが、島にあるイースター島博物館で実物を見ることができる。
目の部分も石で出来ているが、島にはコンクリやアスファルトのような接着剤になる資源がないため、「はめこみ式」で装着させていたという。
だから、モアイが若干上向きで立っているのは、エライ人をかたどったから見下しているわけではなくて、はめ込んだ目が落ちないようにという実利的な意味もあった。当然、モアイ倒し戦争でモアイを倒せば目はころーんと落ちちゃう。それで残ってないということだ…。
ちなみに、ここのアフの裏は、発掘すると火葬された大量の人骨が出てきたのだそうだ。
モアイ像は基本、お墓として作られた石組の上に建てられるものなので、それ自体は珍しくはない。ただ、それらの人骨が火葬されていたことには重要な意味がある。居住者たちが火葬の文化を持っていたとううことは、つまり彼らの故郷は、湿気が高く、遺体が腐敗しやすい/かつ木材が豊富だった可能性が高いということだ。(これはポリネシアから来たという遺伝子解析の結果と一致する)
また、遺体の火葬のためには大量の燃料を必要とするため、島にあった唯一の燃料である木材が大量に消費し続けられただろうということもポイント。通常イースター島の木はモアイ像を作りすぎて使い果たさせれたと言われているが、火葬の文化があったなら、埋葬のためにも大量に使われ、それも大きな原因になった可能性がある。そして島は非常に風が強い。火葬の火が飛んで山火事が発生したりしたら、島の大半の木が一日で全滅するようなことも起き得ると思う。表土の流出が激しいこの島では、昔の火事のあとなんかは何も出てこないとは思うけど、島の歴史を考えるうえで「火葬」はキーワードとして覚えておかなくてはいけないことだと思う。
アフ・アキビの近くには、かつて住居に使われていたという洞窟「アナ・テ・パフ」がある。

ここは、まったく人の手をくわえていない天然の洞窟だ。
島の人が住居にこだわらないのは、この当時からの伝統らしい。中は至ってシンプル。入口近くに竈と。岩を積んでつくったベッドらしきものがある意外はなーんもない。
これと同じようなものは島中に何百とあり、そのうちのいくつかは今でも発見されていないだろうとのこと。火山から流れだした溶岩が固まったものが島の地面なので、内部は空洞が多い。ただし、島自体が若いこと、おそらく溶岩の成分にあんまりカルシウムなどが入っていないことから、洞窟の中に鍾乳石は一切ない。(部分的に3mmくらいの突起もあったが、それが鍾乳石なのか石自体がそんな感じなのかはよくわからなかった)
崩れた窪地のような場所は畑として使われており、今もかつての作物がそのまま育っている。

穴の深さは2mくらい。ばっなーな。
島中に自生している。
この穴の中の住居 兼 畑は、強い風と日光を防ぐ意味があったという。さいしょ、風が強いので畑が作りにくいという話を聞いてどんだけ風が強いんだろうと不思議に思っていたが、島に行ってみたら理解できた。なんていうか…、常に西部劇の草がコロコロしてるような状態の風なんだ…。
島は大きな木がなく、雨のたびに表土が流されて土地が痩せているので、穴の中でもないと栄養価のある土が保たれていないというのもあるかもしれない。

これはタロイモ? ヤムイモ?
とりあえずなんかイモなのは確か。雑草の中でたくましく自生している。
洞窟の奥には地下水が流れる場所があり、生活用水はそれでまかなっていたようだ。島に河川はないが、地下水脈が地表近くに出てくる場所があり、人はそこを基準に生活していたと思われる。

穴の中は、奥のほうまで行くと真っ暗。
ここでも登山用ヘッドライトが大活躍。
出入口が複数あるのは、モアイ倒し戦争や西洋人が奴隷を求めて来た時に逃走経路を残しておくためだったという説もあるらしい。たどっていって地上に出てみると、意外な場所に出てくる。出口がチョクで海につながっている洞窟もあった。
人の暮らした遺跡ではあるのだが、なんとも生活感のない洞窟だった。
ていうか普通、長年くらしてたら壁画描いてみるとか壁をなめらかにしてみるとか、装飾したくなると思うんだよねえ。そういうのが一切なし、もうほんとに洞窟+石積み だけ。島民は衣食住にあまり興味がなかったようだ。

これらの観光地では、おみやげ屋さんが店を開いている。
村の土産物屋で買うより少し安いらしい。手前の小さめの石のモアイは20ドル前後とそう高いものではない。モアイ像と同じ石材で作られているが、とても軽い火山岩で、長旅を持って帰るにはちょっと脆いかもしれない…。
西洋人な観光客の人たちはめっちゃ買い込んでいたが、私はなんとなくスルーしてしまった。ロンゴロンゴの板はちょっと欲しいかなーと思ったんだが…。
結局、小さな木彫りモアイ(7ドル)を2つ買って満足。
おみやげ屋さんは村にあるほか、空港にも少しある。
物価はそう高くはないし、ボッタくられることもないのでまぁお買い物したい人はそうこだわらずに見つけたところで買えばいいと思う。